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第95話 俺たちの選択、あるいは運命との心理戦
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ドアノブを握りしめた俺の指先が白くなっていた。
行かなければ。
天宮さんが、陽平が、俺を待っている。
俺のせいで二人が苦しんでいる。
その罪悪感が鉛のように、俺の体をドアの外へと引きずり出そうとしていた。
だが、冬花の氷のように冷静な声が、俺の足を床に縫い付ける。
「優斗さん」
彼女は俺の揺れる瞳を真っ直ぐに見つめていた。
「お願いです。もう一度、冷静に考えてください」
「冷静になんて、なれるかよ!」
俺は叫んだ。
「友達が死ぬかもしれないんだぞ! それを見殺しにしろって言うのか!」
「ええ。言っています」
彼女のあまりにも冷徹な肯定。
俺は息を呑んだ。
「ですが、それはもし陽平くんのメッセージが真実だったらの話です」
「……どういうことだ?」
「おかしいと思いませんか?」
彼女の瞳が鋭い分析者のそれに変わった。
「陽平くんが留守番電話にメッセージを残し始めた時刻は、午後二時十一分。彼が事故を目撃し、状況を把握し、パニックになりながらもあなたに電話をかける。その一連の流れがあまりにも手際が良すぎます」
「……!」
「まるで、これから事故が起こることを知っていたかのようなタイミングです」
彼女の冷静な指摘。
俺の激情に支配されていた頭が、少しずつ冷却されていくのを感じる。
そうだ。おかしい。
陽平はあんなパニック状態の中で、冷静に留守番電話にメッセージなど残せるような器用な男じゃない。
「それに」
彼女は続ける。その声には一切の揺らぎがなかった。
「なぜ彼は救急隊や警察に任せず、あなたを呼んだのでしょうか。現場は駅前の人通りの多い交差点。助けてくれる大人はいくらでもいるはずです。なぜ一介の高校生であるあなたを名指しで呼ばなければならなかったのか」
その的確な問い。
そうだ。陽平が本当に助けを求めるなら、俺じゃない。もっと頼りになる大人のはずだ。
「そして、何よりも決定的です」
彼女は一歩俺に近づいた。
「この一連の出来事の最終的な目的。それは何だと思いますか?」
彼女の問いに、俺はハッと気づかされた。
「……俺を」
俺は震える声で答えた。
「俺を、あの交差点に、午後二時十七分までに行かせること……」
「その通りです」
彼女は静かに頷いた。
「これは罠です。私たちの優しさや友情という、最も弱い部分につけ込む、あまりにも悪質で卑劣な運命の罠なんです」
その冷徹な、しかし揺るぎない結論。
俺の頭の中を覆っていた熱い霧が、完全に晴れていくのを感じた。
そうだ。
これは罠だ。
天宮さんも陽平も、きっと無事だ。どこかで俺たちと同じように、バレンタインデーを楽しんでいるはずだ。
運命が俺たちを騙すために作り出した幻聴。幻覚。
俺はまんまとその手に乗せられるところだったのだ。
俺は、ドアノブを握りしめていた自分の手が、馬鹿みたいに震えているのに気づいた。
俺は冬花を信じきれていなかった。
俺たちの約束を破るところだった。
その自己嫌Оで目の前が暗くなりそうだった。
俺はゆっくりとドアノブから手を離した。
そして彼女に向き直る。
「……ごめん」
俺はか細い声で謝った。
「俺、お前のこと信じられなくて……」
俺のその情けない言葉に、彼女は静かに首を横に振った。
「いいえ。あなたは悪くありません。あなたは優しい人だから。だからこそ運命はそこを突いてきた」
彼女はそう言って、俺の頬にそっとその冷たい手を添えた。
「でも、あなたは最後に正しい選択をしました。自分の感情に打ち勝った。私はそんなあなたを誇りに思います」
そのあまりにも温かい言葉。
俺の瞳から一筋の涙がこぼれ落ちた。
情けなさの涙。そして彼女のその深い愛情への、感謝の涙だった。
俺は涙を拭うと、彼女の手を強く握りしめた。
「……ああ。そうだな」
俺は力強く言った。
「これは罠だ。俺はお前を信じる。俺たちの未来を信じる」
俺の決断の言葉。
彼女はそれに力強く頷き返した。
「はい。信じてください」
俺たちは再び部屋の中央へと戻った。
そしてローテーブルを挟んで向かい合い、固く、固く手を握り合う。
壁の時計が示す時刻は、午後二時十五分。
運命の瞬間まで、あと二分。
俺たちの最大の危機は去った。
だが本当のクライマックスはこれからだ。
俺たちは言葉もなく、ただお互いの瞳を見つめ合っていた。
その瞳には同じ覚悟の光が宿っている。
時計の秒針の音だけが、やけに大きく部屋に響く。
カチ、カチ、カチ……。
午後二時十六分。
あと一分。
俺は生唾を飲み込んだ。
握りしめた彼女の手が微かに汗ばんでいる。
五十五秒、五十六秒、五十七秒……。
来る。
何かが来る。
俺は固く目を閉じた。
そして。
時計の長針と短針が、午後二時十七分を指し示した、その瞬間。
―――何も、起きなかった。
ただ静寂だけがそこにあった。
窓の外から大きな音がするわけでもなく。
部屋が揺れるわけでもなく。
ただ、いつもと変わらない穏やかな時間が流れていくだけ。
俺はゆっくりと目を開けた。
目の前には同じように驚いた顔で、俺を見つめる冬花の姿があった。
俺たちは顔を見合わせた。
そして、どちらからともなくふっと息を漏らした。
それは安堵のため息であり、そして勝利の雄叫びだった。
俺たちは勝ったんだ。
運命のくだらない悪戯に、打ち勝ったんだ。
俺たちの絆の力で。
行かなければ。
天宮さんが、陽平が、俺を待っている。
俺のせいで二人が苦しんでいる。
その罪悪感が鉛のように、俺の体をドアの外へと引きずり出そうとしていた。
だが、冬花の氷のように冷静な声が、俺の足を床に縫い付ける。
「優斗さん」
彼女は俺の揺れる瞳を真っ直ぐに見つめていた。
「お願いです。もう一度、冷静に考えてください」
「冷静になんて、なれるかよ!」
俺は叫んだ。
「友達が死ぬかもしれないんだぞ! それを見殺しにしろって言うのか!」
「ええ。言っています」
彼女のあまりにも冷徹な肯定。
俺は息を呑んだ。
「ですが、それはもし陽平くんのメッセージが真実だったらの話です」
「……どういうことだ?」
「おかしいと思いませんか?」
彼女の瞳が鋭い分析者のそれに変わった。
「陽平くんが留守番電話にメッセージを残し始めた時刻は、午後二時十一分。彼が事故を目撃し、状況を把握し、パニックになりながらもあなたに電話をかける。その一連の流れがあまりにも手際が良すぎます」
「……!」
「まるで、これから事故が起こることを知っていたかのようなタイミングです」
彼女の冷静な指摘。
俺の激情に支配されていた頭が、少しずつ冷却されていくのを感じる。
そうだ。おかしい。
陽平はあんなパニック状態の中で、冷静に留守番電話にメッセージなど残せるような器用な男じゃない。
「それに」
彼女は続ける。その声には一切の揺らぎがなかった。
「なぜ彼は救急隊や警察に任せず、あなたを呼んだのでしょうか。現場は駅前の人通りの多い交差点。助けてくれる大人はいくらでもいるはずです。なぜ一介の高校生であるあなたを名指しで呼ばなければならなかったのか」
その的確な問い。
そうだ。陽平が本当に助けを求めるなら、俺じゃない。もっと頼りになる大人のはずだ。
「そして、何よりも決定的です」
彼女は一歩俺に近づいた。
「この一連の出来事の最終的な目的。それは何だと思いますか?」
彼女の問いに、俺はハッと気づかされた。
「……俺を」
俺は震える声で答えた。
「俺を、あの交差点に、午後二時十七分までに行かせること……」
「その通りです」
彼女は静かに頷いた。
「これは罠です。私たちの優しさや友情という、最も弱い部分につけ込む、あまりにも悪質で卑劣な運命の罠なんです」
その冷徹な、しかし揺るぎない結論。
俺の頭の中を覆っていた熱い霧が、完全に晴れていくのを感じた。
そうだ。
これは罠だ。
天宮さんも陽平も、きっと無事だ。どこかで俺たちと同じように、バレンタインデーを楽しんでいるはずだ。
運命が俺たちを騙すために作り出した幻聴。幻覚。
俺はまんまとその手に乗せられるところだったのだ。
俺は、ドアノブを握りしめていた自分の手が、馬鹿みたいに震えているのに気づいた。
俺は冬花を信じきれていなかった。
俺たちの約束を破るところだった。
その自己嫌Оで目の前が暗くなりそうだった。
俺はゆっくりとドアノブから手を離した。
そして彼女に向き直る。
「……ごめん」
俺はか細い声で謝った。
「俺、お前のこと信じられなくて……」
俺のその情けない言葉に、彼女は静かに首を横に振った。
「いいえ。あなたは悪くありません。あなたは優しい人だから。だからこそ運命はそこを突いてきた」
彼女はそう言って、俺の頬にそっとその冷たい手を添えた。
「でも、あなたは最後に正しい選択をしました。自分の感情に打ち勝った。私はそんなあなたを誇りに思います」
そのあまりにも温かい言葉。
俺の瞳から一筋の涙がこぼれ落ちた。
情けなさの涙。そして彼女のその深い愛情への、感謝の涙だった。
俺は涙を拭うと、彼女の手を強く握りしめた。
「……ああ。そうだな」
俺は力強く言った。
「これは罠だ。俺はお前を信じる。俺たちの未来を信じる」
俺の決断の言葉。
彼女はそれに力強く頷き返した。
「はい。信じてください」
俺たちは再び部屋の中央へと戻った。
そしてローテーブルを挟んで向かい合い、固く、固く手を握り合う。
壁の時計が示す時刻は、午後二時十五分。
運命の瞬間まで、あと二分。
俺たちの最大の危機は去った。
だが本当のクライマックスはこれからだ。
俺たちは言葉もなく、ただお互いの瞳を見つめ合っていた。
その瞳には同じ覚悟の光が宿っている。
時計の秒針の音だけが、やけに大きく部屋に響く。
カチ、カチ、カチ……。
午後二時十六分。
あと一分。
俺は生唾を飲み込んだ。
握りしめた彼女の手が微かに汗ばんでいる。
五十五秒、五十六秒、五十七秒……。
来る。
何かが来る。
俺は固く目を閉じた。
そして。
時計の長針と短針が、午後二時十七分を指し示した、その瞬間。
―――何も、起きなかった。
ただ静寂だけがそこにあった。
窓の外から大きな音がするわけでもなく。
部屋が揺れるわけでもなく。
ただ、いつもと変わらない穏やかな時間が流れていくだけ。
俺はゆっくりと目を開けた。
目の前には同じように驚いた顔で、俺を見つめる冬花の姿があった。
俺たちは顔を見合わせた。
そして、どちらからともなくふっと息を漏らした。
それは安堵のため息であり、そして勝利の雄叫びだった。
俺たちは勝ったんだ。
運命のくだらない悪戯に、打ち勝ったんだ。
俺たちの絆の力で。
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