偽りの聖女と呪われた公爵様〜嘘が聞こえる私が、心を閉ざした彼と結ぶ偽りの婚約〜

夏見ナイ

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第十二話 忠誠という名の壁

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夜会の日が、刻一刻と近づいていた。
仕立てられた夜空色のドレスは、私の体に寸分の狂いもなく合っていた。職人の手によって細かな調整が加えられ、銀糸の刺繍はまるで本物の星々のように、私の動きに合わせて繊細な光を放つ。
「まあ、アリーシャ様…なんてお美しい」
鏡の前に立つ私の姿を見て、ハンナがうっとりとため息をついた。その声は、心からの賞賛に満ちた、美しい和音だった。
鏡に映る自分は、まるで知らない誰かのようだった。
銀の髪は高く結い上げられ、首筋にはゼノン公爵が選んだ月長石の首飾りが涼やかな光を宿している。豪華なドレスに負けないようにと、ハンナが薄く施してくれた化粧。その全てが、クライノート家で地味に生きてきた私とは、あまりにもかけ離れていた。
これは、エルヴァイン公爵家の婚約者という役割を演じるための、衣装と仮面。
私は鏡の中の自分に、静かに言い聞かせた。
怖がることはない。これは仕事だ。あの人の隣で、完璧な婚約者を演じきればいい。
そう、覚悟を決めたつもりだった。

夜会の二日前。ギルバートが私の部屋を訪れ、公爵からの呼び出しを告げた。
案内されたのは、執務室でも食堂でもない。屋敷の裏手にある、広大な訓練場だった。
乾いた土の匂いと、微かに漂う汗の匂い。騎士たちの鋭い掛け声や、剣が打ち合う甲高い金属音が、遠くから聞こえてくる。
訓練場の片隅で、ゼノン公爵は腕を組んで立っていた。ラフな訓練用のシャツ姿の彼は、執務室にいる時よりも幾分か大きく、そして危険な雰囲気を纏っているように見えた。
彼の隣には、一人の若い騎士が控えている。背が高く、日に焼けた肌。短く刈り込んだ赤茶色の髪が、強い意志を感じさせた。その瞳は、主であるゼノン公爵ただ一人に、真っ直ぐな忠誠心をもって向けられている。
私が近づくと、騎士は鋭い視線をこちらに向けた。ゼノン公爵は、その騎士に顎をしゃくる。
「紹介する。俺の護衛騎士隊長、レオンハルトだ」
「レオンハルト・クラウゼと申します」
レオンハルトと名乗った騎士は、私に形式的な礼をした。しかし、その声と態度は、あからさまな敵意と警戒心に満ちていた。
彼の心から発せられる音は、不協和音そのものだった。
だが、それは私が今まで聞いてきた、嫉妬や悪意に満ちた粘つくような音とは違う。張り詰めた弦を、無理やり引きちぎるような、硬質で、危険な不協和音。
この女は、信用できない。
主であるゼノン閣下を、その得体の知れない力で惑わしているに違いない。
閣下は、この女に騙されているのではないか。
彼の心の中の疑念が、音となって私の鼓膜を直接攻撃する。その純粋で、揺るぎない不信感は、悪意よりもなお、深く心を抉った。
私は、表情を変えずに会釈を返した。
「アリーシャ・フォン・クライノートです。よろしく」
「…夜会では、私がアリーシャ様の警護を担当させていただきます。閣下のご命令ですので」
レオンハルトは、わざとらしく「ご命令ですので」という部分を強調した。その言葉の裏には、「本意ではないが仕方なく」という棘が隠されている。
この屋敷に来て、初めて向けられる明確な敵意だった。
あの従僕マルクの悪意とは違う。彼の敵意の根源は、ゼノン公爵への絶対的な忠誠心。だからこそ、厄介だった。
「夜会では、多くの者がアリーシャ様を値踏みするような目で見るでしょう。中には、害意を抱く者もいるやもしれません」
レオンハルトは、私を見据えたまま言った。
「ですが、ご安心を。このレオンハルト、いかなる脅威からも、必ずや閣下の大切な…『婚約者』様をお守りいたします」
婚約者。その単語だけが、彼の口から発せられると、皮肉のこもった不協和音となって響いた。彼は、私とゼノン公公爵の関係を全く信じていない。
私は何も言い返せず、ただ黙って彼の言葉を聞いていた。
すると、それまで沈黙を守っていたゼノン公爵が、静かに口を開いた。
「レオンハルト」
「はっ」
「口が過ぎるぞ」
その声は低く、抑揚がなかった。しかし、その一言に込められた圧力は、凄まじいものがあった。
訓練場の空気が、一瞬で凍りつく。
レオンハルトの顔から、血の気が引いた。彼は慌てて、その場に膝をつき、深く頭を垂れた。
「も、申し訳ございません、閣下!俺は、ただ…!」
「彼女は、俺の婚約者だ。俺の客であり、このエルヴァイン公爵家が庇護するべき相手でもある。貴様の個人的な感情で、礼を欠くような真似は許さん。二度はないと思え」
それは、氷のように冷たい叱責だった。
レオンハルトの体が、微かに震えているのが分かった。彼にとって、敬愛する主人からの叱責は、何よりも重い罰なのだろう。
「…御意」
絞り出すような声で彼は答えると、立ち上がった。そして、私の方へ向き直り、再び深く頭を下げる。
「アリーシャ様。先ほどの非礼、心よりお詫び申し上げます」
その言葉に、嘘の音はなかった。
だが、私に向けるその瞳の奥の、警戒の色は少しも消えてはいなかった。彼の不信感は、主人の命令でどうにかなるほど、浅いものではなかったのだ。
ゼノン公爵は、そんな私たちを一瞥すると、私に向き直った。
「夜会では、こいつがお前を警護する。俺のそばを離れる必要がある時は、必ず奴を伴え。いいな」
「…はい」
私は静かに頷くしかなかった。
私を信用していない騎士に、命を預ける。なんという皮肉だろう。
この一件で、私は改めて思い知らされた。
この静寂の城は、ゼノン・エルヴァインという絶対的な太陽を中心に回る、完璧な星系だ。
使用人たちも、騎士たちも、皆が彼に絶対的な忠誠を誓っている。その忠誠心こそが、この城の秩序と静寂を保っている。
そして、私はその星系に迷い込んだ、異物でしかない。
彼が「婚約者」だと言ったから、皆は私をそのように扱う。だが、彼らの心からの信頼を得るには、まだ途方もない時間がかかるだろう。
あるいは、永遠に得られないのかもしれない。
ゼノン公爵は、私を守ってくれた。
けれど、彼が守ってくれたのは、私という個人ではなく、「エルヴァイン公爵の婚約者」という立場だけだ。
彼の騎士が築いた、忠誠という名の見えない壁。
その壁は、私が思っていたよりもずっと高く、厚い。
夜会という社交界の戦場。その前に、私はまずこの城の中で、自らの居場所を確立しなければならないのだ。
訓練場に吹く乾いた風が、私の頬を冷たく撫でていった。
その風は、これから始まる戦いの厳しさを、私に告げているようだった。
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