偽りの聖女と呪われた公爵様〜嘘が聞こえる私が、心を閉ざした彼と結ぶ偽りの婚約〜

夏見ナイ

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第二十二話 貸された肩

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「…帰りたい、です」
私の声は、自分でも驚くほどか細く、懇願するような響きを持っていた。
会場のきらびやかな光も、華やかな音楽も、今は全てが私を苛む拷問道具のようだ。一刻も早く、この不協和音の地獄から逃げ出したい。
私の言葉を聞いたゼノン公爵は、何も言わなかった。
ただ、その金色の瞳で、じっと私の顔を見つめる。その瞳には、表情はない。けれど、私の顔色の悪さや、微かな体の震えを、彼は正確に読み取っているようだった。
彼は、私の返事を待たずに、近くを通りかかった侍従を呼び止めた。
「国王陛下に、エルヴァイン公爵は所用によりこれにて失礼する、と伝えろ」
「は、はい!かしこまりました!」
侍従は、恐縮しきった様子で深く一礼すると、足早に玉座の方へと去っていった。
周囲の貴族たちが、驚いたように私たちを見ているのが気配で分かる。夜会の途中で、それも国王陛下への挨拶を済ませたばかりで退席するなど、前代未聞の無作法だ。
だが、彼はそんな周囲の視線など、全く意に介していなかった。
「行くぞ」
彼は、私の腰に回していた手を離すと、代わりに私の手を取った。
その手は、手袋越しでも分かるほど、大きく、そして硬かった。体温は感じない。けれど、その力強い感触が、嵐の中で見つけた唯一の錨のように、私の心を繋ぎ止めてくれる。
彼は、来た時と同じように、堂々とした足取りで会場を横切り始めた。
人々の視線が、再び私たちに突き刺さる。
『まあ、もうお帰りになるの?』
『よほど、あの女が気に入らないのかしら』
『あるいは、我慢の限界というやつか…』
囁き声が、新たな不協和音となって私の耳を打つ。
だが、もうどうでもよかった。
この場所から、解放される。その事実だけが、私の全てだった。
私たちは、誰に挨拶することもなく、黄金の扉を抜け、長い回廊を歩き、大階段を降りていく。
王城の喧騒が、一歩ごとに遠ざかっていく。
その代わりに、私の耳に響き始めたのは、自分の荒い呼吸と、早鐘のように打つ心臓の音だった。
ようやく、正面玄関の扉が見えてきた。
外の、静かな夜の空気が、そこから流れ込んできている。
あと、少し。
そう思った瞬間、張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと切れた。
足から、力が抜ける。視界が白く染まり、体が傾いでいくのが、どこか他人事のように感じられた。
「…っ!」
倒れ込む寸前、私の体を力強い腕が横から抱きとめた。
「しっかりしろ」
耳元で、ゼノン公爵の低い声がする。
私は、彼の胸に寄りかかるようにして、かろうじて立っていた。彼の礼服の硬い感触と、微かに香る、冬の森のような冷たく澄んだ匂いが、私を包み込む。
「申し訳…ございません…」
「喋るな」
彼は短く言うと、私の体を軽々と横抱きにした。
「えっ…!?」
突然の浮遊感に、私は驚いて彼の顔を見上げた。
「お、降ろしてください!みっともないです…!」
「黙っていろと言ったはずだ」
彼の声には、有無を言わせぬ響きがあった。
彼は私を抱きかかえたまま、何事もなかったかのように、正面玄関を出ていく。
玄関前で待機していた御者や衛兵たちが、息を呑むのが分かった。
しかし、誰も何も言えない。
血染め公爵の行動に、口を挟める者など、この国には存在しないのだ。
彼は、そのまま馬車まで歩くと、先に私を座席に降ろし、自らも乗り込んできた。
扉が閉められ、馬車が滑るように走り出す。
ようやく、王城の光と音が、完全に遠ざかっていった。
馬車の中は、静かだった。
窓の外を流れる王都の夜景が、ぼんやりと車内を照らしている。
私は、シートの隅で身を縮こまらせていた。先ほどの失態が、恥ずかしくてたまらない。
彼の役に立つどころか、結局は足手まといになってしまった。
公爵家の体面を汚し、彼に恥をかかせてしまった。
自己嫌悪の渦が、私の心に深く沈んでいく。
私は、俯いたまま、唇をきつく噛み締めた。涙が、込み上げてくるのを必死に堪える。
どれくらいの時間が、そうして過ぎただろうか。
不意に、隣に座る彼が、身じろぎする気配がした。
私は、叱責の言葉が飛んでくるのではないかと、思わず身を固くした。
しかし、彼がしたことは、私の予想とは全く違うものだった。
彼は、私の隣に少しだけ身を寄せると、私の頭を、そっと自分の肩に引き寄せた。
「…え?」
驚いて顔を上げると、彼の横顔がすぐそこにあった。
「疲れたのだろう。少し、眠れ」
その声は、いつもと同じ、感情のない平坦な響きだった。
けれど、その声は、不思議と私の心に染み渡った。
彼の肩は、思ったよりも硬く、そして大きかった。礼服の生地は冷たい。けれど、その向こう側にある、彼の確かな存在が、まるで揺りかごのように、私の疲弊しきった心を優しく受け止めてくれる。
私は、何も言えなかった。
ただ、彼の言葉に従い、そっと目を閉じる。
彼の肩に、自分の体重を預ける。
微かに香る、彼の匂い。馬車が規則正しく揺れる振動。そして、彼の周りだけが持つ、絶対的な静寂。
その全てが、私を深い安らぎへと誘っていく。
怖かった。
辛かった。
けれど、今だけは。
この静寂の中だけは、全てを忘れてもいいのかもしれない。
私は、彼の肩に頭を預けたまま、いつの間にか、深い眠りへと落ちていった。
その眠りが、どれほど穏やかで、安らかなものだったか。
それは、不協和音の世界に生まれてから、私が初めて経験する、本物の休息だった。
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