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第二十五話 凍てつく怒り
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執務室の重厚な扉が、これほどまでに巨大で、威圧的に感じられたことはなかった。
私の手の中には、一枚の便箋が握りしめられている。その紙に込められた悪意の不協-和音が、私の掌から脈打つように伝わり、心臓を不規則に揺らした。
怖い。
この扉を開け、彼にこの手紙を見せることが、恐ろしかった。
彼を失望させてしまうかもしれない。彼に、厄介者だと思われてしまうかもしれない。
やっと手に入れたこの穏やかな居場所を、自らの手で失うことになるかもしれない。
いくつもの不安が、鉛のように私の足に絡みつく。
しかし、私は動かなかった。
ここで引き返せば、私はまた昔の私に戻ってしまう。ただ怯え、全てを諦め、不協和音の嵐に翻弄されるだけの、無力な人形に。
それは、嫌だ。
「よく耐えた」
彼の言葉が、耳の奥で蘇る。
あの言葉をくれた彼を、裏切ることはできない。
私は、震える手を持ち上げ、扉を強くノックした。
「入れ」
中から聞こえてきたのは、いつもと変わらない、静かで平坦な声。
その声が、私の最後の躊躇いを振り払った。
私は扉を開け、中へ足を踏み入れた。
部屋の中の光景も、いつもと同じ。紙の山と、その中心で黙々と仕事を続ける静寂の主。
私が彼の机の前まで進み出ても、彼は書類から顔を上げようとはしなかった。
「何の用だ」
その声は、相変わらず感情の起伏がない。
私は、返事をする代わりに、握りしめていた脅迫状を、彼の机の上にそっと置いた。
くしゃくしゃになった便箋。そこから放たれる、異様な悪意の響き。
その存在に気づいたのか、彼のペンがぴたりと止まった。
ゆっくりと、本当にゆっくりと、彼は顔を上げた。その金色の瞳が、机の上に置かれた一枚の紙を捉える。
そして、その瞳が、紙に貼り付けられた歪な文字を読み下していくにつれて。
部屋の空気が、変わった。
それまで私を包んでいた、穏やかでさえあった静寂が、一瞬にして凍てついた。
気温が、急激に下がっていくような錯覚。
息が、白い霧になりそうなほどの、絶対零度の静寂。
彼の全身から、今まで感じたことのないほど、冷たく、そして鋭利な圧力が放たれ始めたのだ。
それは、夜会で若い貴族を黙らせた時のような、計算された威圧ではない。
もっと、根源的で、抑えきれない、純粋な怒り。
私は、息を呑んだ。
彼の顔は、相変わらずの無表情だ。氷の仮面は、微動だにしていない。
しかし、その奥にある、彼の魂そのものが、静かに、しかし激しく燃え上がっているのが、私には分かった。
それは、音のない怒りだった。
どんな罵声よりも、どんな破壊音よりも恐ろしい、完全なる無音の激昂。
彼は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
その動きには、一切の無駄がない。まるで、これから獲物を狩りに出る、頂点捕食者のように。
彼は、脅迫状を指先でつまみ上げると、その内容をもう一度、黙読した。
そして、次の瞬間。
彼の手の中で、その便箋が、音もなく蒼い炎に包まれ、一瞬にして灰と化した。
あまりの出来事に、私は声も出せずに立ち尽くす。
「…いつ、どこでこれを」
彼の声は、地を這うように低く、静かだった。しかし、その静けさの下には、今にも噴火しそうなマグマのような、熱い怒りが煮えたぎっている。
「…今日の午後、私の部屋に、差出人不明で」
「そうか」
彼は短く頷くと、机の上のベルを、今まで聞いたこともないほど強く鳴らした。
甲高い音が、凍てついた執務室に響き渡る。
ほとんど間を置かず、扉が開かれ、ギルバートが駆け込んできた。彼は、部屋の尋常ではない空気を瞬時に察知し、その顔を緊張に強張らせた。
「お呼びでしょうか、閣下」
「ギルバート。今すぐ、邸内の警備を最高レベルまで引き上げろ。不審な者は、誰であろうと捕らえろ。抵抗するなら、殺せ」
その命令は、氷の刃のように鋭く、一切の情を挟まない。
「それから、レオンハルトを呼べ。アリーシャの警護を、これより片時も離れるなと伝えろ。たとえ、彼女が自室にいようとも、扉の外で常に警戒させろ」
「はっ、御意!」
ギルバートは、主人の纏う尋常ならざる怒気に気圧されながらも、完璧な動きで一礼すると、足早に部屋を退出していった。
執務室に、再び私と彼だけが残される。
彼は、窓辺まで歩いていくと、腕を組み、外の景色を眺めた。その背中は、まるで黒い花崗岩のように硬く、そして大きく見えた。
「…申し訳、ございません。私のせいで、ご迷惑を…」
私がようやく絞り出した言葉に、彼は振り返ることなく答えた。
「お前が、謝るな」
その声は、まだ怒りの熱を帯びていた。
「これは、お前個人への脅迫ではない。俺の所有物に手を出そうとする、愚か者からの挑戦状だ。ひいては、この俺と、エルヴァイン家そのものへの侮辱に他ならん」
所有物。
その言葉に、胸がちくりと痛んだ。
だが、今はそんなことを言っている場合ではない。
「奴らは、間違いを犯した」
彼は、静かに続けた。
「俺の、最も触れてはならんものに、手を出した」
その言葉は、誰に言うでもない、彼自身の静かな誓いのように響いた。
最も、触れてはならんもの。
それは、私のことだろうか。
彼の所有物である、私のこと。
私は、彼の広い背中を見つめながら、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
彼の怒りは、私の想像を遥かに超えるものだった。
それは、私の身を案じているからではないのかもしれない。
自らの領域を侵された、王者の怒り。
ただ、それだけなのかもしれない。
けれど。
たとえそうだとしても。
私のために、彼がこれほどまでに怒ってくれている。
その事実が、恐怖に凍えていた私の心を、不思議と温めていた。
もう、怖くない。
この人がいる限り、私は絶対に傷つけられることはない。
その絶対的な確信が、私の心に、揺るぎない光を灯した。
犯人は、誰だろうか。
リゼットか、アルフォンス王子か。あるいは、全く別の誰かか。
分からない。
だが、誰であろうと、関係ない。
その愚かな犯人は、眠れる獅子の逆鱗に、自ら触れてしまったのだ。
この静寂の城の主が、その凍てつく怒りを解き放った時。
一体、何が起こるのか。
その答えを、私はまだ、知らなかった。
私の手の中には、一枚の便箋が握りしめられている。その紙に込められた悪意の不協-和音が、私の掌から脈打つように伝わり、心臓を不規則に揺らした。
怖い。
この扉を開け、彼にこの手紙を見せることが、恐ろしかった。
彼を失望させてしまうかもしれない。彼に、厄介者だと思われてしまうかもしれない。
やっと手に入れたこの穏やかな居場所を、自らの手で失うことになるかもしれない。
いくつもの不安が、鉛のように私の足に絡みつく。
しかし、私は動かなかった。
ここで引き返せば、私はまた昔の私に戻ってしまう。ただ怯え、全てを諦め、不協和音の嵐に翻弄されるだけの、無力な人形に。
それは、嫌だ。
「よく耐えた」
彼の言葉が、耳の奥で蘇る。
あの言葉をくれた彼を、裏切ることはできない。
私は、震える手を持ち上げ、扉を強くノックした。
「入れ」
中から聞こえてきたのは、いつもと変わらない、静かで平坦な声。
その声が、私の最後の躊躇いを振り払った。
私は扉を開け、中へ足を踏み入れた。
部屋の中の光景も、いつもと同じ。紙の山と、その中心で黙々と仕事を続ける静寂の主。
私が彼の机の前まで進み出ても、彼は書類から顔を上げようとはしなかった。
「何の用だ」
その声は、相変わらず感情の起伏がない。
私は、返事をする代わりに、握りしめていた脅迫状を、彼の机の上にそっと置いた。
くしゃくしゃになった便箋。そこから放たれる、異様な悪意の響き。
その存在に気づいたのか、彼のペンがぴたりと止まった。
ゆっくりと、本当にゆっくりと、彼は顔を上げた。その金色の瞳が、机の上に置かれた一枚の紙を捉える。
そして、その瞳が、紙に貼り付けられた歪な文字を読み下していくにつれて。
部屋の空気が、変わった。
それまで私を包んでいた、穏やかでさえあった静寂が、一瞬にして凍てついた。
気温が、急激に下がっていくような錯覚。
息が、白い霧になりそうなほどの、絶対零度の静寂。
彼の全身から、今まで感じたことのないほど、冷たく、そして鋭利な圧力が放たれ始めたのだ。
それは、夜会で若い貴族を黙らせた時のような、計算された威圧ではない。
もっと、根源的で、抑えきれない、純粋な怒り。
私は、息を呑んだ。
彼の顔は、相変わらずの無表情だ。氷の仮面は、微動だにしていない。
しかし、その奥にある、彼の魂そのものが、静かに、しかし激しく燃え上がっているのが、私には分かった。
それは、音のない怒りだった。
どんな罵声よりも、どんな破壊音よりも恐ろしい、完全なる無音の激昂。
彼は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
その動きには、一切の無駄がない。まるで、これから獲物を狩りに出る、頂点捕食者のように。
彼は、脅迫状を指先でつまみ上げると、その内容をもう一度、黙読した。
そして、次の瞬間。
彼の手の中で、その便箋が、音もなく蒼い炎に包まれ、一瞬にして灰と化した。
あまりの出来事に、私は声も出せずに立ち尽くす。
「…いつ、どこでこれを」
彼の声は、地を這うように低く、静かだった。しかし、その静けさの下には、今にも噴火しそうなマグマのような、熱い怒りが煮えたぎっている。
「…今日の午後、私の部屋に、差出人不明で」
「そうか」
彼は短く頷くと、机の上のベルを、今まで聞いたこともないほど強く鳴らした。
甲高い音が、凍てついた執務室に響き渡る。
ほとんど間を置かず、扉が開かれ、ギルバートが駆け込んできた。彼は、部屋の尋常ではない空気を瞬時に察知し、その顔を緊張に強張らせた。
「お呼びでしょうか、閣下」
「ギルバート。今すぐ、邸内の警備を最高レベルまで引き上げろ。不審な者は、誰であろうと捕らえろ。抵抗するなら、殺せ」
その命令は、氷の刃のように鋭く、一切の情を挟まない。
「それから、レオンハルトを呼べ。アリーシャの警護を、これより片時も離れるなと伝えろ。たとえ、彼女が自室にいようとも、扉の外で常に警戒させろ」
「はっ、御意!」
ギルバートは、主人の纏う尋常ならざる怒気に気圧されながらも、完璧な動きで一礼すると、足早に部屋を退出していった。
執務室に、再び私と彼だけが残される。
彼は、窓辺まで歩いていくと、腕を組み、外の景色を眺めた。その背中は、まるで黒い花崗岩のように硬く、そして大きく見えた。
「…申し訳、ございません。私のせいで、ご迷惑を…」
私がようやく絞り出した言葉に、彼は振り返ることなく答えた。
「お前が、謝るな」
その声は、まだ怒りの熱を帯びていた。
「これは、お前個人への脅迫ではない。俺の所有物に手を出そうとする、愚か者からの挑戦状だ。ひいては、この俺と、エルヴァイン家そのものへの侮辱に他ならん」
所有物。
その言葉に、胸がちくりと痛んだ。
だが、今はそんなことを言っている場合ではない。
「奴らは、間違いを犯した」
彼は、静かに続けた。
「俺の、最も触れてはならんものに、手を出した」
その言葉は、誰に言うでもない、彼自身の静かな誓いのように響いた。
最も、触れてはならんもの。
それは、私のことだろうか。
彼の所有物である、私のこと。
私は、彼の広い背中を見つめながら、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
彼の怒りは、私の想像を遥かに超えるものだった。
それは、私の身を案じているからではないのかもしれない。
自らの領域を侵された、王者の怒り。
ただ、それだけなのかもしれない。
けれど。
たとえそうだとしても。
私のために、彼がこれほどまでに怒ってくれている。
その事実が、恐怖に凍えていた私の心を、不思議と温めていた。
もう、怖くない。
この人がいる限り、私は絶対に傷つけられることはない。
その絶対的な確信が、私の心に、揺るぎない光を灯した。
犯人は、誰だろうか。
リゼットか、アルフォンス王子か。あるいは、全く別の誰かか。
分からない。
だが、誰であろうと、関係ない。
その愚かな犯人は、眠れる獅子の逆鱗に、自ら触れてしまったのだ。
この静寂の城の主が、その凍てつく怒りを解き放った時。
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