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第八話 静寂の主
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エルヴァイン公爵邸での日々は、静かに過ぎていった。
朝は鳥の声で目覚め、メイドが運んでくる食事を味わう。昼は部屋に備え付けられた書架の本を読み、夕暮れには窓から庭園が茜色に染まるのを眺める。夜は、静寂に包まれて眠りに落ちる。
不協和音のない世界。それは、私が生涯をかけて求め続けた安らぎそのものだった。
メイド長のハンナは、毎日気遣わしげに私の様子を見に来てくれた。彼女の温かい言葉には嘘がなく、私の心を少しずつ解きほぐしていく。執事のギルバートは、日に一度、事務的な報告にだけ顔を見せた。彼の硬質な言葉にもまた、嘘はなかった。
ここは、真実と静寂だけで構成された世界。
しかし、その安らぎに慣れ始めた頃、私の心に新たな感情が芽生え始めていた。
焦りだ。
私はここで、一体何をしているのだろう。
この屋敷の主、ゼノン・エルヴァイン公爵は、あの日以来一度も私の前に姿を現さない。私はただ、美しい鳥籠の中で手厚く保護されているだけだ。
このまま、彼の気まぐれで生かされ、飽きられれば捨てられるのだろうか。
「偽りの聖女」として処刑される運命からは逃れた。だが、今の私は公爵の所有物でしかない。自分の意思で未来を選ぶことはできない。その事実は、穏やかな日々の中で、じわじわと私の首を絞めつけていた。
待っているだけでは駄目だ。
この状況を変えるには、私自身が動かなければ。
私は、この城の主に会って直接問いただすことを決意した。
なぜ私を助けたのか。
婚約者とは、一体どういう意味なのか。
そして、これから私をどうするつもりなのか。
答えを得るためには、彼に会うしかない。
ある日の午後、私は意を決して部屋の扉を開けた。
ギルバートからは「邸内で静かに過ごすように」としか言われていない。部屋から出てはいけない、とは言われていなかったはずだ。
私は、ゼノン公爵の執務室を探して、広大な屋敷の中を歩き始めた。
廊下はどこまでも静かだった。分厚い絨毯が私の足音を吸い込み、壁にかけられた歴代当主たちの肖像画が、無言で私を見下ろしている。
時折すれ違う使用人たちは、私に気づくと壁際に寄り、恭しく一礼するだけだ。彼らに執務室の場所を尋ねようかとも思ったが、やめた。ギルバートの指示を受けている彼らが、素直に教えてくれるとは思えない。
私は自分の勘だけを頼りに、迷路のような廊下を進んだ。
東棟の三階。西棟の二階。いくつもの扉を開けては、客間や書庫であることを確認して閉める。その繰り返しだった。
屋敷は、私が想像していた以上に広大だった。そして、どこまでも静かだった。まるで、巨大な生き物の体内に迷い込んだかのような、不思議な感覚に陥る。
諦めかけた、その時だった。
二階の最も奥まった廊下の突き当たり。そこにある、他と何ら変わらない重厚な扉。
しかし、その扉の前だけ、空気が違っていた。
人の気配がする。だが、音がしない。
他の部屋からは、どんなに静かでも微かな生活の音が漏れ聞こえてきた。しかし、この扉の向こうは完全な無音。
私の耳が、そう告げていた。
この静寂は、あの人のものだ。
ゼノン・エルヴァイン公爵。
私はごくりと喉を鳴らし、心臓が大きく脈打つのを感じた。
扉の前で、しばらく立ち尽くす。
ここで引き返すべきか。彼を邪魔すれば、不興を買うかもしれない。
だが、ここで退けば、また何も変わらない日々に戻るだけだ。
私は震える手を持ち上げ、扉を三度、静かにノックした。
コン、コン、コン。
硬い木の感触が、指先に伝わる。
一瞬の沈黙。
やがて、扉の向こうから、低く響く声が聞こえた。
「入れ」
短く、感情のない声。だが、その声を聞いた瞬間、私の心は不思議と落ち着きを取り戻した。
私は深呼吸を一つすると、意を決して扉のノブに手をかけ、ゆっくりと中へ足を踏み入れた。
部屋の中に広がっていたのは、圧倒的な量の「紙」だった。
床から天井まで届くほどの本棚は、分厚い書物で埋め尽くされている。そして、部屋の中央に置かれた巨大な執務机の上には、書類の山がいくつも築かれていた。床にさえ、整理された羊皮紙の束が積み上げられている。
蝋燭と魔法灯の柔らかな光が、その膨大な知識と情報の森を照らし出していた。インクと古い紙の匂いが、部屋の空気を満たしている。
そして、その紙の山の中心に、彼がいた。
ゼノン・エルヴァイン公爵。
彼は黒いシャツを腕まくりし、書類の海に身を沈めるようにして、一心不乱にペンを走らせていた。
私が入ってきたことに気づき、彼は一度だけ金色の瞳を上げた。その視線が私を捉える。しかし、それも一瞬のこと。彼はすぐに手元の書類へと視線を戻し、再びペンを動かし始めた。
まるで、私が部屋に存在しないかのように。
私は、どうしていいか分からず、入り口で立ち尽くした。
部屋の中は、驚くほど静かだった。彼の存在が、この空間の静寂をさらに深めている。
時折、彼が紙をめくる音と、ペンが羊皮紙の上を滑る音だけが響く。その規則正しい音は、不思議と心地よかった。
彼の周りだけ、世界の不協和音が届かない聖域のようだ。
そこにいるだけで、私の心が安らいでいく。焦りや不安でささくれ立っていた感情が、穏やかな水面のように凪いでいくのが分かった。
ずっと、ここにいたい。
そんな突拍子もない考えが、頭をよぎった。
彼が背負っているものの重さが、この部屋の空気から伝わってくる。王国の北方を守る公爵。その責務は、私が想像もできないほどに重いのだろう。
私はただ、黙って彼の姿を見つめていた。
どれくらいの時間が経っただろうか。
不意に、彼の手が止まった。
ゼノン公爵は、書類から顔を上げることなく、静かに口を開いた。
「…何の用だ」
その声は、やはり何の感情も乗っていなかった。
しかし、私には分かった。彼は、私がここにいることをずっと意識していた。そして、私が口を開くのを、ただ待っていたのだ。
私は、ゆっくりと息を吸い込んだ。
尋ねたいことは、山ほどある。
私の声は、この静寂を壊してしまうだろうか。
それでも、私は伝えなければならない。
この静寂の主に、私の存在を認めさせるために。
「お話が、あってまいりました。公爵閣下」
私の声は、少しだけ震えていた。
朝は鳥の声で目覚め、メイドが運んでくる食事を味わう。昼は部屋に備え付けられた書架の本を読み、夕暮れには窓から庭園が茜色に染まるのを眺める。夜は、静寂に包まれて眠りに落ちる。
不協和音のない世界。それは、私が生涯をかけて求め続けた安らぎそのものだった。
メイド長のハンナは、毎日気遣わしげに私の様子を見に来てくれた。彼女の温かい言葉には嘘がなく、私の心を少しずつ解きほぐしていく。執事のギルバートは、日に一度、事務的な報告にだけ顔を見せた。彼の硬質な言葉にもまた、嘘はなかった。
ここは、真実と静寂だけで構成された世界。
しかし、その安らぎに慣れ始めた頃、私の心に新たな感情が芽生え始めていた。
焦りだ。
私はここで、一体何をしているのだろう。
この屋敷の主、ゼノン・エルヴァイン公爵は、あの日以来一度も私の前に姿を現さない。私はただ、美しい鳥籠の中で手厚く保護されているだけだ。
このまま、彼の気まぐれで生かされ、飽きられれば捨てられるのだろうか。
「偽りの聖女」として処刑される運命からは逃れた。だが、今の私は公爵の所有物でしかない。自分の意思で未来を選ぶことはできない。その事実は、穏やかな日々の中で、じわじわと私の首を絞めつけていた。
待っているだけでは駄目だ。
この状況を変えるには、私自身が動かなければ。
私は、この城の主に会って直接問いただすことを決意した。
なぜ私を助けたのか。
婚約者とは、一体どういう意味なのか。
そして、これから私をどうするつもりなのか。
答えを得るためには、彼に会うしかない。
ある日の午後、私は意を決して部屋の扉を開けた。
ギルバートからは「邸内で静かに過ごすように」としか言われていない。部屋から出てはいけない、とは言われていなかったはずだ。
私は、ゼノン公爵の執務室を探して、広大な屋敷の中を歩き始めた。
廊下はどこまでも静かだった。分厚い絨毯が私の足音を吸い込み、壁にかけられた歴代当主たちの肖像画が、無言で私を見下ろしている。
時折すれ違う使用人たちは、私に気づくと壁際に寄り、恭しく一礼するだけだ。彼らに執務室の場所を尋ねようかとも思ったが、やめた。ギルバートの指示を受けている彼らが、素直に教えてくれるとは思えない。
私は自分の勘だけを頼りに、迷路のような廊下を進んだ。
東棟の三階。西棟の二階。いくつもの扉を開けては、客間や書庫であることを確認して閉める。その繰り返しだった。
屋敷は、私が想像していた以上に広大だった。そして、どこまでも静かだった。まるで、巨大な生き物の体内に迷い込んだかのような、不思議な感覚に陥る。
諦めかけた、その時だった。
二階の最も奥まった廊下の突き当たり。そこにある、他と何ら変わらない重厚な扉。
しかし、その扉の前だけ、空気が違っていた。
人の気配がする。だが、音がしない。
他の部屋からは、どんなに静かでも微かな生活の音が漏れ聞こえてきた。しかし、この扉の向こうは完全な無音。
私の耳が、そう告げていた。
この静寂は、あの人のものだ。
ゼノン・エルヴァイン公爵。
私はごくりと喉を鳴らし、心臓が大きく脈打つのを感じた。
扉の前で、しばらく立ち尽くす。
ここで引き返すべきか。彼を邪魔すれば、不興を買うかもしれない。
だが、ここで退けば、また何も変わらない日々に戻るだけだ。
私は震える手を持ち上げ、扉を三度、静かにノックした。
コン、コン、コン。
硬い木の感触が、指先に伝わる。
一瞬の沈黙。
やがて、扉の向こうから、低く響く声が聞こえた。
「入れ」
短く、感情のない声。だが、その声を聞いた瞬間、私の心は不思議と落ち着きを取り戻した。
私は深呼吸を一つすると、意を決して扉のノブに手をかけ、ゆっくりと中へ足を踏み入れた。
部屋の中に広がっていたのは、圧倒的な量の「紙」だった。
床から天井まで届くほどの本棚は、分厚い書物で埋め尽くされている。そして、部屋の中央に置かれた巨大な執務机の上には、書類の山がいくつも築かれていた。床にさえ、整理された羊皮紙の束が積み上げられている。
蝋燭と魔法灯の柔らかな光が、その膨大な知識と情報の森を照らし出していた。インクと古い紙の匂いが、部屋の空気を満たしている。
そして、その紙の山の中心に、彼がいた。
ゼノン・エルヴァイン公爵。
彼は黒いシャツを腕まくりし、書類の海に身を沈めるようにして、一心不乱にペンを走らせていた。
私が入ってきたことに気づき、彼は一度だけ金色の瞳を上げた。その視線が私を捉える。しかし、それも一瞬のこと。彼はすぐに手元の書類へと視線を戻し、再びペンを動かし始めた。
まるで、私が部屋に存在しないかのように。
私は、どうしていいか分からず、入り口で立ち尽くした。
部屋の中は、驚くほど静かだった。彼の存在が、この空間の静寂をさらに深めている。
時折、彼が紙をめくる音と、ペンが羊皮紙の上を滑る音だけが響く。その規則正しい音は、不思議と心地よかった。
彼の周りだけ、世界の不協和音が届かない聖域のようだ。
そこにいるだけで、私の心が安らいでいく。焦りや不安でささくれ立っていた感情が、穏やかな水面のように凪いでいくのが分かった。
ずっと、ここにいたい。
そんな突拍子もない考えが、頭をよぎった。
彼が背負っているものの重さが、この部屋の空気から伝わってくる。王国の北方を守る公爵。その責務は、私が想像もできないほどに重いのだろう。
私はただ、黙って彼の姿を見つめていた。
どれくらいの時間が経っただろうか。
不意に、彼の手が止まった。
ゼノン公爵は、書類から顔を上げることなく、静かに口を開いた。
「…何の用だ」
その声は、やはり何の感情も乗っていなかった。
しかし、私には分かった。彼は、私がここにいることをずっと意識していた。そして、私が口を開くのを、ただ待っていたのだ。
私は、ゆっくりと息を吸い込んだ。
尋ねたいことは、山ほどある。
私の声は、この静寂を壊してしまうだろうか。
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