「お前の戦い方は地味すぎる」とギルドをクビになったおっさん、その正体は大陸を震撼させた伝説の暗殺者。

夏見ナイ

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第93話:最後の門番

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俺は螺旋階段を駆け上がっていた。
背後でセレスティアとイリヤの戦いが始まった気配を感じていたが、俺は振り返らなかった。彼女を信じる。それが今の俺にできる唯一のことだった。

俺の全神経は前方に集中していた。
俺を追ってくるもう一つの気配。
『疾風』のジン。
その気配は風のように軽く、影のように希薄だった。だがその一点に凝縮された殺意は、今まで俺が対峙してきたどんな敵よりも鋭く、そして冷たい。
同類。
俺は初めて自分と同じ種類の生き物と対峙しているのだと実感していた。

階段を登りきった先、第五階層は吹き抜けになった広い回廊だった。
床には分厚い絨毯が敷かれ、足音を吸収する。壁にはいくつもの巨大な柱が立ち並び、無数の死角を作り出している。
ここは暗殺者同士がその技の全てを尽くして戦うための、最高の舞台だった。

俺は回廊に足を踏み入れた瞬間、近くの柱の影へと音もなく滑り込んだ。
同時にジンの気配も完全に消えた。
彼もまたどこかの柱の影に身を潜めたのだろう。

静寂。
風の音すらしない絶対的な静寂が、その場を支配した。
それはもはやどちらが先に動くかという駆け引きではなかった。
どちらが先に相手の存在を「感知」するか。
究極の気配の探り合い。
その火蓋が切って落された。

俺は目を閉じ、呼吸を止めた。
心音さえも極限まで抑制する。
そして五感の全てを皮膚感覚へと集中させていく。
空気の僅かな流れの変化。
温度の微細な揺らぎ。
床を伝わる分子レベルの振動。
その全てが情報だった。

(…いない)

どこにもいない。
ジンの気配は完全にこの空間から消え失せていた。
俺の気配遮断とほぼ互角。いや、あるいはそれ以上かもしれない。

だが俺には確信があった。
奴はいる。
この回廊のどこかに。
俺と同じように息を殺し、俺の動きを待っている。

ならば動かすまでだ。
俺は懐から小さな金属製の球を二つ取り出した。
そしてそれを右手と左手、それぞれで全く別の方向へと、同時に、そして音もなく投げ込んだ。

カラン…
コロロン…

金属球が遠くの床に落ち、不規則な音を立てて転がっていく。
陽動。
俺の存在位置を撹乱させるための初歩的な罠だ。
こんなものに奴が引っかかるとは思えない。
だがそれでいい。
俺が欲しかったのは奴の反応ではなく、奴がこの音に反応する際に生み出す、僅かな「乱れ」だった。

俺の全神経が二つの金属球が立てる音の反響に集中する。
音波が壁に、柱に、そして空間にどのように反射し、減衰していくか。
その正常な反響パターンの中にほんの僅か、コンマ数秒だけ音波が「何か」に吸収されて歪むポイントがあった。

(…そこか)

俺の右前方。三本目の柱の裏側。
そこに奴はいる。
俺がジンの位置を完全に特定した、その瞬間。

ジンの体が動いた。
彼もまた俺が金属球を投げた際の僅かな腕の動き、空気の乱れから俺の位置を完全に特定していたのだ。
ほぼ同時。
思考の速さは互角だった。

だがここから先は純粋な肉体の速さの勝負。
そしてその点において、俺は誰にも負けたことはなかった。

ジンの体が柱の影から黒い旋風となって俺に襲いかかった。
その手には二本の短剣が逆手に握られている。
『疾風』の名に恥じない神速の突進。

だが俺の体はそれよりもさらに速く動いていた。
俺はジンを迎え撃つのではなく、逆に彼がいるであろう柱の方向へと一直線に突っ込んでいたのだ。
最短距離。
直線的な動き。
それは暗殺者としてはありえない動き。
だがそれこそが俺が仕掛けた最後の罠だった。

ジンは俺のそのあまりに直線的で無防備な突進に、一瞬だけ戸惑った。
そのコンマ数秒の思考の空白。
それこそが俺が狙っていた唯一の隙だった。

俺とジンの体が回廊の中央で交錯する。
二つの影がすれ違う。
その一瞬。

俺の右手に握られた黒いナイフが、閃光のように煌めいた。
それはジンの首を狙ったものではない。
心臓を狙ったものでもない。
俺のナイフが狙ったのはジンの右手の甲。彼が短剣を握る、その手そのものだった。

ガキン!
甲高い音が響き、ジンの右手の短剣が根元から弾き飛ばされる。
俺はジンの体を攻撃するのではなく、彼の「武器」を無力化したのだ。

「なっ…!?」
ジンが驚愕の声を上げる。
だが俺の攻撃はまだ終わっていなかった。
すれ違いざま、俺の体は独楽のように回転していた。
そしてその遠心力を乗せた左足が回し蹴りとなって、ジンのがら空きになった左の脇腹を正確に捉えた。

ゴッ!
鈍い音が響き、ジンの体が「く」の字に折れ曲がる。
その衝撃で左手の短剣も手から滑り落ちた。

全てはすれ違いざまの一瞬の攻防だった。
結果は明らかだった。
ジンは両手の武器を失い、致命的な一撃をその脇腹に受けた。
対する俺は無傷。

実力差は歴然だった。

ジンは数メートル先によろめくと、壁に背中を打ち付け、崩れ落ちるようにその場に膝をついた。
脇腹を抑え、苦痛に荒い呼吸を繰り返している。
だがその仮面の奥の瞳は悔しさではなく、純粋な賞賛の色を浮かべていた。

「…見事だ」
掠れた声で彼が呟いた。
「速さも、技も、そして何よりその発想も…。全て俺の上を行っていた。…完敗だ」

最後の門番は、その役目を終えた。
彼は自らの敗北を潔く認めたのだ。

俺はそんな彼に近づくと、静かにナイフの切っ先をその喉元に突きつけた。
これが戦場の掟だ。
敗者には死を。

だが俺のナイフはそれ以上動かなかった。

「…なぜ殺さない」
ジンが不思議そうに尋ねた。

俺は答えた。
「お前は俺と同じだ。ただ己の技を信じ、己の任務を遂行しようとしただけ。そこにボルガのような卑劣な悪意はない。…殺す理由がない」

俺はナイフを鞘に納めた。
そして彼に背を向けた。

「…待て」
ジンが呼び止める。
「…ゼノン様は、お前が考えているよりもずっと強い。そして狂っている。気をつけろ…」
それは敵であるはずの男からの、最後の忠告だった。

「…ああ。分かっている」
俺は振り返らずに答えた。

そして俺は最後の螺旋階段へとその足を踏み入れた。
目指すは最上階。玉座の間。
全ての元凶、ゼノンが待つ最後の戦場へ。

俺の背後で、ジンが静かにその場に崩れ落ちる音がした。
彼は死んではいない。
ただ暗殺者としての彼の魂が、この瞬間、完全に燃え尽きただけだった。
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