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第二十七話 腐敗の王国
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巨大な相関図を前に、私は立ち尽くしていた。
無数の名前と、それらを結ぶ複雑な線。それは、私が今まで生きてきた華やかな貴族社会の、醜い裏側の姿そのものだった。
「敵は、アルフォンス王子だけではない」
ゼノン公爵の静かな声が、作戦司令室の張り詰めた空気に響く。
「むしろ、彼のような単純な愚か者は扱いやすい。本当に厄介なのは、正義や忠誠の仮面を被りながら、甘い汁を吸い続けている者たちだ」
彼は、相関図の上をゆっくりと指でなぞった。その指先が示すのは、国王の側近や、神殿の高官、そして地方を治める有力な伯爵家。一見すれば、何の問題もない、王国を支える名門貴族たちだ。
「この国は、病んでいる。根の深い病に、内側から蝕まれている」
彼の声には、感情が乗っていなかった。しかし、その無感情さが、逆に彼の抱える問題の重さと、彼の底知れない絶望を物語っているようだった。
「腐敗は、あらゆる場所に蔓延している。例えば、税だ」
彼は、財務を司る官僚の名前が並ぶ区画を指した。
「毎年、莫大な税金が国庫に納められる。しかし、その一部は計上される前に消える。巧妙に偽装された帳簿の上で、存在しなかったことにされるのだ。消えた金は、蜘蛛の巣の線を通って、様々な貴族の懐へと流れ込んでいく」
彼の言葉は、先日の会計帳簿の一件を思い出させた。
あれは、氷山の一角に過ぎなかったのだ。
「軍も、例外ではない」
彼の指が、軍務を司る将軍たちの名へと移る。
「存在しない兵士への給金。水増しされた武具の購入費。前線へ送られるはずだった食料の横流し。俺が北の国境で戦っている間にも、王都ではそんな卑劣な裏切りが横行している。兵士たちが命を賭して守っているこの国を、内側から食い荒らすシロアリが、この蜘蛛の巣には無数にいる」
その言葉には、戦場で幾多の死線を超えてきた男の、静かだが燃えるような怒りが込められていた。
血染め公爵。
彼がそう呼ばれるようになったのは、敵兵の血だけが理由ではないのかもしれない。
この国の腐敗に対する、やるせない怒りの色が、彼の魂に染みついているのではないか。
「最も根が深いのは、法を司る者たちの腐敗だ」
彼の指は、司法を担う貴族たちの区画を指した。
「法は、万人に平等なはずだ。だが、この国では違う。法の番人たちが、自らの利権のために法を捻じ曲げる。金と権力を持つ者は罪を逃れ、持たざる者は不当に罰せられる。お前が断罪された、あの茶番のようにな」
彼の言葉が、私の胸に鋭く突き刺さった。
そうだ。私も、その腐敗の犠牲者だったのだ。
アルフォンス王子とリゼットの嘘が、何の検証もされないまま「真実」としてまかり通った。それは、彼らが王族であり、権力を持っていたからに他ならない。
「陛下は…国王陛下は、この状況をご存じないのですか」
私がかろうじて絞り出した問いに、彼は静かに首を振った。
「いや、陛下は全てご存じだ。誰よりも、この国の病の深刻さを理解しておられる」
「では、なぜ…!」
「動けないのだ」
彼の声には、かすかな諦観の色が滲んでいた。
「ここにいる貴族たちの多くは、建国以来、王家を支えてきた由緒ある家門だ。彼らの力は、複雑に絡み合い、王国中に根を張っている。下手に一つの家を取り潰せば、他の家が反発し、最悪の場合は内乱に繋がりかねん。今の王国は、腐りきった柱でかろうじて支えられている、危険な楼閣のようなものなのだ」
なんと、絶望的な状況だろうか。
この国の頂点に立つ王でさえ、自由に身動きが取れない。腐敗を知りながら、それを正すことができない。
「陛下は、望んでおられる。この蜘蛛の巣を、根元から焼き払うことができる、強力な炎を。誰にも、何にも縛られない、絶対的な力を」
彼の金色の瞳が、私を射抜いた。
「俺は、そのための剣になるつもりだ。誰に憚ることなく、腐った部分を断ち切るための、非情な剣に」
彼の目的。
それは、王位簒奪などという、単純な野心ではなかった。
自らが汚れ役となり、憎まれ役となることで、この国を救おうとしている。
血染め公爵。氷の仮面。
人々が彼を畏怖し、遠ざけるその異名こそが、彼が選んだ武器なのだ。
「だからこそ、俺にはお前の耳が必要だ」
彼は、相関図に描かれた一つの名前を、強く指で叩いた。それは、国王の弟君、王弟殿下の名だった。
「例えば、この男。彼は常に陛下の良き相談役として振る舞い、忠誠を誓っている。その言葉に、嘘はないだろう。だが、彼の周囲には、常にきな臭い噂がつきまとう。彼の派閥には、不正の疑惑がある貴族が数多く集まっている」
「…本人は、何も知らないと?」
「さて、どうかな」
彼は、意味深に口の端を上げた。
「あるいは、彼は本当に何も知らず、ただ人に好かれやすいだけの善人なのかもしれん。あるいは、腹心の部下たちにうまく担がれている、愚か者か。あるいは…」
彼は、言葉を切った。
「全てを知った上で、完璧に自らの心を偽り、忠臣の仮面を被り続けている、この国で最も危険な役者か」
その可能性に、私はぞくりと背筋が凍るのを感じた。
「お前の耳は、その仮面を剥がすことができるかもしれん。言葉の嘘だけでなく、その裏にある感情の揺らぎ、隠された本心。それらを読み解くことができれば、この蜘蛛の巣の、本当の中心が見えてくるはずだ」
壮大な話だった。
私が今まで生きてきた、小さな世界とは、あまりにもかけ離れた場所。
一国の運命を左右する、巨大な陰謀の渦。
その中心に、彼は私を置こうとしている。
怖い。
身がすくむほどに、恐ろしい。
だが、それ以上に。
私の心を満たしていたのは、別の感情だった。
目の前に立つ、この男。
ゼノン・アーク・エルヴァイン。
彼は、たった一人で、この絶望的な戦いに身を投じている。
誰にも理解されず、血染めと蔑まれながら、孤独に、国の未来を憂いている。
そのあまりにも大きな背中が、あまりにも孤独に見えて、私の胸は締め付けられるようだった。
この人の、力になりたい。
彼の「耳」としてだけでなく。
彼の孤独を、ほんの少しでも分かち合える、唯一の人間になりたい。
そう、強く、思った。
「…閣下」
私は、静かに口を開いた。
彼は、相関図から視線を外し、私に向き直る。
「私は、怖い。正直に言って、あなたのやろうとしていることの大きさに、足がすくんでいます」
私は、正直な気持ちを告げた。嘘はつけなかった。
「ですが」
私は、彼の金色の瞳を、真っ直ぐに見つめ返した。
「私は、もう逃げません。あなたの剣が、この国の腐敗を断ち切るというのなら、私はその剣の、切っ先を見定めるための光になります。たとえ、どんな危険があろうとも」
私の言葉に、嘘はなかった。
それは、私の魂からの、偽りのない誓いだった。
彼は、何も言わなかった。
ただ、その氷の仮面の下で、彼の瞳がほんのわずかに、和らいだように見えた。
それは、信頼であり、そして、孤独な戦いの中で初めて見つけた、仲間を見る目だったのかもしれない。
「…いい覚悟だ」
やがて、彼は短くそう言うと、相関図に背を向けた。
「まずは、脅迫状の犯人を見つけ出す。それが、反撃の狼煙だ」
彼の声には、もう迷いはなかった。
私という武器を得て、彼はついに、この巨大な蜘蛛の巣に、戦いを挑む決意を固めたのだ。
静かな作戦司令室に、二人の静かな決意が満ちる。
これから始まる、長く、厳しい戦いの予感が、私たちの間の空気を、熱く震わせていた。
無数の名前と、それらを結ぶ複雑な線。それは、私が今まで生きてきた華やかな貴族社会の、醜い裏側の姿そのものだった。
「敵は、アルフォンス王子だけではない」
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「むしろ、彼のような単純な愚か者は扱いやすい。本当に厄介なのは、正義や忠誠の仮面を被りながら、甘い汁を吸い続けている者たちだ」
彼は、相関図の上をゆっくりと指でなぞった。その指先が示すのは、国王の側近や、神殿の高官、そして地方を治める有力な伯爵家。一見すれば、何の問題もない、王国を支える名門貴族たちだ。
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彼の声には、感情が乗っていなかった。しかし、その無感情さが、逆に彼の抱える問題の重さと、彼の底知れない絶望を物語っているようだった。
「腐敗は、あらゆる場所に蔓延している。例えば、税だ」
彼は、財務を司る官僚の名前が並ぶ区画を指した。
「毎年、莫大な税金が国庫に納められる。しかし、その一部は計上される前に消える。巧妙に偽装された帳簿の上で、存在しなかったことにされるのだ。消えた金は、蜘蛛の巣の線を通って、様々な貴族の懐へと流れ込んでいく」
彼の言葉は、先日の会計帳簿の一件を思い出させた。
あれは、氷山の一角に過ぎなかったのだ。
「軍も、例外ではない」
彼の指が、軍務を司る将軍たちの名へと移る。
「存在しない兵士への給金。水増しされた武具の購入費。前線へ送られるはずだった食料の横流し。俺が北の国境で戦っている間にも、王都ではそんな卑劣な裏切りが横行している。兵士たちが命を賭して守っているこの国を、内側から食い荒らすシロアリが、この蜘蛛の巣には無数にいる」
その言葉には、戦場で幾多の死線を超えてきた男の、静かだが燃えるような怒りが込められていた。
血染め公爵。
彼がそう呼ばれるようになったのは、敵兵の血だけが理由ではないのかもしれない。
この国の腐敗に対する、やるせない怒りの色が、彼の魂に染みついているのではないか。
「最も根が深いのは、法を司る者たちの腐敗だ」
彼の指は、司法を担う貴族たちの区画を指した。
「法は、万人に平等なはずだ。だが、この国では違う。法の番人たちが、自らの利権のために法を捻じ曲げる。金と権力を持つ者は罪を逃れ、持たざる者は不当に罰せられる。お前が断罪された、あの茶番のようにな」
彼の言葉が、私の胸に鋭く突き刺さった。
そうだ。私も、その腐敗の犠牲者だったのだ。
アルフォンス王子とリゼットの嘘が、何の検証もされないまま「真実」としてまかり通った。それは、彼らが王族であり、権力を持っていたからに他ならない。
「陛下は…国王陛下は、この状況をご存じないのですか」
私がかろうじて絞り出した問いに、彼は静かに首を振った。
「いや、陛下は全てご存じだ。誰よりも、この国の病の深刻さを理解しておられる」
「では、なぜ…!」
「動けないのだ」
彼の声には、かすかな諦観の色が滲んでいた。
「ここにいる貴族たちの多くは、建国以来、王家を支えてきた由緒ある家門だ。彼らの力は、複雑に絡み合い、王国中に根を張っている。下手に一つの家を取り潰せば、他の家が反発し、最悪の場合は内乱に繋がりかねん。今の王国は、腐りきった柱でかろうじて支えられている、危険な楼閣のようなものなのだ」
なんと、絶望的な状況だろうか。
この国の頂点に立つ王でさえ、自由に身動きが取れない。腐敗を知りながら、それを正すことができない。
「陛下は、望んでおられる。この蜘蛛の巣を、根元から焼き払うことができる、強力な炎を。誰にも、何にも縛られない、絶対的な力を」
彼の金色の瞳が、私を射抜いた。
「俺は、そのための剣になるつもりだ。誰に憚ることなく、腐った部分を断ち切るための、非情な剣に」
彼の目的。
それは、王位簒奪などという、単純な野心ではなかった。
自らが汚れ役となり、憎まれ役となることで、この国を救おうとしている。
血染め公爵。氷の仮面。
人々が彼を畏怖し、遠ざけるその異名こそが、彼が選んだ武器なのだ。
「だからこそ、俺にはお前の耳が必要だ」
彼は、相関図に描かれた一つの名前を、強く指で叩いた。それは、国王の弟君、王弟殿下の名だった。
「例えば、この男。彼は常に陛下の良き相談役として振る舞い、忠誠を誓っている。その言葉に、嘘はないだろう。だが、彼の周囲には、常にきな臭い噂がつきまとう。彼の派閥には、不正の疑惑がある貴族が数多く集まっている」
「…本人は、何も知らないと?」
「さて、どうかな」
彼は、意味深に口の端を上げた。
「あるいは、彼は本当に何も知らず、ただ人に好かれやすいだけの善人なのかもしれん。あるいは、腹心の部下たちにうまく担がれている、愚か者か。あるいは…」
彼は、言葉を切った。
「全てを知った上で、完璧に自らの心を偽り、忠臣の仮面を被り続けている、この国で最も危険な役者か」
その可能性に、私はぞくりと背筋が凍るのを感じた。
「お前の耳は、その仮面を剥がすことができるかもしれん。言葉の嘘だけでなく、その裏にある感情の揺らぎ、隠された本心。それらを読み解くことができれば、この蜘蛛の巣の、本当の中心が見えてくるはずだ」
壮大な話だった。
私が今まで生きてきた、小さな世界とは、あまりにもかけ離れた場所。
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その中心に、彼は私を置こうとしている。
怖い。
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だが、それ以上に。
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そのあまりにも大きな背中が、あまりにも孤独に見えて、私の胸は締め付けられるようだった。
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彼の「耳」としてだけでなく。
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私は、静かに口を開いた。
彼は、相関図から視線を外し、私に向き直る。
「私は、怖い。正直に言って、あなたのやろうとしていることの大きさに、足がすくんでいます」
私は、正直な気持ちを告げた。嘘はつけなかった。
「ですが」
私は、彼の金色の瞳を、真っ直ぐに見つめ返した。
「私は、もう逃げません。あなたの剣が、この国の腐敗を断ち切るというのなら、私はその剣の、切っ先を見定めるための光になります。たとえ、どんな危険があろうとも」
私の言葉に、嘘はなかった。
それは、私の魂からの、偽りのない誓いだった。
彼は、何も言わなかった。
ただ、その氷の仮面の下で、彼の瞳がほんのわずかに、和らいだように見えた。
それは、信頼であり、そして、孤独な戦いの中で初めて見つけた、仲間を見る目だったのかもしれない。
「…いい覚悟だ」
やがて、彼は短くそう言うと、相関図に背を向けた。
「まずは、脅迫状の犯人を見つけ出す。それが、反撃の狼煙だ」
彼の声には、もう迷いはなかった。
私という武器を得て、彼はついに、この巨大な蜘蛛の巣に、戦いを挑む決意を固めたのだ。
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