偽りの聖女と呪われた公爵様〜嘘が聞こえる私が、心を閉ざした彼と結ぶ偽りの婚約〜

夏見ナイ

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第二十三話 心に灯る温もり

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意識が、深い海の底からゆっくりと浮上してくるようだった。
最後に覚えているのは、馬車の揺れと、硬く、けれど不思議と安心できる誰かの肩の感触。そして、私を包み込んでいた絶対的な静寂。
瞼を押し上げると、目に映ったのは見慣れた自室の天蓋だった。柔らかな朝の光が、レースのカーテンを通して室内を淡く照らしている。
私は、いつの間にかベッドで眠っていたらしい。
体を起こそうとして、自分が夜会で着ていたはずの重いドレスではなく、肌触りの良い薄手の寝間着に着替えていることに気づいた。夜空色のドレスは、きちんとハンガーにかけられ、部屋の隅に置かれている。
誰が、ここまで。
そこまで考えて、馬車の中での出来事が鮮明に蘇り、顔に一気に熱が集まるのが分かった。
私は、あの人の肩で眠ってしまったのだ。そして、おそらく、そのまま彼に抱きかかえられて、この部屋まで運ばれたに違いない。
「…アリーシャ様!お気づきになられましたか」
控えめな声に振り返ると、ベッドの脇の椅子でうたた寝をしていたらしいハンナが、慌てて立ち上がった。その顔には、深い安堵の色が浮かんでいる。彼女の声は、心からの心配に満ちた、温かい和音を奏でていた。
「ハンナ…ごめんなさい。私、眠ってしまって…」
「まあ、謝ることなど何もございません!昨夜は本当にお疲れ様でございました。お顔の色も、まだ優れませんわ。もう少し、お休みになっては」
ハンナは手早くベッドの周りを整えると、温かいハーブティーを淹れてくれた。その優しい香りが、まだ少しぼんやりとしている私の頭をすっきりとさせてくれる。
「あの…公爵閣下は…」
おそるおそる尋ねると、ハンナは少しだけ目を伏せ、意味深な笑みを浮かべた。
「閣下でしたら、アリーシャ様をこのお部屋までお運びになった後、それはもう大変でございましたのよ」
「え…?」
「すぐに侍医を呼べとおっしゃる閣下と、夜分に医師を邸内に招くのはあらぬ噂を招きかねないと進言するギルバート様とで、それはもう静かな、しかし火花散るような攻防がございまして」
ハンナは、悪戯っぽく囁いた。
彼女の言葉に、私は息を呑んだ。
あのゼノン公爵が、私のために。そして、あの鉄壁の執事ギルバートと、意見を戦わせた。
「結局、わたくしが『アリーシャ様はお疲れで眠っておられるだけです』と申し上げ、ようやくお引き取りいただけたのです。今朝も、夜が明ける前から、何度も様子を窺うよう言いつかっておりました」
ハンナの言葉に、嘘の音はなかった。
ゼノン公爵は、本当に私のことを心配してくれていたのだ。
ただの取引相手、ただの道具としてではなく。
胸の奥が、じんわりと温かくなるのを感じた。それと同時に、彼に多大な迷惑と心配をかけてしまったことへの申し訳なさで、胸が締め付けられる。
「…私、閣下にお礼と、お詫びを言わなければ」
私は、ベッドからゆっくりと体を起こした。まだ少しだけ体は重いが、休んでいるわけにはいかない。
「まあ、アリーシャ様。まだお休みになった方が…」
「ううん、大丈夫。自分の足で、行かなければ」
それは、私の意地のようなものだった。
いつまでも、彼に守られてばかりいるわけにはいかない。対等な取引相手として、私はきちんと彼に向き合わなければ。
ハンナは、私の決意を察したのか、それ以上は止めなかった。ただ、手早く身支度を手伝い、温かいスープで私の体を温めてくれた。
「閣下は、いつものように執務室におられます」
その言葉に背中を押され、私は静かに部屋を出た。

執務室へと続く廊下は、いつもと変わらず静かだった。
扉の前には、護衛騎士のレオンハルトが、壁に寄りかかるようにして立っている。彼は私の姿を認めると、その硬い表情をわずかに和らげ、直立して軽く会釈をした。
彼の心から聞こえてくる不協和音は、まだ完全には消えていない。しかし、その音の棘は、明らかに丸くなっていた。昨夜の出来事を通して、彼の中で私に対する評価が、少しだけ変わったのかもしれない。
私は彼に小さく頷き返すと、執務室の扉を静かにノックした。
「入れ」
中から聞こえてきたのは、いつもと変わらない、低く平坦な声。
私は深呼吸を一つして、扉を開けた。
部屋の中の光景も、いつもと同じだった。紙の山に埋もれ、黙々とペンを走らせる静寂の主。窓から差し込む朝の光が、彼の漆黒の髪を淡く照らしている。
彼は、私が部屋に入っても、顔を上げなかった。
私は、彼の机の前まで進み出ると、深く頭を下げた。
「昨夜は…大変、申し訳ございませんでした。ご迷惑をおかけしましたこと、心よりお詫び申し上げます。そして、助けていただき、本当にありがとうございました」
私の言葉に、ようやく彼のペンが止まった。
しかし、彼は書類から顔を上げることはない。
「…謝る必要はない」
低い声が、静かな部屋に響いた。
「あれは、お前のせいではない。無理をさせたのは、俺だ」
その言葉は、意外なものだった。
私は、顔を上げる。彼は、まだ手元の書類を見つめている。その横顔からは、何の感情も読み取れない。
私は、続けるべき言葉を見つけられず、ただ黙って立ち尽くしていた。
お礼は言った。謝罪もした。もう、ここに長居をする理由はない。
「…では、失礼いたします」
私がそう言って、踵を返し、扉へと向かおうとした、その時だった。
「アリーシャ」
静かに、私の名が呼ばれた。
振り返ると、彼はいつの間にか顔を上げて、私を真っ直ぐに見つめていた。
その金色の瞳は、相変わらずの静謐を湛えている。
彼は、言った。
ゆっくりと、一言一言を確かめるように。
「よく、耐えた」
その言葉が、私の心臓を、優しく、しかし強く貫いた。
たった、一言。
不器用で、飾り気のない、ただそれだけの言葉。
けれど、その言葉には、今まで私が誰からもかけてもらったことのない、温かい響きがあった。
心からの、真実の労い。
それは、夜会のことだけを言っているのではないと、私には分かった。
偽りの聖女として断罪されたこと。家族に裏切られ、孤独に生きてきたこと。不協和音に苛まれ、心を閉ざしてきたこと。
私のこれまでの人生の、全ての苦しみと痛みを。
彼は、そのたった一言で、全てを肯定し、受け止めてくれた。
涙が、ぶわりと視界を滲ませた。
今まで、どんなに辛くても、決して人前では見せまいと誓っていた涙が、彼の言葉の前では、あまりにも呆気なく溢れ出してくる。
私は、慌てて俯き、手の甲で乱暴に涙を拭った。
「…っ」
言葉にならない嗚咽が、喉から漏れそうになるのを、必死で堪える。
彼は、何も言わなかった。
ただ、静かに、私が落ち着くのを待ってくれている。その沈黙が、今は何よりもありがたかった。
どれくらい、そうしていただろうか。
私はようやく涙を止めると、もう一度、彼に向き直った。
そして、今度こそ、心からの笑顔で、深く一礼した。
「…失礼、いたします」
私は、逃げるように執務室を後にした。
部屋に戻り、窓辺の椅子に座り込む。
胸の奥で、彼が灯してくれた小さな温もりが、確かな熱を持って燃え続けているのを感じた。
あの人は、私のことを分かってくれている。
ただの道具としてではない。一人の人間として、私の痛みを見てくれている。
その事実が、凍てついていた私の心を、ゆっくりと溶かしていく。
彼のために、何かをしたい。
彼に守られるだけの存在ではなく、彼の力になりたい。
その思いが、今まで感じたことのないほど強く、私の胸に込み上げてきた。
窓の外では、青い空がどこまでも広がっている。
この静寂の城は、もう私にとって、ただの鳥籠ではなかった。
私が、自分の意思で留まりたいと願う、唯一の場所。
私の、本当の居場所になりつつあった。
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