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第92話:諜報員の真価
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第四階層へと続く螺旋階段。
そこは、第三階層の闘技場とは打って変わって、静寂に包まれていた。
だが、その静寂は、死のように冷たく、粘りつくようなプレッシャーを伴っていた。
俺とセレスティアは、互いの気配だけを頼りに、闇に覆われた階段を、慎重に登っていく。
俺の相手は、『疾風』のジン。
そして、セレスティアの相手は、『幻惑』のイリヤ。
俺たちは、互いの獲物を追って、螺旋階段の途中で、二手に分かれた。俺は上へ、セレスティアは、イリヤの気配を追って、階層の途中にある、横道へと。
セレスティアが足を踏み入れたのは、広大な書庫のような部屋だった。
天井まで届く本棚が迷路のように立ち並び、床には、羊皮紙の巻物が、無数に散乱している。空気は、古い紙の匂いと、甘い香水の匂いで満たされていた。
「あらあら。よく、わたくしの遊び場が分かりましたわね」
部屋の奥、巨大なステンドグラスを背にして、イリヤが、優雅な椅子に腰かけていた。その手には、ワイングラスが握られている。
「歓迎しますわ、裏切り者のセレスティア。あなたのような、美しい蝶を、わたくしのコレクションに加えるのが、待ちきれないわ」
その言葉と同時に、セレスティアの周囲の風景が、ぐにゃりと歪んだ。
本棚は溶けて、壁となり、床は底なしの沼へと変わる。
幻術。
イリヤの、最も得意とする戦術だった。
「…くだらない手品ね」
だが、セレスティアは、少しも動じなかった。
彼女は、目を閉じると、短く息を吐いた。そして、再び目を開けた時、彼女の瞳は、いつも以上に、冷たく、そして鋭い光を宿していた。
「あなたの幻術が、五感を騙すものだということは、調査済みよ。脳に直接作用する、高等な精神干渉。厄介ではあるけれど、弱点もまた、明確だわ」
セレスティアは、長剣を構えると、何もないはずの空間へと、一直線に突きを放った。
ガキン!
甲高い音が響き、彼女の剣は、見えない何かに弾かれる。
その瞬間、周囲の幻術が、一瞬だけ、砂嵐のように乱れた。
「あら、ご名答」
イリヤの声が、部屋の別の場所から聞こえてくる。
「わたくしの幻術は、術者であるわたくし自身が、中心にいる必要があるの。あなた、わたくしの位置を、どうやって?」
「情報よ」
セレスティアは、淡々と答えた。
「あなたの幻術の癖、魔力の波長、そして、あなたが好む香水の銘柄まで。あなたの全ては、私の頭の中にある」
彼女は、組織にいた頃から、イリヤの危険性を認識し、そのデータを、密かに収集し続けていたのだ。
情報戦。それこそが、諜報員セレスティアの、真の戦場だった。
「生意気な口を…!」
イリヤの口調から、初めて余裕が消えた。
周囲の幻術が、さらに強力になる。
セレスティアの足元から、無数の毒蛇が現れ、壁からは、燃え盛る炎が迫ってくる。
それは、並の人間なら、見ただけで発狂するほどの、悪夢の光景だった。
だが、セレスティアは、冷静だった。
彼女は、長年の訓練によって、自らの五感を、ある程度、コントロールすることができた。
『これは幻。現実ではない』
彼女は、心の中で、何度もそう繰り返す。
そして、視覚や聴覚から入ってくる偽りの情報ではなく、肌で感じる、僅かな空気の流れ、魔力の揺らぎだけを、頼りにしていた。
「…そこ!」
セレスティアは、再び、闇雲に剣を振るった。
またしても、見えない壁に弾かれる。だが、幻術の乱れは、先程よりも大きい。
セレスティアは、着実に、イリヤの本体へと、その距離を詰めていた。
「ちっ…! なぜ…なぜ、あなたに、わたくしの幻が見破れるの…!」
イリヤの声に、焦りの色が滲み始める。
「言ったでしょう。あなたのことは、全て知っている、と」
セレスティアは、ゆっくりと、歩を進めながら、静かに語り始めた。
「イリヤ。あなたは、元々、貧しい農村の生まれ。幼い頃、その類稀なる魔術の才能を、家族からも、村人からも、気味悪がられ、迫害されていた。あなたのその歪んだ自己顕示欲は、誰にも認められなかった、孤独な過去から来ている」
「な…何を…!」
「あなたは、美しいものを愛し、醜いものを、心の底から憎んでいる。あなたの幻術が、常に華やかで、そして残酷なのは、あなたの心の歪みが、そのまま反映されているからよ」
セ-レスティアの言葉は、剣よりも鋭く、イリヤの心の、最も触れられたくない部分を、抉り出していく。
心理戦。
相手の過去を暴き、その精神を揺さぶる。これもまた、彼女の得意とする、諜報員の技術だった。
「だ、黙りなさい!」
イリヤの絶叫と共に、幻術が、最大級の出力で、セレスティアに襲いかかった。
目の前に、アランの姿が現れる。
そして、そのアランが、冷たい目で、セレスティアに「お前は、出来損ないだ」と、告げた。
「…!」
セレスティアの体が、一瞬だけ、硬直した。
それは、彼女の心の、唯一の弱点。
アランへの、歪んだ、しかし純粋な、思慕の情。
「ふふふ…! 効いたようね! そう、あなたはずっと、あの男に認められたかった! でも、あの男が見ていたのは、いつも、あなたではない!」
イリヤは、勝利を確信した。
セレスティアの心が折れた、その一瞬の隙を突き、本物の魔術…不可視の魔力の刃を、彼女の心臓めがけて、放ったのだ。
だが。
セレスティアは、その魔力の刃が、喉元に迫る、その寸前。
ふっと、自嘲するような、笑みを浮かべた。
「…ええ、そうよ。私は、ずっと、あの人に認められたかった」
彼女は、静かに呟いた。
「でも、もういいの。私は、あの人の背中を追いかけるのは、やめたわ。私は、私のやり方で、あの人を…ううん、あの人の『平穏』を、守ると決めたのだから」
彼女の心は、もはや、折れてはいなかった。
カーム村での日々が、彼女を、強く、そしてしなやかに変えていたのだ。
彼女は、迫り来る魔力の刃を、予測していたかのように、最小限の動きで、ひらりとかわした。
そして、その反撃の一閃。
それは、イリヤの、本体がいるであろう、正確な位置へと、一直線に放たれた。
イリヤが、幻術ではない、本物の魔術を使ったことで、その魔力の発生源が、セレスティアに、完全に特定されてしまったのだ。
「しまっ…!」
イリヤの、悲鳴。
ザシュッ!
鈍い音が響き、部屋中の幻術が、ガラスのように砕け散った。
元の、静かな書庫の風景が戻る。
その中央には、肩から血を流し、うずくまるイリヤと、その喉元に、冷たい剣の切っ先を突きつける、セレスティアの姿があった。
勝負は、決した。
諜報員の真価は、その情報分析能力と、揺るぎない精神力にある。
その両方において、セレスティアは、イリヤを、完全に上回っていたのだ。
「…わたくしの、負け、ね」
イリヤは、悔しそうに、しかしどこか憑き物が落ちたような、穏やかな顔で、呟いた。
諜報員の、静かなる戦いは、こうして、幕を閉じた。
セレスティアは、イリヤを気絶させると、すぐに、俺が向かったであろう、上の階層へと、その足を向けた。
彼女の心は、晴れやかだった。
長年の、自分自身の心の弱さに、ようやく、打ち勝つことができたのだから。
そこは、第三階層の闘技場とは打って変わって、静寂に包まれていた。
だが、その静寂は、死のように冷たく、粘りつくようなプレッシャーを伴っていた。
俺とセレスティアは、互いの気配だけを頼りに、闇に覆われた階段を、慎重に登っていく。
俺の相手は、『疾風』のジン。
そして、セレスティアの相手は、『幻惑』のイリヤ。
俺たちは、互いの獲物を追って、螺旋階段の途中で、二手に分かれた。俺は上へ、セレスティアは、イリヤの気配を追って、階層の途中にある、横道へと。
セレスティアが足を踏み入れたのは、広大な書庫のような部屋だった。
天井まで届く本棚が迷路のように立ち並び、床には、羊皮紙の巻物が、無数に散乱している。空気は、古い紙の匂いと、甘い香水の匂いで満たされていた。
「あらあら。よく、わたくしの遊び場が分かりましたわね」
部屋の奥、巨大なステンドグラスを背にして、イリヤが、優雅な椅子に腰かけていた。その手には、ワイングラスが握られている。
「歓迎しますわ、裏切り者のセレスティア。あなたのような、美しい蝶を、わたくしのコレクションに加えるのが、待ちきれないわ」
その言葉と同時に、セレスティアの周囲の風景が、ぐにゃりと歪んだ。
本棚は溶けて、壁となり、床は底なしの沼へと変わる。
幻術。
イリヤの、最も得意とする戦術だった。
「…くだらない手品ね」
だが、セレスティアは、少しも動じなかった。
彼女は、目を閉じると、短く息を吐いた。そして、再び目を開けた時、彼女の瞳は、いつも以上に、冷たく、そして鋭い光を宿していた。
「あなたの幻術が、五感を騙すものだということは、調査済みよ。脳に直接作用する、高等な精神干渉。厄介ではあるけれど、弱点もまた、明確だわ」
セレスティアは、長剣を構えると、何もないはずの空間へと、一直線に突きを放った。
ガキン!
甲高い音が響き、彼女の剣は、見えない何かに弾かれる。
その瞬間、周囲の幻術が、一瞬だけ、砂嵐のように乱れた。
「あら、ご名答」
イリヤの声が、部屋の別の場所から聞こえてくる。
「わたくしの幻術は、術者であるわたくし自身が、中心にいる必要があるの。あなた、わたくしの位置を、どうやって?」
「情報よ」
セレスティアは、淡々と答えた。
「あなたの幻術の癖、魔力の波長、そして、あなたが好む香水の銘柄まで。あなたの全ては、私の頭の中にある」
彼女は、組織にいた頃から、イリヤの危険性を認識し、そのデータを、密かに収集し続けていたのだ。
情報戦。それこそが、諜報員セレスティアの、真の戦場だった。
「生意気な口を…!」
イリヤの口調から、初めて余裕が消えた。
周囲の幻術が、さらに強力になる。
セレスティアの足元から、無数の毒蛇が現れ、壁からは、燃え盛る炎が迫ってくる。
それは、並の人間なら、見ただけで発狂するほどの、悪夢の光景だった。
だが、セレスティアは、冷静だった。
彼女は、長年の訓練によって、自らの五感を、ある程度、コントロールすることができた。
『これは幻。現実ではない』
彼女は、心の中で、何度もそう繰り返す。
そして、視覚や聴覚から入ってくる偽りの情報ではなく、肌で感じる、僅かな空気の流れ、魔力の揺らぎだけを、頼りにしていた。
「…そこ!」
セレスティアは、再び、闇雲に剣を振るった。
またしても、見えない壁に弾かれる。だが、幻術の乱れは、先程よりも大きい。
セレスティアは、着実に、イリヤの本体へと、その距離を詰めていた。
「ちっ…! なぜ…なぜ、あなたに、わたくしの幻が見破れるの…!」
イリヤの声に、焦りの色が滲み始める。
「言ったでしょう。あなたのことは、全て知っている、と」
セレスティアは、ゆっくりと、歩を進めながら、静かに語り始めた。
「イリヤ。あなたは、元々、貧しい農村の生まれ。幼い頃、その類稀なる魔術の才能を、家族からも、村人からも、気味悪がられ、迫害されていた。あなたのその歪んだ自己顕示欲は、誰にも認められなかった、孤独な過去から来ている」
「な…何を…!」
「あなたは、美しいものを愛し、醜いものを、心の底から憎んでいる。あなたの幻術が、常に華やかで、そして残酷なのは、あなたの心の歪みが、そのまま反映されているからよ」
セ-レスティアの言葉は、剣よりも鋭く、イリヤの心の、最も触れられたくない部分を、抉り出していく。
心理戦。
相手の過去を暴き、その精神を揺さぶる。これもまた、彼女の得意とする、諜報員の技術だった。
「だ、黙りなさい!」
イリヤの絶叫と共に、幻術が、最大級の出力で、セレスティアに襲いかかった。
目の前に、アランの姿が現れる。
そして、そのアランが、冷たい目で、セレスティアに「お前は、出来損ないだ」と、告げた。
「…!」
セレスティアの体が、一瞬だけ、硬直した。
それは、彼女の心の、唯一の弱点。
アランへの、歪んだ、しかし純粋な、思慕の情。
「ふふふ…! 効いたようね! そう、あなたはずっと、あの男に認められたかった! でも、あの男が見ていたのは、いつも、あなたではない!」
イリヤは、勝利を確信した。
セレスティアの心が折れた、その一瞬の隙を突き、本物の魔術…不可視の魔力の刃を、彼女の心臓めがけて、放ったのだ。
だが。
セレスティアは、その魔力の刃が、喉元に迫る、その寸前。
ふっと、自嘲するような、笑みを浮かべた。
「…ええ、そうよ。私は、ずっと、あの人に認められたかった」
彼女は、静かに呟いた。
「でも、もういいの。私は、あの人の背中を追いかけるのは、やめたわ。私は、私のやり方で、あの人を…ううん、あの人の『平穏』を、守ると決めたのだから」
彼女の心は、もはや、折れてはいなかった。
カーム村での日々が、彼女を、強く、そしてしなやかに変えていたのだ。
彼女は、迫り来る魔力の刃を、予測していたかのように、最小限の動きで、ひらりとかわした。
そして、その反撃の一閃。
それは、イリヤの、本体がいるであろう、正確な位置へと、一直線に放たれた。
イリヤが、幻術ではない、本物の魔術を使ったことで、その魔力の発生源が、セレスティアに、完全に特定されてしまったのだ。
「しまっ…!」
イリヤの、悲鳴。
ザシュッ!
鈍い音が響き、部屋中の幻術が、ガラスのように砕け散った。
元の、静かな書庫の風景が戻る。
その中央には、肩から血を流し、うずくまるイリヤと、その喉元に、冷たい剣の切っ先を突きつける、セレスティアの姿があった。
勝負は、決した。
諜報員の真価は、その情報分析能力と、揺るぎない精神力にある。
その両方において、セレスティアは、イリヤを、完全に上回っていたのだ。
「…わたくしの、負け、ね」
イリヤは、悔しそうに、しかしどこか憑き物が落ちたような、穏やかな顔で、呟いた。
諜報員の、静かなる戦いは、こうして、幕を閉じた。
セレスティアは、イリヤを気絶させると、すぐに、俺が向かったであろう、上の階層へと、その足を向けた。
彼女の心は、晴れやかだった。
長年の、自分自身の心の弱さに、ようやく、打ち勝つことができたのだから。
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