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第73話:揺れる心
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エリアーナ王女が提示した新たな取引。
それは俺の心に重い錨のように沈み込んだ。
「国家による、平穏の保証」
その言葉の響きは甘美だった。
家の前の行列も、似ていない俺のフィギュアも、全てがなくなる。
俺は誰にも邪魔されることなく、このカーム村でただの農夫アランとして、静かな余生を送ることができる。
それは俺がこの村に来てから、ずっと夢見てきた理想郷そのものだった。
だが、そのために支払うべき対価はあまりにも大きい。
「黄昏の蛇」の真の首領を討つ。
それはつまり、俺が捨てたはずの過去に再び、今度は自らの意志で足を踏み入れることを意味していた。
俺が最も忌み嫌う、血と陰謀と裏切りの世界へ。
「…少し、考えさせてくれ」
俺は絞り出すようにそう言った。
即答はできなかった。
「もちろんです」
エリアーナは優雅に頷いた。
「これはあなたにとっても、わたくしたちにとっても重要な決断です。どうぞ、ごゆっくりお考えください。わたくしは、あなたの答えをいつまでもお待ちしています」
彼女は俺の心が揺れていることを確信しているようだった。
その青い瞳には、交渉を有利に進める王族としての自信が満ち溢れていた。
エリアーナが去った後も、俺は縁側で一人、腕を組んだまま動けずにいた。
リリアとセレスティアも俺の苦悩を察してか何も言わず、ただ静かにそれぞれの場所で俺を見守っている。
(どうするべきだ…)
俺の頭の中で二つの選択肢が激しくせめぎ合う。
このまま王女の提案を断り、騒がしい日常に耐え続けるか。
あるいは一度だけ過去の亡霊に戻り、完璧な平穏を手に入れるか。
俺は自分の手のひらを見つめた。
土で汚れ、節くれだった農夫の手。
この手をもう二度と血で汚したくはない。
その思いは今も変わらない。
だが、今のこの日常は本当に「平穏」と呼べるのだろうか。
家の外に出れば好奇の視線に晒され、勝手に聖人として崇められる。
俺の意思とは関係なく、俺の物語が作られ、商品として消費されていく。
それは別の形の牢獄ではないのか。
俺は立ち上がり、畑へと向かった。
悩んだ時、迷った時、土に触れていると心が落ち着く。
俺は無心で雑草を抜き始めた。
ザリ、ザリ、と根が土から引き抜かれる音。
その単調な繰り返しが、俺の混乱した思考を少しずつ整理していく。
俺がこの村で手に入れたかったものは何だったのか。
それはただ静かなだけの孤独な生活ではなかったはずだ。
イーニッドさんの優しさ。
ドルガンの豪快な笑い声。
ティムの無邪気な笑顔。
そして、俺を「師匠」と慕うリリアの真っ直ぐな瞳。
そうだ。
俺が守りたかったのは、この村の人々との温かい繋がりだった。
俺が初めて手に入れた「帰る場所」だった。
今のこの状況は、その繋がりを脅かしているのではないか。
俺が「聖人アラン様」として祭り上げられることで、村人たちとの間に見えない壁が作られていく。
俺は彼らの隣人ではなく、崇拝の対象になってしまう。
それは俺が望んだ関係性ではない。
黄昏の蛇。
そして、商業ギルド。
形は違えど、どちらも俺の、そしてこの村の平穏を脅かす明確な「敵」だ。
俺がこのまま何もしなければ、この騒がしい日常は永遠に続くだろう。
そして、俺は本当の意味での平穏を二度と手に入れることはできないのかもしれない。
(…やるしかない、のか)
俺の中で天秤が、ゆっくりと、しかし確実に傾き始めていた。
一度だけ。
これが本当に最後の仕事だ。
この仕事を終わらせれば、俺は全ての過去と決別し、ただの農夫アランとしてこの村で生きていくことができる。
俺はクワを地面に突き立て、空を仰いだ。
夕焼けが空を美しく染めている。
その時だった。
村の入り口の方から、馬が駆けてくる激しい蹄の音が聞こえてきた。
それは一頭や二頭ではない。
少なくとも十頭以上の騎馬隊の音だった。
(…何だ?)
俺の心に新たな緊張が走る。
エリアーナが何か仕掛けてきたのか? いや、彼女はそんな性急な手は使わない。
丘の上から見下ろすと、砂埃を上げて村に駆け込んできたのは、王家の紋章を掲げた一団の騎士たちだった。
その先頭を走る騎士は顔面蒼白で、何かとてつもなく悪い知らせを運んできたという雰囲気を全身から発していた。
騎士はエリアーナが滞在する村長の家の前で馬から転がり落ちるように降り立つと、叫んだ。
「王女殿下! 申し上げます! 王都に…王都に、黄昏の蛇から、声明が!」
その言葉に、俺の心臓がドクリと大きく鳴った。
俺の決断をまるで嘲笑うかのように。
事態は俺の知らないところで、最悪の方向へと加速していたのだ。
俺は畑を飛び出し、村長の家へと全力で駆け出した。
揺れていた心が、一つの方向へと固まろうとしていた。
平穏はもはや誰かが与えてくれるものではない。
この手で掴み取るしかないのだ、と。
それは俺の心に重い錨のように沈み込んだ。
「国家による、平穏の保証」
その言葉の響きは甘美だった。
家の前の行列も、似ていない俺のフィギュアも、全てがなくなる。
俺は誰にも邪魔されることなく、このカーム村でただの農夫アランとして、静かな余生を送ることができる。
それは俺がこの村に来てから、ずっと夢見てきた理想郷そのものだった。
だが、そのために支払うべき対価はあまりにも大きい。
「黄昏の蛇」の真の首領を討つ。
それはつまり、俺が捨てたはずの過去に再び、今度は自らの意志で足を踏み入れることを意味していた。
俺が最も忌み嫌う、血と陰謀と裏切りの世界へ。
「…少し、考えさせてくれ」
俺は絞り出すようにそう言った。
即答はできなかった。
「もちろんです」
エリアーナは優雅に頷いた。
「これはあなたにとっても、わたくしたちにとっても重要な決断です。どうぞ、ごゆっくりお考えください。わたくしは、あなたの答えをいつまでもお待ちしています」
彼女は俺の心が揺れていることを確信しているようだった。
その青い瞳には、交渉を有利に進める王族としての自信が満ち溢れていた。
エリアーナが去った後も、俺は縁側で一人、腕を組んだまま動けずにいた。
リリアとセレスティアも俺の苦悩を察してか何も言わず、ただ静かにそれぞれの場所で俺を見守っている。
(どうするべきだ…)
俺の頭の中で二つの選択肢が激しくせめぎ合う。
このまま王女の提案を断り、騒がしい日常に耐え続けるか。
あるいは一度だけ過去の亡霊に戻り、完璧な平穏を手に入れるか。
俺は自分の手のひらを見つめた。
土で汚れ、節くれだった農夫の手。
この手をもう二度と血で汚したくはない。
その思いは今も変わらない。
だが、今のこの日常は本当に「平穏」と呼べるのだろうか。
家の外に出れば好奇の視線に晒され、勝手に聖人として崇められる。
俺の意思とは関係なく、俺の物語が作られ、商品として消費されていく。
それは別の形の牢獄ではないのか。
俺は立ち上がり、畑へと向かった。
悩んだ時、迷った時、土に触れていると心が落ち着く。
俺は無心で雑草を抜き始めた。
ザリ、ザリ、と根が土から引き抜かれる音。
その単調な繰り返しが、俺の混乱した思考を少しずつ整理していく。
俺がこの村で手に入れたかったものは何だったのか。
それはただ静かなだけの孤独な生活ではなかったはずだ。
イーニッドさんの優しさ。
ドルガンの豪快な笑い声。
ティムの無邪気な笑顔。
そして、俺を「師匠」と慕うリリアの真っ直ぐな瞳。
そうだ。
俺が守りたかったのは、この村の人々との温かい繋がりだった。
俺が初めて手に入れた「帰る場所」だった。
今のこの状況は、その繋がりを脅かしているのではないか。
俺が「聖人アラン様」として祭り上げられることで、村人たちとの間に見えない壁が作られていく。
俺は彼らの隣人ではなく、崇拝の対象になってしまう。
それは俺が望んだ関係性ではない。
黄昏の蛇。
そして、商業ギルド。
形は違えど、どちらも俺の、そしてこの村の平穏を脅かす明確な「敵」だ。
俺がこのまま何もしなければ、この騒がしい日常は永遠に続くだろう。
そして、俺は本当の意味での平穏を二度と手に入れることはできないのかもしれない。
(…やるしかない、のか)
俺の中で天秤が、ゆっくりと、しかし確実に傾き始めていた。
一度だけ。
これが本当に最後の仕事だ。
この仕事を終わらせれば、俺は全ての過去と決別し、ただの農夫アランとしてこの村で生きていくことができる。
俺はクワを地面に突き立て、空を仰いだ。
夕焼けが空を美しく染めている。
その時だった。
村の入り口の方から、馬が駆けてくる激しい蹄の音が聞こえてきた。
それは一頭や二頭ではない。
少なくとも十頭以上の騎馬隊の音だった。
(…何だ?)
俺の心に新たな緊張が走る。
エリアーナが何か仕掛けてきたのか? いや、彼女はそんな性急な手は使わない。
丘の上から見下ろすと、砂埃を上げて村に駆け込んできたのは、王家の紋章を掲げた一団の騎士たちだった。
その先頭を走る騎士は顔面蒼白で、何かとてつもなく悪い知らせを運んできたという雰囲気を全身から発していた。
騎士はエリアーナが滞在する村長の家の前で馬から転がり落ちるように降り立つと、叫んだ。
「王女殿下! 申し上げます! 王都に…王都に、黄昏の蛇から、声明が!」
その言葉に、俺の心臓がドクリと大きく鳴った。
俺の決断をまるで嘲笑うかのように。
事態は俺の知らないところで、最悪の方向へと加速していたのだ。
俺は畑を飛び出し、村長の家へと全力で駆け出した。
揺れていた心が、一つの方向へと固まろうとしていた。
平穏はもはや誰かが与えてくれるものではない。
この手で掴み取るしかないのだ、と。
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