偽りの聖女と呪われた公爵様〜嘘が聞こえる私が、心を閉ざした彼と結ぶ偽りの婚約〜

夏見ナイ

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第三十五話 無垢なる光

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裏路地に、私の場違いな笑い声が響き渡っていた。
何がおかしいのか、自分でも分からない。ただ、命がけの潜入を成し遂げた高揚感と、彼の役に立てたという達成感が、堰を切ったように私の中から溢れ出して、笑いという形になって表れているだけだった。
それは、私が生まれて初めて経験する、魂からの歓喜だった。
遠くで燃え盛る王宮の炎。その赤い光が、まるで舞台照明のように、壁に背を預けて笑う私を照らし出している。
私は、その光の中で、ただ無心に笑い続けていた。
どれくらいの時間が、そうして過ぎただろうか。
ようやく笑いが収まり、荒い呼吸を繰り返していると、私はふと、視線を感じた。
すぐ隣で、ゼノン公爵が、私をじっと見つめていたのだ。
彼は、壁に片手をついたまま、微動だにしていない。その金色の瞳が、闇と炎の赤い光の中で、不思議な熱を帯びて揺らめいていた。
いつもの、氷のように冷たい無機質な光ではない。
私の内側まで見透かすような、鋭い探求者の光でもない。
その瞳に宿っていたのは、私が今まで一度も見たことのない、戸惑いと、そして何かを慈しむような、静かな光だった。
彼は、私の笑顔に、見入っていた。
その事実に気づいた瞬間、私の全身から、さっと血の気が引いた。そして、次の瞬間には、耳まで真っ赤になるほどの熱が、顔中に広がった。
「も、申し訳、ございません…!」
私は、慌てて立ち上がった。高揚感は一瞬で消え失せ、代わりに猛烈な羞恥心が私を襲う。
「その…はしたない真似を、お見せしました…」
貴族の令嬢が、人目も憚らず、裏路地で大声で笑うなど。ありえないことだ。ましてや、彼の前で。
私は、俯いたまま、彼の叱責を待った。
しかし、聞こえてきたのは、予想とは全く違う言葉だった。
「…悪くない」
低く、静かな声。
私は、恐る恐る顔を上げた。
彼は、もう私を見ていなかった。その視線は、遠くで煙を上げる王宮へと向けられている。その横顔は、いつもの氷の仮面に戻っていた。
「気にするな。それより、長居は無用だ。戻るぞ」
彼はそれだけ言うと、私に背を向け、闇の中を歩き出した。
私は、呆然とその背中を見つめていた。
悪くない。
彼は、そう言った。
私の、はしたない笑い声を。
その言葉が、私の胸の中で、小さな温かい響きとなって、何度も何度もこだました。
私は、慌てて彼の後を追った。
公爵邸への帰路は、行きとは全く違う空気に包まれていた。
行きは、任務への緊張感と、完璧な連携による一体感があった。
しかし、今は違う。
会話はない。けれど、その沈黙は、互いの存在を強く意識させる、どこか甘く、そしてぎこちない重さを持っていた。
彼の少し前を歩く、私の背中。私の数歩後ろを歩く、彼の気配。
私たちは、互いのことを、今、どんな顔で見つめているのだろう。
そんなことを考えてしまい、私の足取りはどこか覚束なかった。

公爵邸の秘密通路を抜け、私たちは再び、静寂に包まれた城の中へと戻ってきた。
私の部屋の前まで、彼は黙って私を送ってくれた。
扉の前で、彼は足を止める。
「今夜のことは、誰にも言うな。ギルバートにも、だ」
それは、作戦の秘密を守るための、当然の命令。
しかし、その声は、どこか「二人だけの秘密だ」とでも言うような、特別な響きを帯びていた。
「…はい。もちろんです」
私が頷くと、彼は満足したように頷き返した。そして、一瞬だけ、何かを言いかけたように唇を開きかけたが、結局何も言わずに、踵を返して闇の中へと去っていった。
私は、彼の黒いマントが廊下の闇に消えるのを、しばらく見送っていた。
部屋に戻り、一人になる。
ベッドに倒れ込むと、どっと疲労感が押し寄せてきた。体は、鉛のように重い。
けれど、心は、不思議なほどに高揚していた。
瞼を閉じると、鮮明に蘇る。
暗闇の中で感じた、彼の鼓動と体温。
そして、私をじっと見つめていた、あの熱を帯びた金色の瞳。
悪くない、と言ってくれた、彼の声。
その一つ一つが、私の胸の中で、温かい光となって灯り続ける。
その夜、私はなかなか寝付けなかった。

一方、その頃。
自室に戻ったゼノン・エルヴァインは、一人、窓辺に立って、遠くでまだくすぶり続ける王宮の赤い空を眺めていた。
彼の表情は、相変わらずの氷の仮面。
しかし、その脳裏には、先ほどの光景が、焼き付いたように何度も再生されていた。
裏路地の闇の中。
遠くの炎に照らされて、無邪気に笑う少女の姿。
その無垢な光は、彼が長年過ごしてきた、血と裏切りに満ちた灰色の世界には、決して存在しないはずのものだった。
それは、あまりにも眩しく、そして、彼の凍てついた心を、予期せず揺さぶるには、十分すぎるほどの輝きを持っていた。
彼は、そっと己の胸に手を当てた。
呪いで失ったはずの、感情。その名残が、まだこの胸の奥底で、微かな熱を持って燻っているのを感じる。
彼は、静かに、誰に聞かせるともなく、呟いた。
「…悪くない」
その言葉は、闇夜に静かに溶けて消えた。
彼の凍てついた世界に、アリーシャという名の小さな光が、確かに差し込み始めたことを。
彼自身が、その重大な変化に気づくのは、まだ少しだけ、先のことになる。
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