偽りの聖女と呪われた公爵様〜嘘が聞こえる私が、心を閉ざした彼と結ぶ偽りの婚約〜

夏見ナイ

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第二十九話 蜘蛛の巣の綻び

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馬車が公爵邸の重厚な門をくぐり抜ける頃には、私の精神は限界まで擦り切れていた。
一日中、嘘と見栄の不協和音に晒され続けた耳は、全ての音を意味のないノイズとして認識し始めている。レオンハルトの差し出す手を借りて地面に降り立った足は、まるで鉛を引きずるように重かった。
自室に戻り、ハンナが心配そうに世話を焼いてくれるのを、どこか遠い世界の出来事のように感じながら受け入れる。ドレスを脱ぎ、温かい湯に体を沈めると、ようやく強張っていた全身の筋肉が、じんわりと解けていくのを感じた。
湯気の中で、私は今日一日の出来事を反芻していた。
あの、子爵夫人。
息子に高価な馬をねだられて困る、と嘆いていた女。
他の貴婦人たちへの同調を誘う、ありふれた会話。だが、その声に混じっていた、隠しきれない余裕と優越感の響き。
あれは、何だったのだろう。
ただの見栄っ張りなだけかもしれない。他の夫人たちよりも裕福なことを、遠回しに自慢したかっただけかもしれない。そんな些細なことを、わざわざゼノン公爵に報告すべきだろうか。彼の貴重な時間を、私の考えすぎで無駄にしてしまうかもしれない。
迷いが、霧のように心を覆う。
しかし、あの音は、確かに異質だった。他の夫人たちの見栄や虚勢とは、明らかに質の違う、何かを隠している者の不協和音。
私は、自分の耳を信じなければ。それが、彼と交わした「取引」なのだから。
湯から上がり、ハンナが用意してくれた軽食を口にする。少しだけ体力が回復したのを感じ、私は決意を固めた。
報告しよう。たとえ、それが空振りだったとしても。彼の「耳」として、聞こえたものをありのままに伝える。それが、私の今の役割だ。

私は簡素な部屋着のまま、執務室へと向かった。レオンハルトが驚いたように私を見たが、何も言わずに後ろについてくる。
扉をノックし、中へ入る。
部屋の主は、山のような書類の中から顔を上げた。その金色の瞳が、私の疲れた顔を見て、わずかに細められた気がした。
「…休んでいるのではなかったのか」
「ご報告したいことがございます。お茶会での、成果です」
私がそう言うと、彼の纏う空気が変わった。彼はペンを置き、椅子に深く座り直して、私に話を促す。
私は、今日一日の出来事を簡潔に話した。王妃との挨拶、様々な派閥の貴婦人たちの会話。そして最後に、あの奇妙な不協和音を発した子爵夫人のことについて、詳しく説明した。
「彼女の名は、ミランダ・フォン・バルトレット。夫は財務省に籍を置く、バルトレット子爵です」
「ほう。バルトレット子爵夫人、か」
ゼノン公爵は、興味深そうに呟いた。
「彼女は、息子のことで金に困っていると嘆いていました。しかし、その声には困窮の色はなく、むしろ隠しきれないほどの余裕が感じられたのです。それは、他の夫人たちの見栄とは質の違う、何かを隠蔽するための、歪んだ音でした」
私の報告を、彼は黙って聞いていた。その表情からは、何を考えているのか読み取れない。
私が話し終えると、ゼノン公爵はしばらく沈黙していた。やがて、彼は音もなく立ち上がると、隣の作戦司令室へと向かった。
「来い」
短い命令。私は、彼の後に続いた。
部屋の中央には、あの巨大な蜘蛛の巣の相関図が広げられたままだ。彼は、その図の上に指を滑らせると、やがて一つの家紋の上で止めた。
「バルトレット子爵家。ここだな」
その家紋は、第二王子アルフォンスの派閥を示す区画の中に、確かに存在した。
「この家は、二代前に鉱山経営に失敗し、多額の負債を抱えているはずだ。少なくとも、表向きはな。その財政状況は、今も決して楽ではないと聞いている」
彼の言葉が、私の聞いた音の違和感を、明確な「矛盾」へと変えた。
財政難のはずの子爵家。その夫人が、なぜ金に余裕があるような音を発していたのか。
「…資金源が、別にあるということでしょうか」
私の呟きに、彼は静かに頷いた。
「アルフォンス王子は、常に金に困っている。王家からの潤沢な資金はあるが、彼の浪費癖と、派閥維持のための金は、それを遥かに上回る。奴が、どこからか不正な金を手に入れているという噂は、以前からあった」
彼の金色の瞳が、鋭い光を宿す。
「だが、その金の流れを掴むことができなかった。金の出所も、金の隠し場所も、巧妙に偽装されていたからだ」
彼は、相関図のバルトレット子爵家の紋章を、指先で強く叩いた。
「だが、お前の耳が、その金の流れの『出口』の一つを見つけ出したのかもしれん」
財政難を装いながら、裏では不正な資金を受け取り、贅沢な暮らしを送る。バルトレット子爵家は、アルフォンス王子の資金洗浄、あるいは資金隠匿のための、中継地点の一つなのではないか。
私の聞いた、たった一つの小さな嘘。貴婦人の他愛ない愚痴に隠された不協和音。
それが、王国を蝕む巨大な腐敗の、重要な綻びとなった瞬間だった。
「…よくやった」
彼は、私に向き直って言った。その声には、先日の「よく耐えた」という労いとは違う、戦場で仲間を認めるような、確かな響きがあった。
「ギルバート!」
彼が声を張ると、どこで聞いていたのか、ギルバートが音もなく部屋に現れた。
「バルトレット子爵の身辺を洗え。金の動き、交友関係、屋敷の者の金の使いに至るまで、徹底的にだ。ただし、絶対に気づかれるな。これは、まだ蜘蛛の巣を揺らす段階ではない。綻びの糸を、静かに手繰り寄せるだけだ」
「御意」
ギルバートは深く一礼すると、影のように部屋を退出していった。
私は、自分の力が、確かに彼の役に立ったことを実感していた。疲労はまだ残っている。けれど、それ以上に、胸を満たすのは熱い達成感だった。
私はもう、無力ではない。この静寂の城で、彼の隣で、私は戦える。
「疲れているだろう。もう休め」
彼が、私に言った。
「はい」
私が頷いて部屋を出ようとした時、彼は付け加えるように言った。
「アリーシャ」
「…はい」
「お前の耳は、俺が思った以上の武器だな」
その言葉は、皮肉でも、ただの評価でもなかった。
彼の声には、ほんの微かに、だが確かに、賞賛と、そしてある種の喜びにも似た響きが混じっているのを、私は聞き取っていた。
それは、彼が滅多に見せることのない、感情の欠片。
その小さな響きが、私の疲れた心を、何よりも温かく癒してくれるのだった。
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