偽りの聖女と呪われた公爵様〜嘘が聞こえる私が、心を閉ざした彼と結ぶ偽りの婚約〜

夏見ナイ

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第三十二話 暗闇の鼓動

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中央資料室の中は、時間の止まった墓場のような静寂に満ちていた。
外の世界とは完全に遮断された空間。空気に溶け込んだ古いインクと羊皮紙の匂いが、鼻腔をくすぐる。ゼノン公爵が音もなく扉を閉めると、私たちの周りには完全な闇が訪れた。
彼は懐から小さな魔法具を取り出す。すると、彼の掌の上で、蛍ほどの大きさの柔らかな光が生まれた。それは周囲を煌々と照らすのではなく、ただぼんやりと、私たちの足元だけを頼りなく照らし出す、隠密行動用の光だった。
「ここからは、声に出すな。合図は手で行う」
彼は、私の耳元で囁いた。その声は、吐息のように静かだった。
私は、こくりと頷く。
目の前に広がっていたのは、まさしく知識の迷宮だった。床から天井まで届くほどの巨大な書架が、どこまでも続いている。その一つ一つに、羊皮紙の巻物や、革表紙の分厚い書物が、隙間なく詰め込まれていた。王国建国以来の、あらゆる記録がここに眠っているのだ。
「財務省関連の記録は、東側の第三書庫にあるはずだ」
彼は、指で方角を示した。彼は、この資料室の構造さえも、完全に頭に叩き込んでいる。その準備の周到さに、私は改めて舌を巻いた。
私たちは、猫のように足音を忍ばせ、書架の間の狭い通路を進んでいく。
彼の役割は、道案内と、目的のものを探し出すこと。
そして私の役割は、この静寂の中で、あらゆる異音を捉えること。
私は、目を閉じた。視覚を遮断することで、聴覚はさらに研ぎ澄まされる。
耳を澄ますと、聞こえてくる。
建物の外を、規則正しく巡回する衛兵の足音。遠く、そして近い。その距離感を、私は正確に把握することができた。
壁の中を、小さなネズミが走り回る音。天井の梁が、気温の変化で微かに軋む音。
そして、すぐ隣にいる彼の、静かな呼吸音と、衣擦れの音。
その全てが、純粋な「音」として、私の頭の中に流れ込んでくる。この静寂の中では、嘘の不協和音に苛まれることもない。私の耳は、今や彼にとっても私にとっても、最強の索敵装置となっていた。

やがて、私たちは目的の第三書庫へとたどり着いた。
そこは、他の場所よりもさらに多くの帳簿や記録書が、無秩序に積み上げられている場所だった。
「第二の帳簿は、通常の記録とは別に保管されている可能性が高い。表紙に紋章がなく、偽の表題がつけられているかもしれん」
彼は、再び囁いた。
私たちは、手分けして書架を調べ始めた。彼が高い場所を、私が低い場所を。
音を立てないように、一冊ずつ本を抜き取り、表紙を確認し、そっと元に戻す。気の遠くなるような、地道な作業だった。
焦りが、胸をよぎる。衛兵の交代時間は、もうすぐのはずだ。それまでに見つけなければ、次の機会はいつになるか分からない。
私は、書架の最も下の段に屈み込み、埃をかぶった帳簿の背表紙を、指でなぞっていった。『穀物在庫記録』『河川工事予算』『王都修繕費』…。どれも、違う。
その時だった。
私の耳が、今までとは違う種類の足音を捉えた。
遠くから、こちらへ向かってくる、複数の足音。それは、いつもの巡回ルートとは明らかに違う動きだった。
予定外の、見回り。
私は、はっと目を見開いた。そして、すぐ近くで書架の上段を調べていた彼のマントの裾を、強く引いた。
彼は、驚いたように私を見下ろす。
私は、口元に人差し指を当て、必死の形相で外を指さした。
私のただならぬ様子に、彼は瞬時に状況を察知したようだった。その金色の瞳に、鋭い光が宿る。
足音は、もうすぐそこまで近づいてきている。この書庫の扉の前を、確実に通る。
隠れる場所は、どこにもない。通路の中央にいては、扉の覗き窓から見つかってしまう。
万事休すか。
そう思った瞬間、彼は私の腕を強く掴んだ。そして、有無を言わさず、私を書架と書架の間の、人が一人ようやく通れるほどの狭い隙間へと引きずり込んだ。
「…っ!」
声を上げそうになる私の口を、彼の大きな手が素早く覆った。
そして、彼は自らの体で、その隙間に蓋をするように、私を壁際へと押し付けた。
完全に、体が密着する。
私の背中は、冷たい書架の木に押し付けられ、体の前は、彼の硬い胸板に完全に塞がれていた。
暗闇と、狭い空間。逃げ場はどこにもない。
すぐ目の前に、彼の顔がある。魔法灯の淡い光が、その彫刻のような横顔を、すぐ間近に照らし出していた。
彼の心臓の鼓動が、背中を通して、私の体に直接伝わってくる。
ドクン、ドクン、と。
静かで、力強い、生命の音。
それは、私が今まで聞いたどんな音よりも、鮮烈に私の意識を支配した。
自分の心臓もまた、彼のそれに呼応するように、狂ったように高鳴り始めているのが分かる。うるさい。この音が、彼に聞こえてしまうのではないか。
彼の呼吸が、私の耳元で静かに聞こえる。吐き出される息が、私の髪を微かに揺らした。
彼の体温が、薄い潜入服を通して、じんわりと伝わってくる。
今まで感じたことのない、男性としての彼の存在。その圧倒的な現実感が、私の思考を麻痺させた。
ここは、危険な王宮の資料室。私たちは、国家への反逆行為の真っ最中。
そんなことなど、全て頭から吹き飛んでしまいそうだった。
ただ、目の前にいるこの男の存在だけが、私の世界の全てになっていく。

衛兵たちの足音が、すぐ扉の外で止まった。
「…異常なしか」
「はい。物音一つしませんな」
話し声が、くぐもって聞こえてくる。
「最近、この辺りで不審な影を見たという報告があってな。念のため、見回りを強化しているのだ」
「はあ。こんな場所に、盗むものなどありましょうか」
「違いない。まあ、仕事だからな。行くぞ」
金属の擦れる音。そして、足音が再び遠ざかっていく。
危機は、去った。
だが、私たちは動けなかった。
衛兵たちが完全に立ち去った後も、狭い隙間の中、身を寄せ合ったまま、時間が止まったように立ち尽くしていた。
流れるのは、ぎこちない沈黙。
聞こえるのは、二人の心臓の鼓動と、浅い呼吸の音だけ。
先に動いたのは、彼だった。
彼は、ゆっくりと、まるで名残を惜しむかのように、私の口を覆っていた手を離し、そして体を私から離した。
解放された私の体に、ひやりとした空気が流れ込んでくる。
なぜか、それがとても寂しいもののように感じられた。
「…行くぞ。時間がない」
彼の声は、いつもと同じ、感情のない平坦な響きだった。
しかし、その声が、ほんの少しだけ、掠れていたのを、私の耳は確かに捉えていた。
彼は、私と同じように、この予期せぬ接触に、動揺していたのだ。
その事実に気づいた瞬間、私の頬が、カッと熱くなった。
私たちは、互いの顔を見ようとしなかった。
ただ、黙って、帳簿を探す作業を再開する。
しかし、私たちの間の空気は、この資料室に忍び込む前とは、明らかに違うものに変わっていた。
これまで「取引相手」であり「共犯者」であった、私たちの関係。
その間に、名前のない、新しい感情が、静かに芽生え始めていたことを、私たちはまだ、認めることができなかった。
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