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第三十話 皮肉な賞賛
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お茶会の翌日は、久しぶりに訪れた本当の意味での休息日となった。
昨夜、ゼノン公爵に成果を報告し、認められたことで、私の心は不思議なほど軽やかだった。不協和音による精神的な疲労はまだ残っていたが、それを上回る充実感が、私の全身を温かく満たしていた。
朝食を運んできたハンナは、私の顔色が昨日とは全く違うことに気づき、心から安堵したように微笑んだ。
「まあ、アリーシャ様。よくお休みになれたご様子。本当によかったですわ」
その声は、一点の曇りもない、澄み切った和音だった。
私は、図書室で静かな一日を過ごすことにした。
部屋を出ると、扉の外にはやはりレオンハルトが控えている。私が会釈をすると、彼は硬いながらも、はっきりとした声で挨拶を返してきた。
「おはようございます、アリーシャ様。本日は、どちらへ」
「図書室へ。少し、本を読みたいの」
「かしこまりました。お供いたします」
彼の態度は、以前とは明らかに違っていた。私を監視する看守ではなく、守るべき対象を警護する、忠実な騎士のそれだ。彼の心から発せられる音も、警戒の不協和音は鳴りを潜め、代わりに職務への実直さと、私という存在への測りかねるような戸惑いの音が、複雑に混じり合っていた。
この城の静寂は、少しずつ、しかし確実に、私を受け入れ始めてくれている。その事実が、私の足取りを軽くした。
図書室で古い歴史書をめくっていると、邸内が昨日とは違う、静かな緊張感に包まれているのを感じた。
時折、廊下を足早に行き交う、ギルバート配下の者たちの気配。彼らは音を立てず、影のように動いている。しかし、その動きの一つ一つに、目的を持った鋭さが感じられた。
バルトレット子爵家の内偵が、始まっているのだ。
私の耳が捉えた、蜘蛛の巣の僅かな綻び。それを手繰り寄せるための、静かで緻密な作業が、この城の主の指揮の下、着々と進められている。
私は、その作戦に直接関わることはできない。もどかしさはあったが、今は自分の役割に徹するべきだ。私は再び本の世界に没頭し、知識という名の武器を磨くことに集中した。
その日の夕刻、再びギルバートが私を呼びに来た。
向かった先は、いつもの執務室。
部屋に入ると、ゼノン公爵は書類仕事の手を止め、大きな椅子に深く座り直して私を待っていた。その金色の瞳は、いつもより少しだけ穏やかに見える。
「体調は、もういいのか」
開口一番、彼はそう尋ねた。
「はい、おかげさまで。すっかり」
「そうか」
彼は短く頷くと、机の上に置かれた一枚の羊皮紙を私の方へ滑らせた。
「ギルバートからの、最初の報告だ」
私は、その羊皮紙を手に取った。そこには、簡潔な文字で、バルトレット子爵家の金の動きに関する調査結果が記されていた。
『バルトレット子爵夫人ミランダ。この半年間で、王都の高級宝飾店にて、合計金貨五百枚相当の首飾り及び指輪を購入』
『子爵家嫡男カイン。王都裏通りの賭博場にて、多額の負債。しかし、その全てが一月以内に何者かによって清算されている』
『子爵自身の、近隣領地への視察旅行。記録上の経費と、実際の滞在費用との間に、大きな乖離を確認』
書かれていることの一つ一つが、財政難の貴族の行動とは、あまりにもかけ離れていた。
私の聞いた、あの貴婦人の「余裕の音」が、具体的な事実によって、動かぬ証拠となって裏付けられた瞬間だった。
「…すごい」
思わず、感嘆の声が漏れた。
「お前の耳は、下手に百人の密偵を放つよりも厄介だな。敵にとっては、だが」
彼は、そう言った。その声は、いつものように平坦だったが、その言葉の裏に、不器用な賞賛の響きが隠されているのを、私は聞き逃さなかった。
それは、彼らしい、皮肉めかした褒め言葉だった。
「財務官僚どもの嘘より、貴婦人の見栄の方がよほど雄弁だとはな。耳がいいことだ」
「…ありがとうございます」
私は、少しだけ頬が熱くなるのを感じながら、羊皮紙を机に戻した。
認められている。
彼の、唯一無二の武器として。
そして、共に戦うパートナーとして。
その事実が、私の胸を熱くした。
「だが」
彼は、厳しい表情に戻った。
「これだけでは、足りん」
「足りない、のですか」
「ああ。これは、あくまで状況証拠だ。バルトレット家が、どこからこの金を得たのか。その金の『源流』を直接押さえなければ、連中を追い詰めることはできん。トカゲの尻尾切りで、終わらせるわけにはいかんからな」
彼は立ち上がると、作戦司令室の地図を指し示すかのように、部屋の壁を顎で示した。
「不正の金の流れ、その源流は、王宮の奥深くにある。財務省の中枢、国家予算を管理する部署だ。そこに、偽装された第二の帳簿が存在するはずだ」
「第二の、帳簿…」
「そうだ。アルフォンス王子とその派閥に流れる、裏金の流れを記録した、決して表には出ることのない帳簿。それを見つけ出し、手に入れることができれば、蜘蛛の巣を根元から焼き払うことができる」
彼の声には、狩りを目前にした獣のような、静かな興奮が宿っていた。
そして、その金色の瞳が、真っ直ぐに私を見据える。
「次の作戦を実行する」
私は、ごくりと喉を鳴らした。
「アリーシャ。お前には、俺と共に来てもらう」
「…どこへ、ですか」
「王宮の、中央資料室だ。深夜、衛兵の目がない時間帯に潜入し、その帳簿を探し出す」
王宮へ、潜入。
その言葉の持つ危険な響きに、私の心臓が大きく跳ねた。
それは、今までとは次元の違う、あまりにも危険な任務だった。見つかれば、ただでは済まない。反逆者として、今度こそ断頭台へ送られるだろう。
恐怖が、足元から這い上がってくる。
しかし、私を見つめる彼の瞳には、一片の疑いも揺らぎもなかった。
彼は、私がこの作戦に同行することを、当然のこととして受け入れている。
私の「耳」が、この作戦の成否を分ける鍵だと、信じてくれている。
光になる、と誓ったはずだ。
彼の剣の、切っ先を見定めるための光に。
私は、恐怖を心の奥底に押し込め、背筋を伸ばした。
「…承知、いたしました。お供、させていただきます」
私の返答に、彼は満足げに頷いた。
「作戦は、三日後の夜だ。それまでに、体力を完全に回復させておけ。今度は、途中で倒れられては困るからな」
その言葉は、命令でありながら、どこか私の体調を気遣う響きを帯びていた。
「はい」
私は、力強く頷いた。
執務室を後にする。扉の外では、レオンハルトが何も聞かなかったという顔で、私を待っていた。
これから始まる、新たな危険な任務。
その緊張感と、彼と共に戦えることへの密かな高揚感。
二つの相反する感情が、私の胸の中で渦を巻いていた。
私はもう、ただ守られるだけのか弱い令嬢ではない。
この静寂の城の主と共に、腐敗した王国に戦いを挑む、共犯者なのだ。
その覚悟が、私の歩む一歩一歩に、新たな力を与えてくれているようだった。
昨夜、ゼノン公爵に成果を報告し、認められたことで、私の心は不思議なほど軽やかだった。不協和音による精神的な疲労はまだ残っていたが、それを上回る充実感が、私の全身を温かく満たしていた。
朝食を運んできたハンナは、私の顔色が昨日とは全く違うことに気づき、心から安堵したように微笑んだ。
「まあ、アリーシャ様。よくお休みになれたご様子。本当によかったですわ」
その声は、一点の曇りもない、澄み切った和音だった。
私は、図書室で静かな一日を過ごすことにした。
部屋を出ると、扉の外にはやはりレオンハルトが控えている。私が会釈をすると、彼は硬いながらも、はっきりとした声で挨拶を返してきた。
「おはようございます、アリーシャ様。本日は、どちらへ」
「図書室へ。少し、本を読みたいの」
「かしこまりました。お供いたします」
彼の態度は、以前とは明らかに違っていた。私を監視する看守ではなく、守るべき対象を警護する、忠実な騎士のそれだ。彼の心から発せられる音も、警戒の不協和音は鳴りを潜め、代わりに職務への実直さと、私という存在への測りかねるような戸惑いの音が、複雑に混じり合っていた。
この城の静寂は、少しずつ、しかし確実に、私を受け入れ始めてくれている。その事実が、私の足取りを軽くした。
図書室で古い歴史書をめくっていると、邸内が昨日とは違う、静かな緊張感に包まれているのを感じた。
時折、廊下を足早に行き交う、ギルバート配下の者たちの気配。彼らは音を立てず、影のように動いている。しかし、その動きの一つ一つに、目的を持った鋭さが感じられた。
バルトレット子爵家の内偵が、始まっているのだ。
私の耳が捉えた、蜘蛛の巣の僅かな綻び。それを手繰り寄せるための、静かで緻密な作業が、この城の主の指揮の下、着々と進められている。
私は、その作戦に直接関わることはできない。もどかしさはあったが、今は自分の役割に徹するべきだ。私は再び本の世界に没頭し、知識という名の武器を磨くことに集中した。
その日の夕刻、再びギルバートが私を呼びに来た。
向かった先は、いつもの執務室。
部屋に入ると、ゼノン公爵は書類仕事の手を止め、大きな椅子に深く座り直して私を待っていた。その金色の瞳は、いつもより少しだけ穏やかに見える。
「体調は、もういいのか」
開口一番、彼はそう尋ねた。
「はい、おかげさまで。すっかり」
「そうか」
彼は短く頷くと、机の上に置かれた一枚の羊皮紙を私の方へ滑らせた。
「ギルバートからの、最初の報告だ」
私は、その羊皮紙を手に取った。そこには、簡潔な文字で、バルトレット子爵家の金の動きに関する調査結果が記されていた。
『バルトレット子爵夫人ミランダ。この半年間で、王都の高級宝飾店にて、合計金貨五百枚相当の首飾り及び指輪を購入』
『子爵家嫡男カイン。王都裏通りの賭博場にて、多額の負債。しかし、その全てが一月以内に何者かによって清算されている』
『子爵自身の、近隣領地への視察旅行。記録上の経費と、実際の滞在費用との間に、大きな乖離を確認』
書かれていることの一つ一つが、財政難の貴族の行動とは、あまりにもかけ離れていた。
私の聞いた、あの貴婦人の「余裕の音」が、具体的な事実によって、動かぬ証拠となって裏付けられた瞬間だった。
「…すごい」
思わず、感嘆の声が漏れた。
「お前の耳は、下手に百人の密偵を放つよりも厄介だな。敵にとっては、だが」
彼は、そう言った。その声は、いつものように平坦だったが、その言葉の裏に、不器用な賞賛の響きが隠されているのを、私は聞き逃さなかった。
それは、彼らしい、皮肉めかした褒め言葉だった。
「財務官僚どもの嘘より、貴婦人の見栄の方がよほど雄弁だとはな。耳がいいことだ」
「…ありがとうございます」
私は、少しだけ頬が熱くなるのを感じながら、羊皮紙を机に戻した。
認められている。
彼の、唯一無二の武器として。
そして、共に戦うパートナーとして。
その事実が、私の胸を熱くした。
「だが」
彼は、厳しい表情に戻った。
「これだけでは、足りん」
「足りない、のですか」
「ああ。これは、あくまで状況証拠だ。バルトレット家が、どこからこの金を得たのか。その金の『源流』を直接押さえなければ、連中を追い詰めることはできん。トカゲの尻尾切りで、終わらせるわけにはいかんからな」
彼は立ち上がると、作戦司令室の地図を指し示すかのように、部屋の壁を顎で示した。
「不正の金の流れ、その源流は、王宮の奥深くにある。財務省の中枢、国家予算を管理する部署だ。そこに、偽装された第二の帳簿が存在するはずだ」
「第二の、帳簿…」
「そうだ。アルフォンス王子とその派閥に流れる、裏金の流れを記録した、決して表には出ることのない帳簿。それを見つけ出し、手に入れることができれば、蜘蛛の巣を根元から焼き払うことができる」
彼の声には、狩りを目前にした獣のような、静かな興奮が宿っていた。
そして、その金色の瞳が、真っ直ぐに私を見据える。
「次の作戦を実行する」
私は、ごくりと喉を鳴らした。
「アリーシャ。お前には、俺と共に来てもらう」
「…どこへ、ですか」
「王宮の、中央資料室だ。深夜、衛兵の目がない時間帯に潜入し、その帳簿を探し出す」
王宮へ、潜入。
その言葉の持つ危険な響きに、私の心臓が大きく跳ねた。
それは、今までとは次元の違う、あまりにも危険な任務だった。見つかれば、ただでは済まない。反逆者として、今度こそ断頭台へ送られるだろう。
恐怖が、足元から這い上がってくる。
しかし、私を見つめる彼の瞳には、一片の疑いも揺らぎもなかった。
彼は、私がこの作戦に同行することを、当然のこととして受け入れている。
私の「耳」が、この作戦の成否を分ける鍵だと、信じてくれている。
光になる、と誓ったはずだ。
彼の剣の、切っ先を見定めるための光に。
私は、恐怖を心の奥底に押し込め、背筋を伸ばした。
「…承知、いたしました。お供、させていただきます」
私の返答に、彼は満足げに頷いた。
「作戦は、三日後の夜だ。それまでに、体力を完全に回復させておけ。今度は、途中で倒れられては困るからな」
その言葉は、命令でありながら、どこか私の体調を気遣う響きを帯びていた。
「はい」
私は、力強く頷いた。
執務室を後にする。扉の外では、レオンハルトが何も聞かなかったという顔で、私を待っていた。
これから始まる、新たな危険な任務。
その緊張感と、彼と共に戦えることへの密かな高揚感。
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