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第十四話 帳簿に記された小さな嘘
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「待って」
私の声に、帳簿を読み上げていたノアの肩がびくりと震えた。彼は驚いた顔で私を見つめる。無理もない。何時間もの間、私はただ黙って彼の声を聞いているだけだったのだから。
「今の項目。アザリー商会からの茶葉の購入。もう一度、お願いします」
私の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。疲労は感じていたが、脳の一点だけが鋭く覚醒している。
「は、はい…。ええと、六月二十日。アザリー商会より、高級茶葉を購入。代金、金貨五十枚…」
ノアは言われた通りに繰り返す。
やはり、そうだ。
彼の声に、ほんの僅かな揺らぎが生じる。それは、嘘の不協和音ではない。彼自身が、その項目を読み上げることに無意識の抵抗を感じている音。彼自身が抱く、小さな違和感の表れだ。
「ノアさん」
「は、はい」
「そのアザリー商会との取引は、この帳簿に他にどれくらいありますか」
私の問いに、彼は慌てて指でページを繰り始めた。
「ええと…この半年ですと、月に一度、定期的にございます。主に、来客用の茶葉や菓子、それから祝祭用のワインなどを」
「それらの項目を、全て読み上げてください」
「全て、でございますか」
「ええ。お願いします」
ノアは戸惑いながらも、私の指示に従った。彼は該当するページを探し出し、アザリー商会との取引だけを拾い読みしていく。
「四月十五日、祝祭用ワイン、金貨百枚…」
「五月十八日、来客用焼き菓子詰め合わせ、金貨三十枚…」
「七月二十二日、最高級茶葉…」
項目は違う。金額も違う。しかし、共通していることが一つだけあった。
アザリー商会の名が読み上げられるたびに、ノアの声の音程が、ほんの僅かに、だが確かに揺らぐのだ。
彼は、嘘をついていない。この帳簿に書かれている数字も、事実なのだろう。
だが、彼はこの取引そのものに、何か釈然としないものを感じている。
「ノアさん。あなた自身、このアザリー商会との取引について、何か思うところがあるのではありませんか」
私は、静かに核心を突いた。
私の言葉に、ノアは息を呑んだ。彼の顔から、さっと血の気が引いていく。その目は、まるで魔法使いでも見るかのように、驚愕の色に染まっていた。
「な…なぜ、それを…」
彼の声は震えていた。
「あなたの声が、教えてくれました」
私はそれだけ言うと、彼の次の言葉を待った。
ノアはしばらくの間、呆然と私を見つめていたが、やがて観念したように、重い口を開いた。
「…お恥ずかしながら、アリーシャ様のおっしゃる通りです」
彼は視線を落とし、ぽつりぽつりと語り始めた。
「アザリー商会は、宮廷にも品を納めるほどの超一流店です。品質は確かでしょう。ですが、それにしても…価格が、どうにも高すぎるように感じておりました」
「高すぎる?」
「はい。例えば、この茶葉ですが、同じ等級のものを他の商会から仕入れれば、おそらく七割ほどの値段で済むはずです。ワインにしても、菓子にしても、全てが市場価格より三割ほど高く設定されている」
やはり、そうだったのか。
「ですが、これは私が経理担当になるずっと以前から、慣例として続けられてきた取引なのです。前任の経理責任者であったバルツ様からも、アザリー商会は『特別なお得意様』だから、取引条件には口を出すなと、きつく言われておりました」
バルツ。前任者の名前だ。
「私も、一介の文官に過ぎません。長年の慣習に異を唱えることなどできず…疑問に思いながらも、ただ帳簿に印を押すだけでした」
彼の声には、自らの無力さを悔いる、正直な和音が響いていた。
「あなたのせいではありません、ノアさん。あなたは、自分の職務に忠実だっただけです」
私は彼を労うと、思考を巡らせた。
前任者バルツとアザリー商会。この二つの間に、何かがある。
「ノアさん。そのバルツという方が担当していた時期の帳簿を、見せていただくことはできますか。できれば、一年以上前のものを」
「はっ、はい!すぐに!」
ノアは弾かれたように立ち上がると、書斎を飛び出していった。彼の中で、燻っていた疑念が、確信に変わろうとしている。その興奮が、彼の足取りを軽くしていた。
しばらくして、ノアは数人の従僕と共に、埃をかぶった古い帳簿を何冊も抱えて戻ってきた。
「アリーシャ様、お持ちいたしました。これは、二年前に使われていた帳簿です」
私は、その中の一冊を受け取ると、静かにページを開いた。
「この頃、アザリー商会以外の店から、茶葉やワインを購入した記録はありますか」
「はい、ございます。当時はまだ、複数の商会と取引がございました。アザリー商会との取引が中心になったのは、ここ一年半ほどのことです」
「では、同じ品物を、別の商会から購入した際の記録を探してください」
ノアは頷くと、古い帳簿のページを慣れた手つきでめくり始めた。
やがて、彼は一つの項目を指さした。
「ありました。こちらです。王都の老舗、マクベイン商会から、同じ等級の茶葉を購入した際の記録が」
私は、その項目を覗き込んだ。そして、現在のアザリー商会との取引が記された帳簿と見比べる。
そこに記されていた数字は、私の推測を裏付けるものだった。
マクベイン商会からの購入価格、金貨三十五枚。
アザリー商会からの購入価格、金貨五十枚。
品質は同じ。しかし、価格には歴然とした差があった。
「…これは」
ノアが、息を呑むのが分かった。
これは、単なる割高な取引ではない。意図的に、公爵家の金を特定の商会に流している。
横領だ。
「ノアさん、もう一つ。この取引に関わる、納品書や請求書は残っていますか」
「はい、全て保管してあるはずです」
私たちは、別の書庫へ向かい、膨大な書類の束の中から、アザリー商会が発行したものを探し出した。
何枚もの羊皮紙を、一枚一枚、丁寧に調べていく。
そして、私は見つけた。
いくつかの納品書に書かれた、商会長のサイン。その筆跡が、他のものと比べて、僅かに震えている。インクのかすれ具合が、不自然だ。
それは、自信に満ちた人間のサインではなかった。
嘘をついている人間の、ためらいと恐怖が滲み出たサイン。
「このサインをした人間は、嘘をついています」
私は、その納品書を指さし、断言した。
「おそらく、この納品書に書かれた品物の数や品質は、偽りです。帳簿の価格を正当化するために、中身を偽装している」
前任の経理責任者バルツと、アザリー商会が共謀し、長年にわたって水増し請求を繰り返してきた。差額は、彼らの懐に入っていたのだろう。
全ての点が、線で繋がった。
「…信じられん」
ノアは、証拠の書類を手に、わなわなと震えていた。長年抱いてきた違和感の正体が、今、目の前で暴かれたのだ。彼の驚きは、やがて静かな怒りへと変わっていった。
「バルツ様が、まさか公爵家を裏切るようなことを…」
私は、疲労で重くなった体を、ゆっくりと椅子に預けた。
頭が、ずきずきと痛む。長時間にわたって音に集中し続けた反動だろう。
だが、その痛みは、不思議と不快ではなかった。
初めて、自分のこの呪われた力で、何かを成し遂げた。
ただ守られるだけのか弱い令嬢ではない。私は、ゼノン・エルヴァインの役に立てる。彼の「耳」として、この静寂の城を守ることができる。
その確かな手応えが、疲弊した私の心を、温かい充実感で満たしていた。
私は立ち上がると、ノアに向き直った。
「行きましょう、ノアさん」
「え…どこへ、でございますか」
「決まっています。公爵閣下のもとへ。ご報告に」
私は、証拠となる帳簿と納品書を、しっかりと胸に抱いた。
これは、私が彼の「耳」として手に入れた、最初の戦果だ。
私はもう、無力な異物ではない。
この城の静寂を守る、当事者なのだ。
その静かな決意を胸に、私は再び、あの執務室へと向かった。
私の声に、帳簿を読み上げていたノアの肩がびくりと震えた。彼は驚いた顔で私を見つめる。無理もない。何時間もの間、私はただ黙って彼の声を聞いているだけだったのだから。
「今の項目。アザリー商会からの茶葉の購入。もう一度、お願いします」
私の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。疲労は感じていたが、脳の一点だけが鋭く覚醒している。
「は、はい…。ええと、六月二十日。アザリー商会より、高級茶葉を購入。代金、金貨五十枚…」
ノアは言われた通りに繰り返す。
やはり、そうだ。
彼の声に、ほんの僅かな揺らぎが生じる。それは、嘘の不協和音ではない。彼自身が、その項目を読み上げることに無意識の抵抗を感じている音。彼自身が抱く、小さな違和感の表れだ。
「ノアさん」
「は、はい」
「そのアザリー商会との取引は、この帳簿に他にどれくらいありますか」
私の問いに、彼は慌てて指でページを繰り始めた。
「ええと…この半年ですと、月に一度、定期的にございます。主に、来客用の茶葉や菓子、それから祝祭用のワインなどを」
「それらの項目を、全て読み上げてください」
「全て、でございますか」
「ええ。お願いします」
ノアは戸惑いながらも、私の指示に従った。彼は該当するページを探し出し、アザリー商会との取引だけを拾い読みしていく。
「四月十五日、祝祭用ワイン、金貨百枚…」
「五月十八日、来客用焼き菓子詰め合わせ、金貨三十枚…」
「七月二十二日、最高級茶葉…」
項目は違う。金額も違う。しかし、共通していることが一つだけあった。
アザリー商会の名が読み上げられるたびに、ノアの声の音程が、ほんの僅かに、だが確かに揺らぐのだ。
彼は、嘘をついていない。この帳簿に書かれている数字も、事実なのだろう。
だが、彼はこの取引そのものに、何か釈然としないものを感じている。
「ノアさん。あなた自身、このアザリー商会との取引について、何か思うところがあるのではありませんか」
私は、静かに核心を突いた。
私の言葉に、ノアは息を呑んだ。彼の顔から、さっと血の気が引いていく。その目は、まるで魔法使いでも見るかのように、驚愕の色に染まっていた。
「な…なぜ、それを…」
彼の声は震えていた。
「あなたの声が、教えてくれました」
私はそれだけ言うと、彼の次の言葉を待った。
ノアはしばらくの間、呆然と私を見つめていたが、やがて観念したように、重い口を開いた。
「…お恥ずかしながら、アリーシャ様のおっしゃる通りです」
彼は視線を落とし、ぽつりぽつりと語り始めた。
「アザリー商会は、宮廷にも品を納めるほどの超一流店です。品質は確かでしょう。ですが、それにしても…価格が、どうにも高すぎるように感じておりました」
「高すぎる?」
「はい。例えば、この茶葉ですが、同じ等級のものを他の商会から仕入れれば、おそらく七割ほどの値段で済むはずです。ワインにしても、菓子にしても、全てが市場価格より三割ほど高く設定されている」
やはり、そうだったのか。
「ですが、これは私が経理担当になるずっと以前から、慣例として続けられてきた取引なのです。前任の経理責任者であったバルツ様からも、アザリー商会は『特別なお得意様』だから、取引条件には口を出すなと、きつく言われておりました」
バルツ。前任者の名前だ。
「私も、一介の文官に過ぎません。長年の慣習に異を唱えることなどできず…疑問に思いながらも、ただ帳簿に印を押すだけでした」
彼の声には、自らの無力さを悔いる、正直な和音が響いていた。
「あなたのせいではありません、ノアさん。あなたは、自分の職務に忠実だっただけです」
私は彼を労うと、思考を巡らせた。
前任者バルツとアザリー商会。この二つの間に、何かがある。
「ノアさん。そのバルツという方が担当していた時期の帳簿を、見せていただくことはできますか。できれば、一年以上前のものを」
「はっ、はい!すぐに!」
ノアは弾かれたように立ち上がると、書斎を飛び出していった。彼の中で、燻っていた疑念が、確信に変わろうとしている。その興奮が、彼の足取りを軽くしていた。
しばらくして、ノアは数人の従僕と共に、埃をかぶった古い帳簿を何冊も抱えて戻ってきた。
「アリーシャ様、お持ちいたしました。これは、二年前に使われていた帳簿です」
私は、その中の一冊を受け取ると、静かにページを開いた。
「この頃、アザリー商会以外の店から、茶葉やワインを購入した記録はありますか」
「はい、ございます。当時はまだ、複数の商会と取引がございました。アザリー商会との取引が中心になったのは、ここ一年半ほどのことです」
「では、同じ品物を、別の商会から購入した際の記録を探してください」
ノアは頷くと、古い帳簿のページを慣れた手つきでめくり始めた。
やがて、彼は一つの項目を指さした。
「ありました。こちらです。王都の老舗、マクベイン商会から、同じ等級の茶葉を購入した際の記録が」
私は、その項目を覗き込んだ。そして、現在のアザリー商会との取引が記された帳簿と見比べる。
そこに記されていた数字は、私の推測を裏付けるものだった。
マクベイン商会からの購入価格、金貨三十五枚。
アザリー商会からの購入価格、金貨五十枚。
品質は同じ。しかし、価格には歴然とした差があった。
「…これは」
ノアが、息を呑むのが分かった。
これは、単なる割高な取引ではない。意図的に、公爵家の金を特定の商会に流している。
横領だ。
「ノアさん、もう一つ。この取引に関わる、納品書や請求書は残っていますか」
「はい、全て保管してあるはずです」
私たちは、別の書庫へ向かい、膨大な書類の束の中から、アザリー商会が発行したものを探し出した。
何枚もの羊皮紙を、一枚一枚、丁寧に調べていく。
そして、私は見つけた。
いくつかの納品書に書かれた、商会長のサイン。その筆跡が、他のものと比べて、僅かに震えている。インクのかすれ具合が、不自然だ。
それは、自信に満ちた人間のサインではなかった。
嘘をついている人間の、ためらいと恐怖が滲み出たサイン。
「このサインをした人間は、嘘をついています」
私は、その納品書を指さし、断言した。
「おそらく、この納品書に書かれた品物の数や品質は、偽りです。帳簿の価格を正当化するために、中身を偽装している」
前任の経理責任者バルツと、アザリー商会が共謀し、長年にわたって水増し請求を繰り返してきた。差額は、彼らの懐に入っていたのだろう。
全ての点が、線で繋がった。
「…信じられん」
ノアは、証拠の書類を手に、わなわなと震えていた。長年抱いてきた違和感の正体が、今、目の前で暴かれたのだ。彼の驚きは、やがて静かな怒りへと変わっていった。
「バルツ様が、まさか公爵家を裏切るようなことを…」
私は、疲労で重くなった体を、ゆっくりと椅子に預けた。
頭が、ずきずきと痛む。長時間にわたって音に集中し続けた反動だろう。
だが、その痛みは、不思議と不快ではなかった。
初めて、自分のこの呪われた力で、何かを成し遂げた。
ただ守られるだけのか弱い令嬢ではない。私は、ゼノン・エルヴァインの役に立てる。彼の「耳」として、この静寂の城を守ることができる。
その確かな手応えが、疲弊した私の心を、温かい充実感で満たしていた。
私は立ち上がると、ノアに向き直った。
「行きましょう、ノアさん」
「え…どこへ、でございますか」
「決まっています。公爵閣下のもとへ。ご報告に」
私は、証拠となる帳簿と納品書を、しっかりと胸に抱いた。
これは、私が彼の「耳」として手に入れた、最初の戦果だ。
私はもう、無力な異物ではない。
この城の静寂を守る、当事者なのだ。
その静かな決意を胸に、私は再び、あの執務室へと向かった。
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