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第三十四話 最初の戦果
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王宮の夜は、警鐘のけたたましい響きと、衛兵たちの怒号によって引き裂かれていた。
「火事だ!西の塔で火の手が上がっているぞ!」
「水を用意しろ!急げ!」
走り回る兵士たちの会話から、混乱の原因が火事であることを私たちは瞬時に理解した。私たちの潜入とは無関係の、偶然の災厄。しかし、それは私たちにとって、この上ない天佑でもあった。
「行くぞ!この混乱に乗じる!」
ゼノン公爵は、私の手を強く握り締め、闇の中を駆け出した。
もはや、隠密行動などしていられない。警備の目は全て西の塔へと向いている。その隙を突き、最短距離で外壁を目指す。
庭園の植え込みを抜け、回廊の影を走り、中庭を横切る。衛兵の集団と鉢合わせそうになるたび、私の耳が彼らの接近を先に捉えた。
「右から、五人来ます!」
私が囁くと、彼は躊躇なく進路を左へと変え、装飾用の石像の影へと身を滑り込ませた。私たちのすぐ横を、慌ただしい足音が駆け抜けていく。
私たちは、息を殺して闇に同化する。彼の腕が、私の体を強く抱き寄せ、その存在を隠していた。
衛兵たちが通り過ぎるのを待ち、私たちは再び走り出す。
まるで、一つの生き物のように。私の耳が索敵し、彼の脚が私たちを運ぶ。その完璧な連携は、言葉を交わさずとも、互いの呼吸だけで成り立っていた。
やがて、私たちの目の前に、王宮を囲む最後の壁が立ちはだかった。
昼間ならば、衛兵が厳重に警備しているはずの壁際も、今はほとんど無人だ。彼らの意識も、背後で赤々と燃え上がる西の塔へと向いている。
彼は、来た時と同じように、一瞬で壁を駆け上がった。そして、すぐにロープが下ろされる。私はそれを掴み、彼の力で再び宙へと引き上げられた。
壁の頂上から見下ろす王宮は、赤い炎と黒い煙に包まれ、まるで地獄絵図のようだった。
私たちは、その光景に一瞥をくれると、躊躇なく壁の外の闇へと身を躍らせた。
着地の衝撃を、彼は全身で吸収し、音もなく私を地面に立たせる。
そして、私たちは王都の裏路地の闇の中へと、完全に姿を消した。
王宮の喧騒が、嘘のように遠ざかっていく。
私たちは、しばらく無言で裏路地を走り続けた。追手の気配がないことを完全に確認すると、彼はようやく足を止めた。
その瞬間、私の全身から、張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと切れた。
「…はぁっ…はぁっ…」
私は、その場にへたり込み、壁に背中を預けて荒い呼吸を繰り返した。心臓が、肋骨の内側で暴れ狂っている。足は、鉛のように重く、指一本動かせそうになかった。
隣で、ゼノン公爵もまた、壁に片手をつき、静かに息を整えていた。彼の呼吸も、いつもよりは少しだけ速い。
静寂が、私たちの間に落ちる。
聞こえるのは、互いの荒い息遣いと、遠くで響く警鐘の残響だけ。
私たちは、やったのだ。
王国の中枢に忍び込み、決して表に出ることのない、腐敗の証拠を手に入れた。
その事実が、疲労困憊の私の体に、じわじわと染み渡っていく。
それは、恐怖を乗り越えた者だけが味わえる、純粋な達成感だった。
「…やりましたね」
私の口から、思わず、か細い声が漏れた。
「ええ。やりました」
私は、顔を上げた。すぐ隣に立つ、闇に溶け込むような黒い影。私の、共犯者。
彼がいてくれたから、私はここまで来られた。
彼が、私を信じてくれたから。
その思いが、胸の奥から熱い塊となって込み上げてくる。
そして、私の唇は、自然と綻んでいた。
最初は、小さな微笑み。
だが、込み上げてくる喜びを抑えきれず、それはやがて、声にならない、くすくすという笑い声に変わった。
「ふふっ…あははっ…!」
何が、そんなにおかしいのか。自分でも分からない。
ただ、嬉しかった。
命がけの潜入を成功させたこと。彼の役に立てたこと。そして、このどうしようもないスリルを、彼と共に味わえたこと。
その全てが、私を生まれて初めて感じるような、無邪気な高揚感で満たしていた。
私は、壁に背を預けたまま、子供のように笑い続けた。
それは、クライノート家で心を閉ざして以来、私が忘れてしまっていた、心からの笑みだった。
偽りの聖女でも、公爵家の婚約者でもない。
ただのアリーシャとしての、偽りのない、真実の感情の発露。
その笑い声は、薄暗い裏路地に、鈴が転がるように軽やかに響き渡った。
遠くで燃え盛る王宮の炎が、赤い光となって私たちのいる路地をぼんやりと照らし出す。
その赤い光の中で、私の笑顔が、月の光のように、白く輝いて見えたことを。
私は、まだ知らなかった。
「火事だ!西の塔で火の手が上がっているぞ!」
「水を用意しろ!急げ!」
走り回る兵士たちの会話から、混乱の原因が火事であることを私たちは瞬時に理解した。私たちの潜入とは無関係の、偶然の災厄。しかし、それは私たちにとって、この上ない天佑でもあった。
「行くぞ!この混乱に乗じる!」
ゼノン公爵は、私の手を強く握り締め、闇の中を駆け出した。
もはや、隠密行動などしていられない。警備の目は全て西の塔へと向いている。その隙を突き、最短距離で外壁を目指す。
庭園の植え込みを抜け、回廊の影を走り、中庭を横切る。衛兵の集団と鉢合わせそうになるたび、私の耳が彼らの接近を先に捉えた。
「右から、五人来ます!」
私が囁くと、彼は躊躇なく進路を左へと変え、装飾用の石像の影へと身を滑り込ませた。私たちのすぐ横を、慌ただしい足音が駆け抜けていく。
私たちは、息を殺して闇に同化する。彼の腕が、私の体を強く抱き寄せ、その存在を隠していた。
衛兵たちが通り過ぎるのを待ち、私たちは再び走り出す。
まるで、一つの生き物のように。私の耳が索敵し、彼の脚が私たちを運ぶ。その完璧な連携は、言葉を交わさずとも、互いの呼吸だけで成り立っていた。
やがて、私たちの目の前に、王宮を囲む最後の壁が立ちはだかった。
昼間ならば、衛兵が厳重に警備しているはずの壁際も、今はほとんど無人だ。彼らの意識も、背後で赤々と燃え上がる西の塔へと向いている。
彼は、来た時と同じように、一瞬で壁を駆け上がった。そして、すぐにロープが下ろされる。私はそれを掴み、彼の力で再び宙へと引き上げられた。
壁の頂上から見下ろす王宮は、赤い炎と黒い煙に包まれ、まるで地獄絵図のようだった。
私たちは、その光景に一瞥をくれると、躊躇なく壁の外の闇へと身を躍らせた。
着地の衝撃を、彼は全身で吸収し、音もなく私を地面に立たせる。
そして、私たちは王都の裏路地の闇の中へと、完全に姿を消した。
王宮の喧騒が、嘘のように遠ざかっていく。
私たちは、しばらく無言で裏路地を走り続けた。追手の気配がないことを完全に確認すると、彼はようやく足を止めた。
その瞬間、私の全身から、張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと切れた。
「…はぁっ…はぁっ…」
私は、その場にへたり込み、壁に背中を預けて荒い呼吸を繰り返した。心臓が、肋骨の内側で暴れ狂っている。足は、鉛のように重く、指一本動かせそうになかった。
隣で、ゼノン公爵もまた、壁に片手をつき、静かに息を整えていた。彼の呼吸も、いつもよりは少しだけ速い。
静寂が、私たちの間に落ちる。
聞こえるのは、互いの荒い息遣いと、遠くで響く警鐘の残響だけ。
私たちは、やったのだ。
王国の中枢に忍び込み、決して表に出ることのない、腐敗の証拠を手に入れた。
その事実が、疲労困憊の私の体に、じわじわと染み渡っていく。
それは、恐怖を乗り越えた者だけが味わえる、純粋な達成感だった。
「…やりましたね」
私の口から、思わず、か細い声が漏れた。
「ええ。やりました」
私は、顔を上げた。すぐ隣に立つ、闇に溶け込むような黒い影。私の、共犯者。
彼がいてくれたから、私はここまで来られた。
彼が、私を信じてくれたから。
その思いが、胸の奥から熱い塊となって込み上げてくる。
そして、私の唇は、自然と綻んでいた。
最初は、小さな微笑み。
だが、込み上げてくる喜びを抑えきれず、それはやがて、声にならない、くすくすという笑い声に変わった。
「ふふっ…あははっ…!」
何が、そんなにおかしいのか。自分でも分からない。
ただ、嬉しかった。
命がけの潜入を成功させたこと。彼の役に立てたこと。そして、このどうしようもないスリルを、彼と共に味わえたこと。
その全てが、私を生まれて初めて感じるような、無邪気な高揚感で満たしていた。
私は、壁に背を預けたまま、子供のように笑い続けた。
それは、クライノート家で心を閉ざして以来、私が忘れてしまっていた、心からの笑みだった。
偽りの聖女でも、公爵家の婚約者でもない。
ただのアリーシャとしての、偽りのない、真実の感情の発露。
その笑い声は、薄暗い裏路地に、鈴が転がるように軽やかに響き渡った。
遠くで燃え盛る王宮の炎が、赤い光となって私たちのいる路地をぼんやりと照らし出す。
その赤い光の中で、私の笑顔が、月の光のように、白く輝いて見えたことを。
私は、まだ知らなかった。
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