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第十三話 耳の価値
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夜会が明日に迫った日の午後。私は、自室でドレスの最終的な着付け確認をしていた。
夜空色の生地が、体の線に沿って滑らかに流れる。鏡に映る姿は、まだ見慣れない。まるで、高価な人形にでもなった気分だった。
「本当に、よくお似合いですわ」
ハンナが、心からの讚辞を口にする。その温かい和音に、私は少しだけ微笑むことができた。
しかし、部屋の隅に控える護衛騎士レオンハルトの視線は、相変わらず氷のように冷たい。彼の存在そのものが、無言の不協和音となって私の肌を刺す。
彼は私を守る。主人の命令だから。
だが、彼は私を認めていない。主人の隣に立つにふさわしくない、得体の知れない女だと思っている。
その事実が、美しいドレスの下で、私の心を重くさせていた。
私は、この城の異物。ただ守られるだけの、か弱い存在。
そんな無力感が、再び胸に広がりかけた時だった。
「失礼いたします。アリーシャ様、閣下がお呼びです」
扉の外から、ギルバートの硬質な声がした。
また、あの執務室だろうか。
私はハンナに目配せして着付けを解いてもらうと、簡素な部屋着に着替え、ギルバートの後に続いた。
レオンハルトが、無言で数歩後ろを歩いてくる。その足音は、まるで看守のそれのようだった。
案内された先は、やはりあの執務室だった。
紙の山に埋もれる静寂の主。その光景は、もはや見慣れたものになっていた。
私が入室するのを確認すると、ゼノン公爵はペンを置き、一つの山を指し示した。それは、今までそこにはなかった、革の表紙で綴じられた分厚い帳簿の束だった。
「明日から、しばらく王城へ詰めることになる。その前に、お前に仕事を頼む」
仕事。その言葉に、私はわずかに身を強張らせた。
「これを、調べろ」
彼は、その帳簿の山を顎で示した。
「…これは、会計帳簿、ですか」
「ああ。この半年の、エルヴァイン公爵家のものだ」
会計帳簿。数字の羅列。私にとっては、異国の呪文と何ら変わりない。
「ですが、私には会計の知識など…」
「知識は不要だ」
彼は、私の言葉を遮った。
「お前の目で見るな。耳で聞け」
耳で、聞く。
その言葉の意味を、私はすぐに理解した。彼は、私の能力を試そうとしている。
これが、私の最初の「仕事」。
「取引の条件を覚えているな。お前は、俺の『耳』だ。その耳が、どれほど使えるものなのか。ここで証明してみせろ」
金色の瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。
試されている。値踏みされている。
レオンハルトの前で、無能な女だと証明されてしまうかもしれない。そんな恐怖が、一瞬、心をよぎった。
だが、それ以上に。
明確な役割を与えられたことへの、微かな高揚感が私の胸に広がった。
ただ守られるだけの存在ではない。彼の役に立てるかもしれない。
「…分かりました。やらせていただきます」
私は、静かに、しかしはっきりと答えた。
私の返事を聞くと、彼は満足したように頷き、控えていたギルバートに命じた。
「経理担当のノアを呼べ」
すぐに、ノアと名乗る人の良さそうな若い文官が、執務室へ入ってきた。彼は突然の呼び出しに戸惑いながらも、主人と私に深く頭を下げる。
「ノア。彼女は、帳簿の監査役だ。今日中に、この半年分の帳簿の内容を、彼女に全て説明しろ。一項目たりとも、飛ばすな」
「は、はあ…」
ノアは、訳が分からないといった顔で私と公爵を交互に見た。無理もない。貴族の令嬢が、いきなり帳簿の監査役になるなど、前代未聞だろう。
「監査に必要な部屋を用意しろ。誰の邪魔も入らん場所をだ」
「御意」
ギルバートは一礼すると、ノアと私を伴って執務室を後にした。
レオンハルトは、執務室の前に留まるよう命じられたようだ。彼が、悔しそうな顔で私を睨みつけていたのを、私は視界の隅で捉えていた。
案内されたのは、西棟にある小さな書斎だった。
埃っぽい紙の匂いがする、静かな部屋。机の上には、先ほどの会計帳簿が山と積まれている。
「…あの、アリーシャ様。わたくしは、一体何をすればよろしいのでしょうか」
ノアが、困惑しきった様子で私に尋ねた。彼の声は、純粋な戸惑いの和音を奏でている。彼自身に、やましいところは何もないのだろう。
「ノアさん。その帳簿を、最初から最後まで、全て読み上げてください」
「は…?読み上げる、でございますか」
「ええ。そこに書かれている項目と金額を、一つずつ、あなたの声で」
私の奇妙な指示に、彼はますます混乱したようだった。しかし、主人の命令は絶対だ。彼は「かしこまりました」と頷くと、一番上の帳簿を手に取り、恐る恐るその内容を読み上げ始めた。
「四月一日。王都商会より、馬具一式購入。代金、金貨三十枚…」
彼の声は、少し緊張していたが、実直で、真面目な響きを持っていた。嘘の音は、一切混じっていない。
私は目を閉じ、彼の声だけに集中した。
数字や項目を、頭で理解しようとはしない。ただ、音として、彼の声が奏でる旋律の変化だけを捉えようと試みる。
「四月三日。北部農場より、小麦を百袋購入。代金、金貨二百枚…」
「四月五日。鍛冶ギルドへ、鉄鉱石の購入代金を支払い。金貨五百枚…」
作業は、想像を絶するほどに地道で、退屈なものだった。
時間は、ゆっくりと流れていく。
窓の外の光が、白から黄色へ、そして茜色へと変わっていく。部屋に灯された魔法灯の光だけが、私たちの姿を照らしていた。
ノアの声は、長時間の発声で少し掠れてきている。それでも彼は、文句一つ言わずに、淡々と帳簿を読み上げ続けてくれた。
何冊もの帳簿が、読み終えられていく。
私の集中力も、限界に近づいていた。全ての音が、同じように聞こえ始める。
やはり、私には無理だったのかもしれない。
そんな諦めの気持ちが、心をよぎった、その時だった。
「…六月二十日。宮廷御用達、アザリー商会より、来客用の高級茶葉を購入。代金、金貨五十枚…」
その項目を読み上げた瞬間。
ほんの僅か、本当に、注意していなければ聞き逃してしまうほど微かに。
ノアの声の音程が、揺れた。
それは、不協和音と呼ぶにはあまりにも些細な、音のささくれのようなもの。
彼が嘘をついている音ではない。
彼自身、無意識のうちに、その項目に対して「何かおかしい」と感じている。その微かな疑念が、声に迷いとなって現れたのだ。
私は、閉じていた目を見開いた。
疲労で霞んでいた意識が、一瞬で覚醒する。
「…待って」
私の静かな声に、ノアは驚いて顔を上げた。
「今の項目。もう一度、お願いします」
私の瞳に、鋭い光が宿るのを、自分でも感じていた。
見つけた。
この静寂の城に潜む、最初の不協和音の糸口を。
夜空色の生地が、体の線に沿って滑らかに流れる。鏡に映る姿は、まだ見慣れない。まるで、高価な人形にでもなった気分だった。
「本当に、よくお似合いですわ」
ハンナが、心からの讚辞を口にする。その温かい和音に、私は少しだけ微笑むことができた。
しかし、部屋の隅に控える護衛騎士レオンハルトの視線は、相変わらず氷のように冷たい。彼の存在そのものが、無言の不協和音となって私の肌を刺す。
彼は私を守る。主人の命令だから。
だが、彼は私を認めていない。主人の隣に立つにふさわしくない、得体の知れない女だと思っている。
その事実が、美しいドレスの下で、私の心を重くさせていた。
私は、この城の異物。ただ守られるだけの、か弱い存在。
そんな無力感が、再び胸に広がりかけた時だった。
「失礼いたします。アリーシャ様、閣下がお呼びです」
扉の外から、ギルバートの硬質な声がした。
また、あの執務室だろうか。
私はハンナに目配せして着付けを解いてもらうと、簡素な部屋着に着替え、ギルバートの後に続いた。
レオンハルトが、無言で数歩後ろを歩いてくる。その足音は、まるで看守のそれのようだった。
案内された先は、やはりあの執務室だった。
紙の山に埋もれる静寂の主。その光景は、もはや見慣れたものになっていた。
私が入室するのを確認すると、ゼノン公爵はペンを置き、一つの山を指し示した。それは、今までそこにはなかった、革の表紙で綴じられた分厚い帳簿の束だった。
「明日から、しばらく王城へ詰めることになる。その前に、お前に仕事を頼む」
仕事。その言葉に、私はわずかに身を強張らせた。
「これを、調べろ」
彼は、その帳簿の山を顎で示した。
「…これは、会計帳簿、ですか」
「ああ。この半年の、エルヴァイン公爵家のものだ」
会計帳簿。数字の羅列。私にとっては、異国の呪文と何ら変わりない。
「ですが、私には会計の知識など…」
「知識は不要だ」
彼は、私の言葉を遮った。
「お前の目で見るな。耳で聞け」
耳で、聞く。
その言葉の意味を、私はすぐに理解した。彼は、私の能力を試そうとしている。
これが、私の最初の「仕事」。
「取引の条件を覚えているな。お前は、俺の『耳』だ。その耳が、どれほど使えるものなのか。ここで証明してみせろ」
金色の瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。
試されている。値踏みされている。
レオンハルトの前で、無能な女だと証明されてしまうかもしれない。そんな恐怖が、一瞬、心をよぎった。
だが、それ以上に。
明確な役割を与えられたことへの、微かな高揚感が私の胸に広がった。
ただ守られるだけの存在ではない。彼の役に立てるかもしれない。
「…分かりました。やらせていただきます」
私は、静かに、しかしはっきりと答えた。
私の返事を聞くと、彼は満足したように頷き、控えていたギルバートに命じた。
「経理担当のノアを呼べ」
すぐに、ノアと名乗る人の良さそうな若い文官が、執務室へ入ってきた。彼は突然の呼び出しに戸惑いながらも、主人と私に深く頭を下げる。
「ノア。彼女は、帳簿の監査役だ。今日中に、この半年分の帳簿の内容を、彼女に全て説明しろ。一項目たりとも、飛ばすな」
「は、はあ…」
ノアは、訳が分からないといった顔で私と公爵を交互に見た。無理もない。貴族の令嬢が、いきなり帳簿の監査役になるなど、前代未聞だろう。
「監査に必要な部屋を用意しろ。誰の邪魔も入らん場所をだ」
「御意」
ギルバートは一礼すると、ノアと私を伴って執務室を後にした。
レオンハルトは、執務室の前に留まるよう命じられたようだ。彼が、悔しそうな顔で私を睨みつけていたのを、私は視界の隅で捉えていた。
案内されたのは、西棟にある小さな書斎だった。
埃っぽい紙の匂いがする、静かな部屋。机の上には、先ほどの会計帳簿が山と積まれている。
「…あの、アリーシャ様。わたくしは、一体何をすればよろしいのでしょうか」
ノアが、困惑しきった様子で私に尋ねた。彼の声は、純粋な戸惑いの和音を奏でている。彼自身に、やましいところは何もないのだろう。
「ノアさん。その帳簿を、最初から最後まで、全て読み上げてください」
「は…?読み上げる、でございますか」
「ええ。そこに書かれている項目と金額を、一つずつ、あなたの声で」
私の奇妙な指示に、彼はますます混乱したようだった。しかし、主人の命令は絶対だ。彼は「かしこまりました」と頷くと、一番上の帳簿を手に取り、恐る恐るその内容を読み上げ始めた。
「四月一日。王都商会より、馬具一式購入。代金、金貨三十枚…」
彼の声は、少し緊張していたが、実直で、真面目な響きを持っていた。嘘の音は、一切混じっていない。
私は目を閉じ、彼の声だけに集中した。
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「四月三日。北部農場より、小麦を百袋購入。代金、金貨二百枚…」
「四月五日。鍛冶ギルドへ、鉄鉱石の購入代金を支払い。金貨五百枚…」
作業は、想像を絶するほどに地道で、退屈なものだった。
時間は、ゆっくりと流れていく。
窓の外の光が、白から黄色へ、そして茜色へと変わっていく。部屋に灯された魔法灯の光だけが、私たちの姿を照らしていた。
ノアの声は、長時間の発声で少し掠れてきている。それでも彼は、文句一つ言わずに、淡々と帳簿を読み上げ続けてくれた。
何冊もの帳簿が、読み終えられていく。
私の集中力も、限界に近づいていた。全ての音が、同じように聞こえ始める。
やはり、私には無理だったのかもしれない。
そんな諦めの気持ちが、心をよぎった、その時だった。
「…六月二十日。宮廷御用達、アザリー商会より、来客用の高級茶葉を購入。代金、金貨五十枚…」
その項目を読み上げた瞬間。
ほんの僅か、本当に、注意していなければ聞き逃してしまうほど微かに。
ノアの声の音程が、揺れた。
それは、不協和音と呼ぶにはあまりにも些細な、音のささくれのようなもの。
彼が嘘をついている音ではない。
彼自身、無意識のうちに、その項目に対して「何かおかしい」と感じている。その微かな疑念が、声に迷いとなって現れたのだ。
私は、閉じていた目を見開いた。
疲労で霞んでいた意識が、一瞬で覚醒する。
「…待って」
私の静かな声に、ノアは驚いて顔を上げた。
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