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第三十三話 見えないインク
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ぎこちない沈黙が、書架の間の狭い通路を満たしていた。
先ほどの予期せぬ密着。暗闇の中で感じた、互いの鼓動と体温。その鮮烈な記憶が、私たち二人の間に、目に見えない壁のような、あるいは磁石のような、奇妙な緊張感を生み出していた。
私たちは、互いに距離を取り、視線を合わせようとしない。ただ、黙々と帳簿を探す作業に没頭することで、その気まずさから逃れようとしていた。
しかし、私の集中力は、明らかに散漫になっていた。
耳に届くのは、遠くの衛兵の足音ではない。すぐ近くにいる彼の、静かな呼吸音。衣擦れの音。ページをめくる、乾いた音。その一つ一つが、先ほどまでとは全く違う意味を持って、私の意識に突き刺さる。
駄目だ。今は、そんなことを考えている場合ではない。
私は、乱れそうになる呼吸を必死で整え、意識を目の前の帳簿へと強制的に向けた。
「…見つけたかもしれない」
静寂を破ったのは、彼の低い囁き声だった。
私は、はっと顔を上げた。彼が、書架の中ほどから引き抜いた、一冊の分厚い帳簿を手にしている。
それは、他と何ら変わらない、黒い革の表紙に『王室庭園管理記録』とだけ記された、ごくありふれた帳簿に見えた。
「なぜ、それを?」
私が小声で尋ねると、彼は帳簿の背表紙を指し示した。
「ここの金箔が、他と比べて新しい。そして、手に取った時の重さが、紙の枚数と釣り合っていない。中身が、二重になっている可能性がある」
彼の観察眼は、常軌を逸していた。私が見ても、全く気づかないであろう、僅かな違和感。
彼は、その帳簿を近くの閲覧用の小さな机の上に置くと、静かにページを開いた。
中身は、一見すれば、ごく普通の庭園管理の記録だった。植え替えられた花の数、剪定された庭木の数、修繕された噴水の費用。そのどれもが、整然とした文字で記されている。
「…何も、おかしなところは」
私がそう言いかけた時、彼は「静かに」と唇に指を当てた。
そして、懐から小さな革袋を取り出す。中から出てきたのは、砂時計のような形をした、小さなガラスの小瓶だった。中には、銀色に輝く、極めて微細な砂のような粉末が入っている。
彼は、その小瓶の蓋を開けると、帳簿のページの上に、その銀色の粉を、さらさらと振りかけた。
粉は、ページの上に薄く広がる。
そして、次の瞬間、信じられないことが起こった。
何の変化もなかったはずのページの上に、淡い青色の光を放つ、別の文字が、ぼんやりと浮かび上がってきたのだ。
「これは…!」
私は、驚きに声を上げそうになるのを、必死で堪えた。
そこに現れたのは、もう一つの帳簿だった。
庭園の記録の、文字と文字の間に、特殊なインクで書かれた、裏の記録。
『バルトレット子爵家へ、褒賞金の名目で金貨千枚を送金』
『辺境伯への慰問品として、武器商人より剣百本を購入。差額、金貨三千枚、アルフォンス王子へ』
『神殿への寄進、名目上は金貨五千枚。実質は二千枚。差額は、第二王子派閥の活動資金へ』
それは、アルフォンス王子とその派閥に流れた、不正な金の流れを克明に記録した、紛れもない『第二の帳簿』だった。
見えないインク。特殊な粉末にしか反応しない、巧妙に隠された秘密の記録。
「…どうして、この粉のことを」
「以前、北の国境で捕らえた隣国の間諜が、これと同じ手口で機密文書を隠していた。一度見たものは、忘れん」
彼は、淡々と答えた。
彼の知識と経験は、私が想像するよりも、ずっと広く、そして深い。
私たちは、証拠となるページを、音を立てないように、慎重に帳簿から切り取った。全てを持ち出すのは危険すぎる。金の流れが最も明確に記された、数ページだけあれば十分だ。
目的は、果たした。
あとは、ここから無事に脱出するだけだ。
私たちは、切り取った羊皮紙を慎重に懐にしまうと、帳簿を元あった場所へと戻した。そして、来た時と同じように、音を殺して書庫を後にする。
出口の鉄の扉まで、あと少し。
安堵感が、胸に広がりかけた、その時だった。
私の耳が、異常を捉えた。
遠くから、複数の足音が、こちらへ向かってくる。しかも、それは通常の巡回ではない。慌ただしく、そして殺気だった、複数の人間の足音。
見つかった?
いや、違う。この足音は、私たちを追っているのではない。
何か、別の緊急事態が発生したのだ。
「どうした」
私の変化に気づいた彼が、囁き声で尋ねる。
「足音が、来ます。大勢。急いでいるようです」
その直後、王宮の敷地全体に、けたたましい警鐘の音が鳴り響いた。
カン、カン、カン、と。
静寂の闇を切り裂く、鋭い金属音。それは、侵入者か、あるいは火災の発生を知らせる、最高レベルの警戒信号だった。
まずい。
このままでは、王宮の全ての扉が封鎖され、私たちは袋の鼠になる。
「行くぞ!」
彼は、私の手を掴んだ。もはや、隠密行動をしている余裕はない。
私たちは、出口の扉へと駆け出した。
扉を開け、外へ飛び出す。外は、すでに大騒ぎになっていた。あちこちで篝火が焚かれ、武装した衛兵たちが、怒鳴り声を上げながら走り回っている。
「どうなっている…?」
彼が、忌々しげに呟いた。
この混乱は、明らかに私たちのせいではない。だが、この混乱に乗じて、ここから脱出しなければならない。
「あっちだ!」
彼は、庭園の最も暗い茂みを指さした。
私たちは、衛兵たちの目を盗み、再び影となって走り出した。
背後で鳴り響く警鐘の音が、まるで私たちの逃走劇を煽るための音楽のように、けたたましく響き続けている。
何が起きているのかは分からない。
だが、一つだけ確かなことがある。
私たちは、王国の最も深い秘密を、その手に握ってしまった。
そして、その秘密は、この国を根底から揺るがす、巨大な嵐の始まりを告げているのだということを。
息を切らしながら闇の中を駆ける私の胸には、恐怖と、そしてこれから始まるであろう激動への、静かな予感が満ちていた。
先ほどの予期せぬ密着。暗闇の中で感じた、互いの鼓動と体温。その鮮烈な記憶が、私たち二人の間に、目に見えない壁のような、あるいは磁石のような、奇妙な緊張感を生み出していた。
私たちは、互いに距離を取り、視線を合わせようとしない。ただ、黙々と帳簿を探す作業に没頭することで、その気まずさから逃れようとしていた。
しかし、私の集中力は、明らかに散漫になっていた。
耳に届くのは、遠くの衛兵の足音ではない。すぐ近くにいる彼の、静かな呼吸音。衣擦れの音。ページをめくる、乾いた音。その一つ一つが、先ほどまでとは全く違う意味を持って、私の意識に突き刺さる。
駄目だ。今は、そんなことを考えている場合ではない。
私は、乱れそうになる呼吸を必死で整え、意識を目の前の帳簿へと強制的に向けた。
「…見つけたかもしれない」
静寂を破ったのは、彼の低い囁き声だった。
私は、はっと顔を上げた。彼が、書架の中ほどから引き抜いた、一冊の分厚い帳簿を手にしている。
それは、他と何ら変わらない、黒い革の表紙に『王室庭園管理記録』とだけ記された、ごくありふれた帳簿に見えた。
「なぜ、それを?」
私が小声で尋ねると、彼は帳簿の背表紙を指し示した。
「ここの金箔が、他と比べて新しい。そして、手に取った時の重さが、紙の枚数と釣り合っていない。中身が、二重になっている可能性がある」
彼の観察眼は、常軌を逸していた。私が見ても、全く気づかないであろう、僅かな違和感。
彼は、その帳簿を近くの閲覧用の小さな机の上に置くと、静かにページを開いた。
中身は、一見すれば、ごく普通の庭園管理の記録だった。植え替えられた花の数、剪定された庭木の数、修繕された噴水の費用。そのどれもが、整然とした文字で記されている。
「…何も、おかしなところは」
私がそう言いかけた時、彼は「静かに」と唇に指を当てた。
そして、懐から小さな革袋を取り出す。中から出てきたのは、砂時計のような形をした、小さなガラスの小瓶だった。中には、銀色に輝く、極めて微細な砂のような粉末が入っている。
彼は、その小瓶の蓋を開けると、帳簿のページの上に、その銀色の粉を、さらさらと振りかけた。
粉は、ページの上に薄く広がる。
そして、次の瞬間、信じられないことが起こった。
何の変化もなかったはずのページの上に、淡い青色の光を放つ、別の文字が、ぼんやりと浮かび上がってきたのだ。
「これは…!」
私は、驚きに声を上げそうになるのを、必死で堪えた。
そこに現れたのは、もう一つの帳簿だった。
庭園の記録の、文字と文字の間に、特殊なインクで書かれた、裏の記録。
『バルトレット子爵家へ、褒賞金の名目で金貨千枚を送金』
『辺境伯への慰問品として、武器商人より剣百本を購入。差額、金貨三千枚、アルフォンス王子へ』
『神殿への寄進、名目上は金貨五千枚。実質は二千枚。差額は、第二王子派閥の活動資金へ』
それは、アルフォンス王子とその派閥に流れた、不正な金の流れを克明に記録した、紛れもない『第二の帳簿』だった。
見えないインク。特殊な粉末にしか反応しない、巧妙に隠された秘密の記録。
「…どうして、この粉のことを」
「以前、北の国境で捕らえた隣国の間諜が、これと同じ手口で機密文書を隠していた。一度見たものは、忘れん」
彼は、淡々と答えた。
彼の知識と経験は、私が想像するよりも、ずっと広く、そして深い。
私たちは、証拠となるページを、音を立てないように、慎重に帳簿から切り取った。全てを持ち出すのは危険すぎる。金の流れが最も明確に記された、数ページだけあれば十分だ。
目的は、果たした。
あとは、ここから無事に脱出するだけだ。
私たちは、切り取った羊皮紙を慎重に懐にしまうと、帳簿を元あった場所へと戻した。そして、来た時と同じように、音を殺して書庫を後にする。
出口の鉄の扉まで、あと少し。
安堵感が、胸に広がりかけた、その時だった。
私の耳が、異常を捉えた。
遠くから、複数の足音が、こちらへ向かってくる。しかも、それは通常の巡回ではない。慌ただしく、そして殺気だった、複数の人間の足音。
見つかった?
いや、違う。この足音は、私たちを追っているのではない。
何か、別の緊急事態が発生したのだ。
「どうした」
私の変化に気づいた彼が、囁き声で尋ねる。
「足音が、来ます。大勢。急いでいるようです」
その直後、王宮の敷地全体に、けたたましい警鐘の音が鳴り響いた。
カン、カン、カン、と。
静寂の闇を切り裂く、鋭い金属音。それは、侵入者か、あるいは火災の発生を知らせる、最高レベルの警戒信号だった。
まずい。
このままでは、王宮の全ての扉が封鎖され、私たちは袋の鼠になる。
「行くぞ!」
彼は、私の手を掴んだ。もはや、隠密行動をしている余裕はない。
私たちは、出口の扉へと駆け出した。
扉を開け、外へ飛び出す。外は、すでに大騒ぎになっていた。あちこちで篝火が焚かれ、武装した衛兵たちが、怒鳴り声を上げながら走り回っている。
「どうなっている…?」
彼が、忌々しげに呟いた。
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「あっちだ!」
彼は、庭園の最も暗い茂みを指さした。
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背後で鳴り響く警鐘の音が、まるで私たちの逃走劇を煽るための音楽のように、けたたましく響き続けている。
何が起きているのかは分からない。
だが、一つだけ確かなことがある。
私たちは、王国の最も深い秘密を、その手に握ってしまった。
そして、その秘密は、この国を根底から揺るがす、巨大な嵐の始まりを告げているのだということを。
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