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第十五話 信頼の萌芽
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夜の闇が、エルヴァイン公爵邸を静かに包み込んでいた。
執務室へと続く長い廊下は、壁に灯された魔法灯の光がぼんやりと照らすだけだ。私の前を歩くノアの背中は、緊張で硬直している。私の胸には、証拠となる帳簿と納品書が、確かな重みをもって抱かれていた。
執務室の扉の前で、護衛騎士のレオンハルトが壁に寄りかかって立っていた。彼は私とノアの姿を認めると、その鋭い視線で射抜くように見つめてきた。その瞳には、あからさまな不信と侮蔑の色が浮かんでいる。
「…閣下は、まだお仕事中だ。邪魔をするな」
低い声で、彼は私たちを追い払おうとした。
「公爵閣下にご報告が。通してください」
私は、彼の視線を真っ直ぐに受け止め、毅然と言い返した。私の声に宿る揺るぎない響きに、レオンハルトはわずかに目を見開いた。
彼はしばらく私を睨みつけていたが、やがて忌々しげに舌打ちをすると、扉の前を譲った。彼の中の不協和音は、何も変わってはいない。だが、私の態度に何かを感じたのか、それ以上の妨害はしてこなかった。
扉をノックし、入室の許可を得る。
部屋の中は、昼間と何ら変わらない光景だった。ただ、窓の外が闇に包まれているだけだ。ゼノン公爵は、疲れも見せず、淡々と書類に目を通していた。
「…終わったのか」
彼は顔も上げずに尋ねた。
「はい。ご報告いたします」
私は机の前まで進み出ると、抱えていた帳簿と納品書を、彼の前に静かに置いた。ノアが、私の隣で固唾を飲んで控えている。
私は、深呼吸を一つした。そして、発見した事実を、順序立てて説明し始めた。
ノアの声に潜んでいた微かな揺らぎ。市場価格と著しく乖離した取引価格。前任の経理責任者バルツと、アザリー商会との癒着の可能性。そして、偽装された納品書のサインから聞こえた、明確な嘘の響き。
私の言葉を、ゼノン公爵は黙って聞いていた。その金色の瞳は、私が差し出した書類の上を滑っている。表情は、相変わらずの氷の仮面だ。
隣で聞いているレオンハルトの気配が変わった。彼の心から発せられる不信の音に、驚愕と戸惑いの響きが混じり始める。彼は、私が語る内容のあまりの具体性に、言葉を失っているようだった。
「…以上が、私の耳が捉えた『嘘』の正体です」
私は、報告を締めくくった。
部屋に、沈黙が落ちる。聞こえるのは、蝋燭の炎が微かにはぜる音だけ。
やがて、ゼノン公爵は書類から顔を上げた。その視線は、私の隣に立つノアに向けられた。
「ノア」
「は、はいっ」
ノアは、背筋を伸ばして返事をした。
「お前は、この報告が真実だと思うか」
「…はい。わたくしも、長年疑問に思っておりました。ですが、確証がなかったために…」
「もうよい」
ゼノン公爵は、ノアの言葉を遮ると、机の上のベルを鳴らした。
すぐに、ギルバートが音もなく入室する。
「バルツの屋敷を包囲しろ。本人を拘束し、家宅捜索を許可する。金の流れに関するものは、どんな些細な紙切れ一枚でも見逃すな」
その命令は、淀みなく、そして冷徹だった。
「それから、レオンハルト」
「はっ」
扉の前に控えていたレオンハルトが、弾かれたように返事をした。
「騎士を数名連れ、アザリー商会へ向かえ。商会長を捕らえ、店を封鎖しろ。帳簿と在庫を全て差し押さえろ。抵抗する者は、斬り捨てて構わん」
「御意!」
レオンハルトの声には、先ほどまでの私への不信感とは違う、任務を与えられた騎士としての緊張感が漲っていた。彼は一礼すると、風のように部屋を飛び出していく。
あまりの展開の速さに、私とノアはただ立ち尽くすことしかできなかった。
彼は、私の報告を信じたのだ。
私の耳が聞いた、形のない「音」を、動かぬ証拠として受け入れた。
ギルバートもまた、主人の命令に一礼すると、静かに部屋を退出していった。嵐のような命令の後、執務室には再び、私とゼノン公爵、そしてノアの三人だけが残された。
ゼノン公爵は、椅子に深く座り直すと、組んだ指の上で顎を休ませた。そして、その金色の瞳で、真っ直ぐに私を見つめた。
その瞳に、私は初めて見る光を見た。
それは、冷たいガラス玉のような無機質な輝きではない。私の内側を、能力を、そしてその価値を、正確に見定めようとする、鋭い探求者の光。
そして、その奥に、ほんの微かな、だが確かな光が宿っていた。
それは、信頼、という名の光の萌芽だった。
「…よくやった」
彼の口から、低く、静かな言葉が紡がれた。
それは、誰かを褒めるという行為に慣れていない人間の、ぎこちない労いの言葉だった。
だが、その言葉に、嘘の音は一切なかった。
心からの、真実の響き。
そのたった一言が、私の心の奥深くまで、温かく染み渡っていく。
疲労で張り詰めていた体の糸が、ぷつりと切れた。視界が、ぐらりと揺れる。長時間にわたる集中の反動が、一気に押し寄せてきたのだ。
倒れそうになった私の体を、とっさに支えたのは、隣にいたノアだった。
「アリーシャ様!?」
「…大丈夫、です。少し、疲れただけで…」
私がそう言うのがやっとだった。
ゼノン公爵が、音もなく立ち上がる。彼は、机を回り込むと、私の目の前までやってきた。
彼の大きな影が、私をすっぽりと覆う。
「ノア。彼女を部屋まで送れ」
「は、はい!かしこまりました!」
「それから、お前も今夜は休め。此度の件、お前の功績も大きい」
「も、もったいないお言葉です!」
ノアは、恐縮しながらも、その顔には誇らしげな色が浮かんでいた。
私は、ノアの肩を借りながら、ふらつく足で執務室を後にした。
扉が閉まる直前、私はもう一度だけ、部屋の中の静寂の主を振り返った。
彼は、もう私を見てはいなかった。
ただ、机の上に広げられた王都の地図を、静かに見下ろしている。その横顔は、これから始まるであろう、さらに大きな戦いを見据えているかのようだった。
部屋に戻り、ベッドに倒れ込む。
体は鉛のように重い。けれど、心は不思議と軽かった。
初めて、自分の力で何かを成し遂げた。
初めて、彼に認められた。
その事実が、明日への恐怖を、ほんの少しだけ和らげてくれる。
夜会は、戦場だ。
だが、今の私には、戦うための武器がある。
この呪われた耳は、彼の役に立つことができるのだ。
私は、静寂の城の、ただの囚人ではない。
彼の、唯一無二の「耳」なのだから。
その確かな自覚を胸に、私は深い眠りへと落ちていった。夜会がもたらすであろう嵐のことなど、今はもう、考えないようにして。
執務室へと続く長い廊下は、壁に灯された魔法灯の光がぼんやりと照らすだけだ。私の前を歩くノアの背中は、緊張で硬直している。私の胸には、証拠となる帳簿と納品書が、確かな重みをもって抱かれていた。
執務室の扉の前で、護衛騎士のレオンハルトが壁に寄りかかって立っていた。彼は私とノアの姿を認めると、その鋭い視線で射抜くように見つめてきた。その瞳には、あからさまな不信と侮蔑の色が浮かんでいる。
「…閣下は、まだお仕事中だ。邪魔をするな」
低い声で、彼は私たちを追い払おうとした。
「公爵閣下にご報告が。通してください」
私は、彼の視線を真っ直ぐに受け止め、毅然と言い返した。私の声に宿る揺るぎない響きに、レオンハルトはわずかに目を見開いた。
彼はしばらく私を睨みつけていたが、やがて忌々しげに舌打ちをすると、扉の前を譲った。彼の中の不協和音は、何も変わってはいない。だが、私の態度に何かを感じたのか、それ以上の妨害はしてこなかった。
扉をノックし、入室の許可を得る。
部屋の中は、昼間と何ら変わらない光景だった。ただ、窓の外が闇に包まれているだけだ。ゼノン公爵は、疲れも見せず、淡々と書類に目を通していた。
「…終わったのか」
彼は顔も上げずに尋ねた。
「はい。ご報告いたします」
私は机の前まで進み出ると、抱えていた帳簿と納品書を、彼の前に静かに置いた。ノアが、私の隣で固唾を飲んで控えている。
私は、深呼吸を一つした。そして、発見した事実を、順序立てて説明し始めた。
ノアの声に潜んでいた微かな揺らぎ。市場価格と著しく乖離した取引価格。前任の経理責任者バルツと、アザリー商会との癒着の可能性。そして、偽装された納品書のサインから聞こえた、明確な嘘の響き。
私の言葉を、ゼノン公爵は黙って聞いていた。その金色の瞳は、私が差し出した書類の上を滑っている。表情は、相変わらずの氷の仮面だ。
隣で聞いているレオンハルトの気配が変わった。彼の心から発せられる不信の音に、驚愕と戸惑いの響きが混じり始める。彼は、私が語る内容のあまりの具体性に、言葉を失っているようだった。
「…以上が、私の耳が捉えた『嘘』の正体です」
私は、報告を締めくくった。
部屋に、沈黙が落ちる。聞こえるのは、蝋燭の炎が微かにはぜる音だけ。
やがて、ゼノン公爵は書類から顔を上げた。その視線は、私の隣に立つノアに向けられた。
「ノア」
「は、はいっ」
ノアは、背筋を伸ばして返事をした。
「お前は、この報告が真実だと思うか」
「…はい。わたくしも、長年疑問に思っておりました。ですが、確証がなかったために…」
「もうよい」
ゼノン公爵は、ノアの言葉を遮ると、机の上のベルを鳴らした。
すぐに、ギルバートが音もなく入室する。
「バルツの屋敷を包囲しろ。本人を拘束し、家宅捜索を許可する。金の流れに関するものは、どんな些細な紙切れ一枚でも見逃すな」
その命令は、淀みなく、そして冷徹だった。
「それから、レオンハルト」
「はっ」
扉の前に控えていたレオンハルトが、弾かれたように返事をした。
「騎士を数名連れ、アザリー商会へ向かえ。商会長を捕らえ、店を封鎖しろ。帳簿と在庫を全て差し押さえろ。抵抗する者は、斬り捨てて構わん」
「御意!」
レオンハルトの声には、先ほどまでの私への不信感とは違う、任務を与えられた騎士としての緊張感が漲っていた。彼は一礼すると、風のように部屋を飛び出していく。
あまりの展開の速さに、私とノアはただ立ち尽くすことしかできなかった。
彼は、私の報告を信じたのだ。
私の耳が聞いた、形のない「音」を、動かぬ証拠として受け入れた。
ギルバートもまた、主人の命令に一礼すると、静かに部屋を退出していった。嵐のような命令の後、執務室には再び、私とゼノン公爵、そしてノアの三人だけが残された。
ゼノン公爵は、椅子に深く座り直すと、組んだ指の上で顎を休ませた。そして、その金色の瞳で、真っ直ぐに私を見つめた。
その瞳に、私は初めて見る光を見た。
それは、冷たいガラス玉のような無機質な輝きではない。私の内側を、能力を、そしてその価値を、正確に見定めようとする、鋭い探求者の光。
そして、その奥に、ほんの微かな、だが確かな光が宿っていた。
それは、信頼、という名の光の萌芽だった。
「…よくやった」
彼の口から、低く、静かな言葉が紡がれた。
それは、誰かを褒めるという行為に慣れていない人間の、ぎこちない労いの言葉だった。
だが、その言葉に、嘘の音は一切なかった。
心からの、真実の響き。
そのたった一言が、私の心の奥深くまで、温かく染み渡っていく。
疲労で張り詰めていた体の糸が、ぷつりと切れた。視界が、ぐらりと揺れる。長時間にわたる集中の反動が、一気に押し寄せてきたのだ。
倒れそうになった私の体を、とっさに支えたのは、隣にいたノアだった。
「アリーシャ様!?」
「…大丈夫、です。少し、疲れただけで…」
私がそう言うのがやっとだった。
ゼノン公爵が、音もなく立ち上がる。彼は、机を回り込むと、私の目の前までやってきた。
彼の大きな影が、私をすっぽりと覆う。
「ノア。彼女を部屋まで送れ」
「は、はい!かしこまりました!」
「それから、お前も今夜は休め。此度の件、お前の功績も大きい」
「も、もったいないお言葉です!」
ノアは、恐縮しながらも、その顔には誇らしげな色が浮かんでいた。
私は、ノアの肩を借りながら、ふらつく足で執務室を後にした。
扉が閉まる直前、私はもう一度だけ、部屋の中の静寂の主を振り返った。
彼は、もう私を見てはいなかった。
ただ、机の上に広げられた王都の地図を、静かに見下ろしている。その横顔は、これから始まるであろう、さらに大きな戦いを見据えているかのようだった。
部屋に戻り、ベッドに倒れ込む。
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初めて、自分の力で何かを成し遂げた。
初めて、彼に認められた。
その事実が、明日への恐怖を、ほんの少しだけ和らげてくれる。
夜会は、戦場だ。
だが、今の私には、戦うための武器がある。
この呪われた耳は、彼の役に立つことができるのだ。
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