偽りの聖女と呪われた公爵様〜嘘が聞こえる私が、心を閉ざした彼と結ぶ偽りの婚約〜

夏見ナイ

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第十六話 戦場への序曲

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夜会の朝は、皮肉なほど穏やかに訪れた。
窓から差し込む陽光は柔らかく、庭の小鳥たちは楽しげにさえずっている。私の部屋は、朝からハンナを筆頭としたメイドたちでごった返していた。湯気の立つ湯浴み、香油を使った丁寧な肌の手入れ、そして時間をかけた髪結い。まるで、これから戦場へ向かう兵士の鎧を磨き上げる儀式のように、全てが厳かに、そして手際よく進んでいった。
しかし、その喧騒の中心で、私はただの抜け殻のようだった。
鏡に映る自分は、血の気の引いた青白い顔をしている。ハンナがどんなに明るい声で話しかけてくれても、私の耳には届かない。
頭の中で、あの日の光景が繰り返し再生されていた。
大神殿の冷たい空気。私を蔑む人々の視線。リゼットの偽りの涙と、アルフォンス殿下の声高な断罪。そして、広場を埋め尽くした民衆の憎悪に満ちた罵声。
あの不協和音の嵐が、今夜、再び私に襲いかかる。
そう考えただけで、胃が冷たい石になったように重くなった。呼吸が浅くなる。
「アリーシャ様?大丈夫でございますか」
ハンナが、心配そうに私の顔を覗き込んだ。彼女の心からは、純粋な憂慮の和音が響いている。
「…ええ。大丈夫よ、ハンナ。少し、緊張しているだけ」
私は、無理やり唇の端を引き上げて微笑んだ。もちろん、その言葉は嘘だった。私の声は、ひび割れたガラスのように微かな不協和音を立てた。
ハンナは、それに気づいたのか気づかないふりをしたのか。ただ、黙って私の肩に温かいショールをかけてくれた。
「閣下が、きっとお守りくださいますわ」
その言葉は、彼女の揺るぎない確信だった。

全ての準備が整ったのは、夕暮れが城の尖塔を茜色に染め始めた頃だった。
夜空色のドレスは、私の不安を隠すように、静かな輝きを放っている。ハンナが最後に月長石の耳飾りをつけてくれ、鏡の中の「エルヴァイン公爵の婚約者」は完成した。
「お時間です、アリーシャ様」
部屋の外から、ギルバートの硬質な声が届く。
私は最後にもう一度、鏡の中の自分を見つめた。その紫水晶の瞳の奥に、怯える少女の影が見える。
大丈夫。これは取引だ。仕事なのだ。
私は何度も心の中で繰り返すと、静かに立ち上がった。
部屋の扉を開けると、そこには完璧な正装に身を包んだギルバートと、護衛騎士のレオンハルトが控えていた。レオンハルトの表情は、相変わらず硬い。だが、以前のようなあからさまな敵意は薄れていた。
会計帳簿の一件以来、彼は私への態度を僅かに変えていた。不信感が完全に消えたわけではない。だが、私がただ守られるだけの人形ではないと認識したのだろう。彼の心から発せられる不協和音は、以前よりずっと複雑な響きになっていた。
私たちは、無言で長い廊下を歩く。
向かう先は、エントランスホール。そこで、ゼノン公爵が待っているはずだ。
一歩進むごとに、心臓が大きく脈打つ。まるで、断頭台へと続く最後の道を歩いているかのようだ。
やがて、大階段の踊り場に差し掛かった時、階下で待つ彼の姿が見えた。
私は、思わず息を呑んだ。
黒を基調とした、豪奢な礼服。胸元には、エルヴァイン公爵家を示す金の刺繍が施され、肩から提げた黒銀のマントが、威厳に満ちた影を床に落としている。
執務室でのラフなシャツ姿でも、訓練場での機能的な服装でもない。
王国最強の騎士にして、最北の地を治める大貴族。
ゼノン・アーク・エルヴァイン。
彼が本来持つ、圧倒的なまでの存在感と地位が、その完璧な装いによって余すところなく引き出されていた。
彼は、私が現れたことに気づき、ゆっくりと顔を上げた。
そして、その金色の瞳が、私の姿を捉えた瞬間。
彼の動きが、ほんの一瞬、確かに止まった。
彫像のように完璧な無表情。その仮面に、ほんの僅かな亀裂が入ったのを、私は見逃さなかった。彼の瞳の奥に、今まで見たことのない光が宿る。それは、驚愕であり、そして、何か別の、もっと熱を帯びた感情の揺らめきだった。
もちろん、それも一瞬のこと。
彼はすぐにいつもの氷の仮面に戻ると、大階段を降りてくる私を、ただ黙って待っていた。
階段の最後の一段を降りた私の前に、彼が立つ。
見上げるほどの長身。その影に、私の体はすっぽりと覆われてしまった。彼の周りだけ、世界の音が消える。この静寂が、今だけは私にとって唯一の救いだった。
彼は、何も言わなかった。
「美しい」とも「似合っている」とも言わない。
ただ、静かに右腕を差し出した。エスコートのためだ。
その黒い手袋に包まれた腕に、私は自分の手を重ねることを躊躇した。冷たい汗が、手のひらに滲む。
私の戸惑いを察したのか、彼が低く、静かに言った。
「怖がるな」
それは、命令でも慰めでもなかった。ただ、事実を告げるような響き。
「何があろうと、お前は俺の隣から一歩も動く必要はない。それでいい」
その言葉は、不器用で、飾り気がない。
けれど、どんな甘い慰めの言葉よりも、強く私の心を打ち据えた。
彼は、私の不安を全て見抜いていたのだ。
そして、彼なりのやり方で、私に覚悟を求めている。
一人で戦え、とは言わない。ただ、俺の隣にいろ、と。
私は、震える指先で、そっと彼の腕に触れた。硬い筋肉の感触が、薄いドレス越しに伝わってくる。
「…はい」
私が小さく頷くと、彼は満足したように頷き返し、私を伴ってエントランスの巨大な扉へと歩き出した。
外には、エルヴァイン公爵家の紋章が輝く、壮麗な馬車が停まっている。御者が恭しく扉を開けると、彼は先に私を中に促した。
広々とした馬車のシートに並んで腰を下ろす。扉が閉められ、やがて馬車は滑るように走り出した。
向かう先は、王城。
私が全てを失った、あの場所。
窓の外を、王都の灯りが流れ星のように過ぎていく。私はその光景から目を逸らすように、隣に座る男の横顔を盗み見た。
彼は、窓の外の闇の向こう、王城があるであろう方角を、静かに見据えていた。その金色の瞳には、冷たい決意の光が宿っている。
それは、戦場に向かう騎士の目だった。
彼は、これから始まる夜会を、一つの戦いとして認識しているのだ。そして、その戦場で、私をあらゆる敵から守り抜くことを、誰に告げるでもなく、静かに誓っている。
その覚悟が、彼の作り出す静寂を通して、私にひしひしと伝わってきた。
もう、怖くない。
そう言えば、嘘になるだろう。
けれど、もう一人ではない。
私の隣には、この世界で最も頼もしい、静寂の騎士がいるのだから。
馬車が、きらびやかな光に満ちた王城の門をくぐり抜ける。
不協和音に満ちた戦場の、静かな序曲が、今、終わりを告げようとしていた。
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