偽りの聖女と呪われた公爵様〜嘘が聞こえる私が、心を閉ざした彼と結ぶ偽りの婚約〜

夏見ナイ

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第二十六話 蜘蛛の巣の地図

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脅迫状事件の翌朝、エルヴァイン公爵邸の空気は一変していた。
邸内の至る所に、普段は見かけない武装した衛兵の姿があった。彼らは石像のように微動だにせず、しかしその瞳だけは鋭く周囲を警戒している。使用人たちの間にも緊張が走り、誰もが必要最低限の会話しか交わさない。
静寂の城は、静かな要塞へと姿を変えていた。
そして、私の生活も変わった。
護衛騎士のレオンハルトが、文字通り片時も私のそばを離れなくなったのだ。私が部屋で本を読んでいれば、彼は扉の外で直立不動の姿勢を保ち続ける。私が食事をすれば、部屋の隅で腕を組み、鋭い視線を周囲に配る。
彼の心から発せられる不協和音は、もはや私個人への不信感ではなかった。主人の命令を完璧に遂行するという、鋼のような決意と、私という警護対象を狙う見えざる敵への強い警戒心。その音は、私を守る盾であると同時に、私が危険な存在であることを常に意識させる、重苦しい枷でもあった。
息が詰まりそうだった。
この厳重な警備は、全て私のせいだ。私がこの城に災いを持ち込んでしまった。
そんな罪悪感が、じわじわと私の心を蝕んでいく。
そんな息苦しい日々が三日ほど続いた、ある日の午後だった。
「アリーシャ様、閣下がお呼びです」
ギルバートが、いつもと変わらぬ硬質な声で私に告げた。
私はレオンハルトを伴い、東棟の三階へと向かった。
てっきり執務室へ呼ばれるものだと思っていた。しかし、ギルバートが足を止めたのは、執務室の隣にある、今まで一度も入ったことのない扉の前だった。
「こちらでお待ちください」
ギルバートはそう言うと、扉をノックし、中へ入っていった。レオンハルトは、いつものように私の後ろに控える。
やがて、ギルバートが中から扉を開け、私に入るよう促した。
「レオンハルトはここで待て」
ギルバートの言葉に、レオンハルトは不満そうな顔をしたが、黙って頷いた。
私は一人、部屋の中へと足を踏み入れた。
そこは、執務室とは全く違う空間だった。
書物は一冊もなく、調度品も最低限のものしか置かれていない。がらんとした広い部屋。壁には、いくつもの地図が掛けられている。王国の全土地図、王都の詳細図、そして近隣諸国の軍事配置図。
ここは、彼の作戦司令室なのだ。
部屋の中央には、ゼノン公爵が背を向けて立っていた。彼の視線は、壁一面を覆うほど巨大な一枚の羊皮紙に注がれている。
「来たか」
彼は、振り返ることなく言った。
私は、彼の隣まで静かに歩み寄る。そして、彼が見つめていたものの正体を見て、息を呑んだ。
それは、地図ではなかった。
無数の名前と、家紋。
それらが、複雑な線で結びつけられている。赤い線、青い線、そして黒い線。まるで、巨大な蜘蛛の巣。あるいは、人体の血管図のように、おびただしい数の繋がりが、羊皮紙の上で絡み合っていた。
「これは…」
「王国の、権力構造だ」
彼は、静かに言った。
「この国を動かしている、貴族たちの力関係。その全てを可視化したものだ」
私は、その相関図に描かれた名前に目を走らせた。
頂点には、国王アストリアの名。そこから太い線が伸び、いくつかの主要な公爵家、侯爵家へと繋がっている。
ゼノン・エルヴァインの名も、もちろんそこにあった。国王から直接伸びる、最も太く、力強い線の一つだ。
そして、私の実家であるクライノート伯爵家の名も。それは、第二王子アルフォンスの陣営を示す区画の中に、小さく記されていた。
「赤い線は、血縁関係を示す。青は婚姻による繋がり。そして黒は、金や利権によって結ばれた、水面下の関係だ」
彼の説明を聞きながら、私はその図の持つ意味の恐ろしさに、背筋が寒くなるのを感じた。
ここに描かれているのは、社交界で見せる華やかな貴族の顔ではない。欲望と野心が渦巻く、剥き出しの権力闘争そのものだ。
「脅迫状の犯人について、お前に話しておく必要がある」
彼は、本題に入った。
「ギルバートに調べさせた結果、脅迫状に使われていた羊皮紙は、王宮内の特定の部署でしか使われていない、特殊なものだと判明した」
「王宮…」
「ああ。つまり、犯人は王宮に出入りできる、それなりの地位にある人間だ。そして、お前を『偽りの聖女』と呼び、俺から引き離そうと画策している」
彼の指が、相関図の上を滑る。そして、第二王子アルフォンスの名前の上で、ぴたりと止まった。
「真っ先に疑うべきは、ここだろうな。お前を陥れた張本人だ。動機は十分にある」
アルフォンス王子。リゼット。
彼らの顔を思い浮かべただけで、胸の奥が冷たくなる。
「だが…」
彼は、指を別の場所へと動かした。そこは、国王の側近である、いくつかの侯爵家が集まる区画だった。
「奴らだけとは、限らん」
「どういう、意味ですか」
「お前の持つ『嘘を聞き分ける』能力。その価値を、正しく理解している者が他にいるとすれば、話は変わってくる」
彼の金色の瞳が、初めて私に向けられた。
「お前が俺の『耳』となることは、ある者たちにとっては、非常に都合が悪い。自分たちの嘘が、全て白日の下に晒されることになるからだ。連中は、そうなる前にお前を排除したい。あるいは、俺の手の届かない場所へ追いやることで、俺の戦力を削ごうとしているのかもしれん」
私は、言葉を失った。
脅迫状は、単なる私怨や嫌がらせではなかった。
この、巨大で複雑な権力闘争の盤上で、私という存在が、新たな駒として認識された結果なのだ。
「敵は、アルフォンス王子だけではない」
彼は、相関図全体を、まるで戦場を見渡す将軍のように見つめながら言った。
「この蜘蛛の巣の中にいる、全ての人間が、敵になりうる。味方の顔をした、敵もいるだろう」
彼の言葉が、この相関図の本当の意味を私に突きつけた。
これは、ただの図ではない。
嘘と裏切りが渦巻く、巨大な戦場の地図なのだ。
「そして、お前の耳は、この図に描かれていない繋がり…人間の心の中にだけ存在する、見えない線を見つけ出すために必要だ」
彼は、再び私に向き直った。
「脅迫状の犯人が誰であれ、そいつは必ずボロを出す。嘘をつき、何かを隠そうとするだろう。その瞬間を、お前は見逃すな。それが、お前の仕事だ」
それは、あまりにも重い役割だった。
一国の権力闘争の渦中に、私一人、放り込まれるようなものだ。
恐怖がなかったと言えば、嘘になる。
だが、それ以上に。
私を見つめる彼の瞳に、確かな信頼の色が宿っているのを、私は見てしまった。
彼は、私を対等なパートナーとして、この戦場に招き入れている。
守られるだけの存在ではなく、共に戦う仲間として。
その事実が、私の恐怖を、武者震いにも似た、静かな高揚感へと変えていった。
私は、目の前の蜘蛛の巣の地図を、改めて見つめた。
無数の名前。絡み合う線。その全てが、これから私が立ち向かうべき現実。
「…承知、いたしました」
私の声は、震えていなかった。
「あなたの『耳』として、この蜘蛛の巣に潜む、全ての嘘を聞き分けてみせます」
私の答えに、彼は満足したように、ほんの微かに口の端を上げた。
それは、笑みと呼ぶにはあまりにも些細な変化だったが、私には、彼からの最大の賛辞のように思えた。
偽りの婚約者ごっこは、もう終わった。
ここからが、本当の戦いの始まりだ。
この静寂の城で、私は彼と共に、巨大な敵に立ち向かう。
その覚悟が、私の胸に、確かな光を灯していた。
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