偽りの聖女と呪われた公爵様〜嘘が聞こえる私が、心を閉ざした彼と結ぶ偽りの婚約〜

夏見ナイ

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第十七話 嘲笑の渦

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馬車が王城の正面玄関にゆるやかに停止した。
扉の向こうから、オーケストラの華やかな演奏と、大勢の人々のざわめきが、分厚い壁を隔てていてもなお、くぐもった音の塊となって伝わってくる。
私の心臓が、肋骨を強く打ち付けた。
御者が外から扉を開けようとする気配がする。その瞬間が、まるで処刑執行の合図のように思えた。
「…アリーシャ」
隣から、低く静かな声がした。
見ると、ゼノン公爵が私を真っ直ぐに見つめていた。その金色の瞳には、何の感情も浮かんでいない。けれど、その瞳は私に「逃げるな」と、雄弁に語っていた。
「俺だけを見ていろ」
命令とも取れる、短い言葉。
私は、こくりと頷くことしかできなかった。
次の瞬間、馬車の扉が開かれた。
途端に、光と音の洪水が、容赦なく私に襲いかかった。
シャンデリアの眩い光。貴婦人たちの宝石のきらめき。そして、何百という人間の好奇と悪意が混じり合った、おぞましい不協和音の濁流。
先に降り立ったゼノン公爵が、私に手を差し伸べる。私はその手を取り、震える足で地面に降り立った。
その瞬間、玄関ホールにいた全ての視線が、槍のように私たちに突き刺さった。
空気が、凍りつく。
先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返り、全ての人間が私たちを、正確には私を、値踏みするように見つめている。
やがて、その静寂は、ひそひそとした囁き声の波に変わっていった。
「あれが…偽りの聖女…」
「まあ、エルヴァイン公爵とご一緒だわ。噂は本当だったのね」
「血染め公爵の、新しいおもちゃかしら。いつまで持つことやら」
「罪人が、よくもまあ王城に足を踏み入れられたものだ」
言葉の一つ一つが、毒を含んだ小さな針となって私に突き刺さる。
私の耳には、それらがガラスの破片がぶつかり合うような、耳障りな不協和音となって鳴り響いた。
頭が割れそうだ。息が、うまくできない。
大神殿での光景が、脳裏に蘇る。民衆の罵声。投げつけられた石。あの絶望的な孤独感。
足が、鉛のように重くなった。一歩も、前に進めない。
「…っ」
思わず、ゼノン公爵の腕を強く握りしめていた。指先が、氷のように冷たい。
彼は、何も言わなかった。
ただ、私をエスコートするその腕に、静かに力を込めた。ぐっと、私の体を自分の方へ引き寄せる。
その温かみのない腕から、彼の揺るぎない存在感だけが、確かな鼓動のように伝わってきた。
彼の周りだけ、世界の音が違う。
悪意に満ちた不協和音の嵐の中で、彼の周りだけが、まるで嵐の目のように、静寂に守られている。
「俺だけを見ていろ」
先ほどの彼の言葉が、耳の奥で蘇った。
そうだ。周りの音を聞いてはいけない。周りの顔を見てもいけない。
見るべきは、この人だけ。
信じるべきは、この静寂だけ。
私は、ゆっくりと顔を上げた。人々の嘲笑や好奇の視線から目を逸らし、隣に立つ男の横顔だけを見つめる。
彼の表情は、相変わらずの氷の仮面だ。周囲のざわめきなど、まるで存在しないかのように、その金色の瞳は真っ直ぐに前だけを見据えている。
その揺るぎない姿を見ていると、私の心に渦巻いていた恐怖の嵐が、少しずつ凪いでいくのが分かった。
彼は、歩き始めた。
ゆっくりと、しかし一切の躊躇もない、王者の歩みで。
私は、その歩みに導かれるように、一歩、また一歩と足を踏み出す。
私たちは、無数の視線が作る道を、まるでモーゼが海を割るかのように進んでいく。私たちの前を歩く貴族たちは、ゼノン公爵の放つ無言の威圧感に気圧され、慌てて左右に避けて道を開けた。
誰も、私たちの前を遮ろうとはしない。
誰も、私たちに直接言葉を投げかけようとはしない。
囁き声は続いている。不協和音は鳴り止まない。
けれど、それらは全て、ゼノン公爵が作り出す見えない壁に阻まれ、遠くで響くただの雑音に変わっていく。
彼は、私の盾だった。
その身一つで、私をこの世界の全ての悪意から守る、絶対的な盾。
大階段を上り、舞踏会場へと続く壮麗な回廊を進む。
私の足取りは、まだ少しだけ覚束ない。けれど、もう立ち止まることはなかった。
握りしめた彼の腕の感触だけが、私の全てを支えている。
やがて、私たちの目の前に、巨大な黄金の扉が現れた。
舞踏会場の入り口だ。
扉の向こうからは、さらに強烈な光と、おびただしい数の不協和音が、濁流となって溢れ出してくる。
ここからが、本当の戦場。
扉の前に立った衛兵が、私たちに気づき、深く一礼した。そして、他の衛兵たちと視線を交わし、ゆっくりと、その重い扉を内側へと開け放っていく。
まばゆい光が、私の目を射る。
これから始まる本当の地獄を前に、私は一度だけ、強く目を閉じた。
そして、隣に立つ静寂の主に聞こえるか聞こえないか、それくらいの小さな声で、呟いた。
「…参りましょう」
それは、私自身に言い聞かせるための、小さな覚悟の言葉だった。
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