偽りの聖女と呪われた公爵様〜嘘が聞こえる私が、心を閉ざした彼と結ぶ偽りの婚約〜

夏見ナイ

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第三十六話 束の間の陽だまり

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深夜の潜入から、数日が過ぎた。
手に入れた『第二の帳簿』の写しは、今頃ギルバート配下の者たちによって徹底的に分析されているだろう。蜘蛛の巣に絡め取られた不正の証拠は、ゼノン公爵の書斎で静かに出番を待っている。
しかし、作戦の成功とは裏腹に、私の体には鉛のような疲労が蓄積していた。命がけの潜入と、その後の高揚感。そして、彼との予期せぬ密着。あまりにも多くの出来事が、私の心を揺さぶり続けていた。
夜、ベッドに入ってもなかなか寝付けず、昼間は図書室の本の文字が頭に入ってこない。まるで、張り詰めていた糸が、切れかかっているようだった。
「アリーシャ様。少し、お顔の色が優れませんわ」
昼食の食器を下げに来たハンナが、心配そうに私の顔を覗き込んだ。その声は、心からの気遣いに満ちた温かい和音だ。
「たまには、外の空気を吸われるのもよろしいかと。王都の市場は、今が一番賑やかな季節でございますよ」
市場。
その言葉の響きに、私の心はかすかに動いた。
クライノート家にいた頃、私が自由に街へ出かけることなど許されなかった。いつも窓から眺めるだけだった、活気あふれる人々の暮らし。そこに、少しだけ憧れがあった。
しかし、脅迫状の件がある。私が軽率に外へ出れば、ゼノン公爵やこの屋敷の人々に、さらなる危険を招いてしまうかもしれない。
「…でも、今は…」
私が躊躇いの言葉を口にしかけた、その日の午後だった。
「閣下がお呼びです」
ギルバートからの、突然の呼び出し。
私は、また新たな任務だろうかと身構えながら、執務室へと向かった。
部屋に入ると、ゼノン公爵は書類仕事の手を止めて、私を待っていた。
「気分転換が必要だろう」
開口一番、彼はそう言った。その声は、いつもと同じ平坦な響きだ。
「王都の市場へ行ってこい」
「え…」
予想外の言葉に、私は戸惑った。それは、ハンナが先ほど口にしたのと同じ提案だった。
「ですが、脅迫状のこともあります。私が外へ出るのは、危険なのでは…」
「レオンハルトと、腕利きの者を数名つける。公爵家の紋章がない、目立たぬ馬車も用意させた」
彼は、私の反論を予測していたかのように、淀みなく答えた。
「邸内に籠ってばかりでは、逆に思考が鈍る。敵の動きを探る上でも、時には外の空気を吸い、民衆の様子を見ることも必要だ。これも、任務の一環だと思え」
任務。
彼は、そう言った。
しかし、その合理的な言葉の裏に、彼の不器用な優しさが隠されていることを、私はもう知っていた。
私の疲労を見抜き、気遣ってくれているのだ。それを素直に口にできない彼は、「任務」という大義名分をつけた。
そのじれったいほどの気遣いが、私の胸を温かくした。
「…ありがとうございます。では、お言葉に甘えさせていただきます」
私が頷くと、彼は満足したように頷き返し、すぐに書類へと視線を戻した。まるで、私との会話はもう終わったとでも言うかのように。

久しぶりの外出が決まり、私の心は久しぶりに浮き立っていた。
ハンナは、まるで自分のことのように喜び、クローゼットの奥から一枚の服を取り出してきた。
それは、貴族令嬢が着るような華美なドレスではない。生成り色の丈夫な生地で作られた、簡素だが上品なワンピース。街に溶け込めるようにと、ハンナが私のためにあつらえてくれていたものだ。
「まあ、素敵…!」
私は、その素朴な温かみのある服を、胸に抱きしめた。
着替えた私の姿を見て、ハンナは嬉しそうに目を細める。
「お嬢様が、普通の女の子のように笑ってくださるのが、わたくしは一番嬉しいですわ」
その言葉に、私は少しだけ照れくさくなった。

準備を終えて玄関ホールへ向かうと、そこには完全武装のレオンハルトと、彼が選んだであろう屈強な騎士たちが、厳しい表情で待ち構えていた。
その物々しい雰囲気に、私の浮かれた気分は少しだけ萎む。
「アリーシャ様。外出中は、決して私のそばを離れぬよう。そして、少しでも不審な気配を感じたら、すぐに合図を」
レオンハルトの口調は、戦場へ向かう指揮官のように厳しかった。
「分かっています。よろしくお願いします、レオンハルト」
私が微笑みかけると、彼は一瞬だけ戸惑ったような顔をしたが、すぐに厳しい表情に戻って頷いた。

用意されたのは、黒塗りの、何の飾りもないシンプルな馬車だった。
私とレオンハルトが中に乗り込み、他の騎士たちは馬にまたがって、馬車の前後を固める。
馬車が、ゆっくりと公爵邸の門を出ていく。
久しぶりに見る、王都の街並み。石畳の道を行き交う人々、建ち並ぶ店の看板、遠くで聞こえる子供たちのはしゃぎ声。その全てが、新鮮で、輝いて見えた。
私は、窓の外の景色に夢中になっていた。クライノート家にいた頃は、こんな風に自由に街を眺めることさえ、許されなかったのだから。
ふと、隣に座るレオンハルトが、窓のカーテンを閉めようとしているのに気づいた。警護対象の顔を、無防備に晒すわけにはいかないという、彼の職務忠実さの表れだろう。
しかし、彼は、窓の外をキラキラした目で見つめる私の横顔を見て、その手をそっと下ろした。そして、何も言わずに、前を向いて座り直す。
彼の心から聞こえてくる、硬質な決意の音の隙間に、ほんの少しだけ、温かい戸惑いの響きが混じったのを、私は聞き逃さなかった。

やがて、馬車が市場の入り口近くで停止した。
扉が開かれると、人々の活気に満ちた声、焼きたてのパンや香辛料の食欲をそそる匂い、色とりどりの野菜や果物が並ぶ露店の鮮やかな色彩が、一斉に私の中に飛び込んできた。
「すごい…!」
思わず、感嘆の声が漏れる。
そこは、私が今まで知らなかった、生命力に満ち溢れた世界だった。
「参りましょう、レオンハルト」
私は、これから始まる束の間の自由な時間に、心をときめかせながら、彼に微笑みかけた。
レオンハルトは、厳しい表情を崩さないまま、しかし力強く頷き返す。
私は、彼と騎士たちに守られながら、賑やかな市場の中へと、一歩を踏み出した。
その時、市場の喧騒に紛れた雑踏の奥で、数人の男たちが、私と護衛の騎士たちの姿を、冷たい目で見つめていることに。
そして、その視線が、獲物を見つけた狩人のそれであったことに。
私はまだ、気づいてはいなかった。
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