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第四話 血染めの静寂
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広場を支配したのは、死そのもののような静寂だった。
黒馬に跨る男が、ゆっくりと民衆の間を進んでくる。人々は恐怖に凍りつき、まるで石像のように動かない。男が進む道だけが、ひとりでに開けていった。
その男の顔に表情はなかった。彫刻のように整ってはいるが、一切の感情が抜け落ちている。漆黒の髪が風に揺れ、覗く瞳は冷たい金色。まるで溶かした黄金をそのまま嵌め込んだような、無機質な輝きを放っていた。
あれは、誰だ。
衛兵たちさえも、武器を構えることすら忘れて立ち尽くしている。王都の、いや、この国アストリアの全ての人間が傅くべき王族の前で、これほどの不敬が許されるはずがない。
だが、誰も彼を咎められない。
彼の全身から放たれる威圧感が、言葉を発することさえ許さないのだ。
やがて、群衆の中から囁きが漏れ始めた。それは恐怖に震える、掠れた音だった。
「エルヴァイン公爵…」
「なぜ、血染め公爵がここに…」
その名を聞いた瞬間、広場の空気がさらに冷え込んだ気がした。
ゼノン・アーク・エルヴァイン公爵。
王国の北方を治める大貴族にして、王国最強と謳われる騎士。数々の戦場で敵兵の血を浴び続け、その冷酷無比な戦いぶりから『血染め公爵』と畏怖される男。
そして、呪われていると噂の男。
戦場で感情を失い、人の心をなくした氷の仮面。彼が通った後には、死体しか残らないとまで言われている。
そんな、おとぎ話の中の魔王のような人物が、なぜ今、ここに。
ゼノン公爵は火刑台のすぐ近くで馬を止めると、音もなく地面に降り立った。彼の歩みに合わせて、腰の長剣がカツリと低い音を立てる。その音だけが、この場の唯一の現実音だった。
彼はまっすぐに、アルフォンス殿下の元へと歩み寄る。
「これは、何の騒ぎだ」
低く、感情の乗らない声だった。だがその言葉は、広場の隅々にまで不思議とよく響いた。
アルフォンス殿下は、一瞬たじろいだものの、すぐに王族としての威厳を取り繕った。彼の心臓が恐怖に跳ねる、不規則な不協和音が私の耳に届く。
「エルヴァイン公爵。貴公、王命による処刑の場であると知っての狼藉か」
「処刑?」
ゼノン公爵は、初めて私の方に視線を向けた。
その金色の瞳と、私の視線が交差する。
ぞくり、と背筋に悪寒が走った。彼の瞳には、何の感情も映っていなかった。私という人間を見ているのではなく、ただの物体として認識している。そんな、底なしの虚無を感じさせる瞳だった。
しかし、それと同時に私は気づいてしまった。
信じられない事実に。
彼の周りだけ、音がしない。
人々の恐怖の囁きも、アルフォンス殿下の虚勢に満ちた不協和音も、全てが彼の存在の前で掻き消されている。彼自身からも、何の音も発せられていない。
真実の音も、嘘の音も。
ただ、絶対的な静寂があるだけ。
この世に生まれて初めて経験する、完全なる無音。それは、不協和音に苛まれ続けてきた私の耳にとって、何よりも甘美な安らぎだった。
恐怖と、相反する安堵感。その奇妙な感覚に、私は囚われていた。
「この女は、聖女の名を騙った偽物だ。民を惑わした大罪人として、国王陛下の御名において裁かれる」
アルフォンス殿下が、声に力を込めて言った。公爵の威圧感に負けじと、必死に虚勢を張っている。その声は、割れたガラスのように耳障りだった。
しかし、ゼノン公爵は眉一つ動かさなかった。
「ほう。偽物、か」
彼は再び私を見た。その金色の瞳が、私の内側まで見透かすように、じっと私を射抜く。
「その判断は、誰が下した」
「私がだ!この私が、『真実の聖水』によって彼女の嘘を白日の下に晒したのだ!」
アルフォンス殿下は、勝ち誇ったように聖水の小瓶を掲げてみせた。
だが、ゼノン公爵はその小瓶を一瞥しただけで、興味を失ったように鼻を鳴らした。
「聖水だと?くだらんな」
「なっ…!貴様、王家の判断に異を唱えるか!」
「俺は事実を言ったまでだ」
ゼノン公爵は淡々と告げると、アルフォンス殿下の隣を通り過ぎ、火刑台へと歩み寄った。執行官が、松明を持ったまま呆然と立ち尽くしている。公爵は、その男からこともなげに松明を奪い取ると、近くにあった水桶に躊躇なく突っ込んだ。
ジュッ、という音と共に白い煙が上がり、聖なる浄化の炎はあっけなく消え失せた。
広場から、悲鳴に近いどよめきが上がる。
「き、貴様!何をっ…!」
アルフォンス殿下の怒声が響くが、ゼノン公爵は全く意に介さない。彼は私を縛り付けている縄に手をかけると、腰の短剣を抜き放ち、一閃のもとに断ち切った。
自由になった体が、ぐらりと傾ぐ。それを支えたのは、黒い手袋に包まれた、骨張った大きな手だった。
「立てるか」
間近で聞いた彼の声は、やはり何の音もしなかった。ただ、声という物理的な振動だけが、私の鼓膜を震わせる。
私はこくりと頷いた。彼の腕に支えられ、ふらつく足で地面に立つ。
目の前にあるのは、漆黒の軍服に覆われた、広い背中だった。
「エルヴァイン公爵!その女は罪人だぞ!今すぐこちらへ引き渡せ!」
背後でアルフォンス殿下が金切り声を上げている。
ゼノン公爵は、ゆっくりと振り返った。その顔は、相変わらずの無表情。氷の仮面。
「殿下。この女の処遇は、私が預かる」
「何を馬鹿なことを!そのような権限が貴様にあるものか!」
「権限なら、ある」
ゼノン公爵は静かに言った。
「この女、アリーシャ・フォン・クライノートは、俺の婚約者だ」
その言葉は、爆弾のように広場に投下された。
私自身、耳を疑った。婚約者?何を言っているのだ、この人は。会ったこともないのに。
広場が、今度こそ大混乱に陥った。民衆のざわめき、貴族たちの驚愕の声。様々な音が渦を巻き始める。だが、私の周りだけは、ゼノン公爵が作り出す静寂の領域に守られていた。
アルフォンス殿下は、顔を真っ赤にしてわなわなと震えている。
「ふ、ふざけるな!彼女は私の、私の婚約者だったのだぞ!」
「過去形だな。貴方がその婚約を破棄し、彼女を罪人として火刑台に送ったのではないか」
ゼノン公爵の言葉には、一片の揺らぎもなかった。
「ならば、何の問題もあるまい。貴方が捨てたものを、俺が拾う。ただ、それだけの話だ」
それは、あまりにも傲慢で、絶対的な力を持つ者だけが言える言葉だった。
第二王子であるアルフォンス殿下でさえ、彼の前では子供同然だった。権力、実力、そして人としての格。全てにおいて、ゼノン公爵はアルフォンス殿下を凌駕していた。
「待て…待て!国王陛下のお許しなく、そのようなこと…!」
「許可なら、これから貰いに行く」
ゼノン公爵はそう言い放つと、私の腕を軽く引いた。
「行くぞ」
有無を言わせぬ響きだった。私は、まるで操り人形のように、彼の後に続く。
彼が歩けば、再び民衆の壁が左右に割れる。誰もが、恐ろしいものから逃れるように道を開けた。
私は彼の背中を見つめながら、ただ歩いた。
なぜ、彼は私を助けたのか。
婚約者とは、一体どういうことなのか。
何も分からない。分からないが、一つだけ確かなことがあった。
彼の隣は、静かだ。
あれほど私を苦しめ続けた不協和音が、嘘のように聞こえない。
生まれて初めて感じる、心の平穏。
それが、血と死の匂いを纏う『血染め公爵』によってもたらされたというのは、なんという皮肉だろうか。
私は、死の淵から、さらに深い謎の淵へと引きずり込まれようとしていた。
黒馬に跨る男が、ゆっくりと民衆の間を進んでくる。人々は恐怖に凍りつき、まるで石像のように動かない。男が進む道だけが、ひとりでに開けていった。
その男の顔に表情はなかった。彫刻のように整ってはいるが、一切の感情が抜け落ちている。漆黒の髪が風に揺れ、覗く瞳は冷たい金色。まるで溶かした黄金をそのまま嵌め込んだような、無機質な輝きを放っていた。
あれは、誰だ。
衛兵たちさえも、武器を構えることすら忘れて立ち尽くしている。王都の、いや、この国アストリアの全ての人間が傅くべき王族の前で、これほどの不敬が許されるはずがない。
だが、誰も彼を咎められない。
彼の全身から放たれる威圧感が、言葉を発することさえ許さないのだ。
やがて、群衆の中から囁きが漏れ始めた。それは恐怖に震える、掠れた音だった。
「エルヴァイン公爵…」
「なぜ、血染め公爵がここに…」
その名を聞いた瞬間、広場の空気がさらに冷え込んだ気がした。
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王国の北方を治める大貴族にして、王国最強と謳われる騎士。数々の戦場で敵兵の血を浴び続け、その冷酷無比な戦いぶりから『血染め公爵』と畏怖される男。
そして、呪われていると噂の男。
戦場で感情を失い、人の心をなくした氷の仮面。彼が通った後には、死体しか残らないとまで言われている。
そんな、おとぎ話の中の魔王のような人物が、なぜ今、ここに。
ゼノン公爵は火刑台のすぐ近くで馬を止めると、音もなく地面に降り立った。彼の歩みに合わせて、腰の長剣がカツリと低い音を立てる。その音だけが、この場の唯一の現実音だった。
彼はまっすぐに、アルフォンス殿下の元へと歩み寄る。
「これは、何の騒ぎだ」
低く、感情の乗らない声だった。だがその言葉は、広場の隅々にまで不思議とよく響いた。
アルフォンス殿下は、一瞬たじろいだものの、すぐに王族としての威厳を取り繕った。彼の心臓が恐怖に跳ねる、不規則な不協和音が私の耳に届く。
「エルヴァイン公爵。貴公、王命による処刑の場であると知っての狼藉か」
「処刑?」
ゼノン公爵は、初めて私の方に視線を向けた。
その金色の瞳と、私の視線が交差する。
ぞくり、と背筋に悪寒が走った。彼の瞳には、何の感情も映っていなかった。私という人間を見ているのではなく、ただの物体として認識している。そんな、底なしの虚無を感じさせる瞳だった。
しかし、それと同時に私は気づいてしまった。
信じられない事実に。
彼の周りだけ、音がしない。
人々の恐怖の囁きも、アルフォンス殿下の虚勢に満ちた不協和音も、全てが彼の存在の前で掻き消されている。彼自身からも、何の音も発せられていない。
真実の音も、嘘の音も。
ただ、絶対的な静寂があるだけ。
この世に生まれて初めて経験する、完全なる無音。それは、不協和音に苛まれ続けてきた私の耳にとって、何よりも甘美な安らぎだった。
恐怖と、相反する安堵感。その奇妙な感覚に、私は囚われていた。
「この女は、聖女の名を騙った偽物だ。民を惑わした大罪人として、国王陛下の御名において裁かれる」
アルフォンス殿下が、声に力を込めて言った。公爵の威圧感に負けじと、必死に虚勢を張っている。その声は、割れたガラスのように耳障りだった。
しかし、ゼノン公爵は眉一つ動かさなかった。
「ほう。偽物、か」
彼は再び私を見た。その金色の瞳が、私の内側まで見透かすように、じっと私を射抜く。
「その判断は、誰が下した」
「私がだ!この私が、『真実の聖水』によって彼女の嘘を白日の下に晒したのだ!」
アルフォンス殿下は、勝ち誇ったように聖水の小瓶を掲げてみせた。
だが、ゼノン公爵はその小瓶を一瞥しただけで、興味を失ったように鼻を鳴らした。
「聖水だと?くだらんな」
「なっ…!貴様、王家の判断に異を唱えるか!」
「俺は事実を言ったまでだ」
ゼノン公爵は淡々と告げると、アルフォンス殿下の隣を通り過ぎ、火刑台へと歩み寄った。執行官が、松明を持ったまま呆然と立ち尽くしている。公爵は、その男からこともなげに松明を奪い取ると、近くにあった水桶に躊躇なく突っ込んだ。
ジュッ、という音と共に白い煙が上がり、聖なる浄化の炎はあっけなく消え失せた。
広場から、悲鳴に近いどよめきが上がる。
「き、貴様!何をっ…!」
アルフォンス殿下の怒声が響くが、ゼノン公爵は全く意に介さない。彼は私を縛り付けている縄に手をかけると、腰の短剣を抜き放ち、一閃のもとに断ち切った。
自由になった体が、ぐらりと傾ぐ。それを支えたのは、黒い手袋に包まれた、骨張った大きな手だった。
「立てるか」
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私はこくりと頷いた。彼の腕に支えられ、ふらつく足で地面に立つ。
目の前にあるのは、漆黒の軍服に覆われた、広い背中だった。
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背後でアルフォンス殿下が金切り声を上げている。
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「何を馬鹿なことを!そのような権限が貴様にあるものか!」
「権限なら、ある」
ゼノン公爵は静かに言った。
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その言葉は、爆弾のように広場に投下された。
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それは、あまりにも傲慢で、絶対的な力を持つ者だけが言える言葉だった。
第二王子であるアルフォンス殿下でさえ、彼の前では子供同然だった。権力、実力、そして人としての格。全てにおいて、ゼノン公爵はアルフォンス殿下を凌駕していた。
「待て…待て!国王陛下のお許しなく、そのようなこと…!」
「許可なら、これから貰いに行く」
ゼノン公爵はそう言い放つと、私の腕を軽く引いた。
「行くぞ」
有無を言わせぬ響きだった。私は、まるで操り人形のように、彼の後に続く。
彼が歩けば、再び民衆の壁が左右に割れる。誰もが、恐ろしいものから逃れるように道を開けた。
私は彼の背中を見つめながら、ただ歩いた。
なぜ、彼は私を助けたのか。
婚約者とは、一体どういうことなのか。
何も分からない。分からないが、一つだけ確かなことがあった。
彼の隣は、静かだ。
あれほど私を苦しめ続けた不協和音が、嘘のように聞こえない。
生まれて初めて感じる、心の平穏。
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