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第三十七話 普通の少女のように
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王都の中央市場は、まさしく生命の奔流だった。
石畳の広場を埋め尽くすように、無数の露店が所狭しと軒を連ねている。威勢のいい売り子の声、客との値引き交渉で飛び交う笑い声、大道芸人が奏でる陽気な音楽。それら全てが混じり合い、巨大な一つの生き物のように、市場全体を活気づけていた。
「新鮮なカボチャだよ!一個どうだい、お嬢さん!」
「焼きたてのミートパイはいらんかねー!」
私の耳に飛び込んでくるのは、不協和音ではない。生活のために必死に働き、日々の暮らしの中に小さな喜びを見出す、たくましい人々の「真実の音」だった。
私は、その音の洪水に包まれながら、目をキラキラと輝かせていた。
「レオンハルト、見て。あの布地、とても綺麗」
「…はい」
「まあ、あちらには珍しい香辛料が。どんな味がするのかしら」
「…さあ」
私の弾むような声に、レオンハルトは相変わらず硬い返事を返すだけだ。しかし、彼の全身からは、周囲への警戒を一切怠らない、張り詰めた空気が放たれている。
私のはしゃぎっぷりが、彼の任務をより困難にしていることは分かっていた。申し訳ないとは思う。けれど、この抑えきれない高揚感を、どうすることもできなかった。
私は、生まれて初めて、「普通の少女」になっていた。
貴族の令嬢でも、偽りの聖女でも、公爵の婚約者でもない。ただ、目の前の光景に心を躍らせる、一人の少女として。
私は、色鮮やかな野菜が山と積まれた露店の前で、足を止めた。艶のある赤いトマト、濃い緑色の葉物野菜、そして太陽の色をした大きなカボチャ。そのどれもが、生命力に満ちて輝いている。
「すごい…」
公爵邸の厨房に運び込まれる食材は、どれも完璧に選別された一級品だ。けれど、こうして土の匂いを残したまま無造作に積まれた野菜たちには、それとは違う、たくましい魅力があった。
「お嬢ちゃん、見る目があるねえ!うちの野菜は、王都一だよ!」
店の主である、人の良さそうなおばさんが、しわくちゃの笑顔で私に話しかけてきた。
「何か、買って行かれるかい?」
「え…」
私は、戸惑った。買い物をした経験など、一度もない。お金を持ち歩いたことさえないのだ。
私の様子を見て、全てを察したレオンハルトが、一歩前に出た。
「すまないが、我々は見ているだけだ」
低い声で、彼はきっぱりと言った。その声には、馴れ馴れしく話しかけるなという、明確な拒絶が含まれている。
おばさんは、彼の放つ威圧感に一瞬たじろいだが、すぐに気を取り直してにこりと笑った。
「そうかい。まあ、見るだけでも楽しんでっておくれよ」
その言葉に、嘘の音はなかった。
私は、レオンハルトの袖を、そっと引いた。
「あの、レオンハルト。少しだけ、買ってもいいかしら」
「…アリーシャ様。そのようなこと、なさらずとも…」
「お願い。自分で、選んでみたいの」
私が真剣な目で見つめると、彼はしばらく逡巡していたが、やがて深いため息をつくと、懐から小さな革袋を取り出した。
「…お好きなものを」
その許可に、私の顔はぱあっと輝いた。
私は、おばさんと相談しながら、夢中になって野菜を選んだ。どれも美味しそうで、なかなか決められない。その様子を、レオンハルトは少し離れた場所から、腕を組んで見守っていた。
彼の心から聞こえてくる音は、相変わらずの警戒心と、そしてほんの少しの呆れが混じった、複雑な響きだった。
しかし、その音の奥底に、今まで聞こえなかった、ごく微かな、温かい響きが混じり始めていることに、私は気づいていた。
それは、まるで氷が解け始める時に聞こえる、小さな水音のような、優しい音だった。
野菜を買い終えた私は、小さな包みを大事に抱え、再び市場の喧騒の中を歩き始めた。
次に私の足を止めたのは、素朴な木彫りの人形を売る、小さな露店だった。棚には、動物や兵士、踊り子など、様々な人形が並べられている。そのどれもが、作りは粗いが、不思議な温かみを持っていた。
私は、その中の一つの人形に、目を奪われた。
それは、銀色の髪を持ち、紫色の瞳を描き込まれた、小さな少女の人形だった。
まるで、昔の私を見ているかのようだった。
まだ、自分の能力が呪いだと知らず、ただ世界を不思議な目で見つめていた、幼い頃の私。
「…可愛い」
思わず、呟きが漏れた。
「お嬢ちゃん、それが気に入ったのかい?」
店の主である、穏やかな目をした老人が、優しい声で話しかけてきた。
「これはね、幸運を呼ぶと言われているんだよ。銀の髪の妖精の人形さ」
その言葉に、嘘はなかった。彼は、心からそう信じている。
私は、その人形をそっと手に取った。滑らかな木の感触が、手のひらに心地よい。
「…これを、ください」
私が言うと、レオンハルトが再び黙って代金を支払ってくれた。
私は、幸運の妖精の人形を、先ほどの野菜の包みと並べて、大切に抱きしめた。
それは、私が自分の意思で手に入れた、生まれて初めての「宝物」だった。
市場の散策は、あっという間に時間が過ぎていった。
私は、普通の少女のように笑い、驚き、そして心をときめかせた。レオンハルトと騎士たちは、そんな私を常に完璧な距離で守り続けてくれた。
太陽が、空高く昇りきる頃。
「アリーシャ様。そろそろ、お戻りの時間です」
レオンハルトが、静かに告げた。
「…そうね」
私は、少しだけ名残惜しい気持ちになりながらも、素直に頷いた。
束の間の陽だまり。夢のような時間。
それでも、今の私には、帰るべき場所がある。
私を待っていてくれる人がいる。
その事実が、私の心を温かく満たしていた。
私たちは、市場の出口へと向かって、人混みの中を歩き始めた。
私が買った野菜と、幸運の妖精の人形。
その二つのささやかな宝物を胸に抱きながら。
私は、この日の穏やかな幸福が、永遠に続くかのように錯覚していた。
しかし、その幸福は、一本の薄暗い路地の入り口で、唐突に終わりを告げることになる。
背後から忍び寄る、複数の殺気に満ちた気配。
私の耳が、それを捉えたのは、敵の刃が、レオンハルトの背中に向かって振り下ろされる、ほんの数瞬前のことだった。
石畳の広場を埋め尽くすように、無数の露店が所狭しと軒を連ねている。威勢のいい売り子の声、客との値引き交渉で飛び交う笑い声、大道芸人が奏でる陽気な音楽。それら全てが混じり合い、巨大な一つの生き物のように、市場全体を活気づけていた。
「新鮮なカボチャだよ!一個どうだい、お嬢さん!」
「焼きたてのミートパイはいらんかねー!」
私の耳に飛び込んでくるのは、不協和音ではない。生活のために必死に働き、日々の暮らしの中に小さな喜びを見出す、たくましい人々の「真実の音」だった。
私は、その音の洪水に包まれながら、目をキラキラと輝かせていた。
「レオンハルト、見て。あの布地、とても綺麗」
「…はい」
「まあ、あちらには珍しい香辛料が。どんな味がするのかしら」
「…さあ」
私の弾むような声に、レオンハルトは相変わらず硬い返事を返すだけだ。しかし、彼の全身からは、周囲への警戒を一切怠らない、張り詰めた空気が放たれている。
私のはしゃぎっぷりが、彼の任務をより困難にしていることは分かっていた。申し訳ないとは思う。けれど、この抑えきれない高揚感を、どうすることもできなかった。
私は、生まれて初めて、「普通の少女」になっていた。
貴族の令嬢でも、偽りの聖女でも、公爵の婚約者でもない。ただ、目の前の光景に心を躍らせる、一人の少女として。
私は、色鮮やかな野菜が山と積まれた露店の前で、足を止めた。艶のある赤いトマト、濃い緑色の葉物野菜、そして太陽の色をした大きなカボチャ。そのどれもが、生命力に満ちて輝いている。
「すごい…」
公爵邸の厨房に運び込まれる食材は、どれも完璧に選別された一級品だ。けれど、こうして土の匂いを残したまま無造作に積まれた野菜たちには、それとは違う、たくましい魅力があった。
「お嬢ちゃん、見る目があるねえ!うちの野菜は、王都一だよ!」
店の主である、人の良さそうなおばさんが、しわくちゃの笑顔で私に話しかけてきた。
「何か、買って行かれるかい?」
「え…」
私は、戸惑った。買い物をした経験など、一度もない。お金を持ち歩いたことさえないのだ。
私の様子を見て、全てを察したレオンハルトが、一歩前に出た。
「すまないが、我々は見ているだけだ」
低い声で、彼はきっぱりと言った。その声には、馴れ馴れしく話しかけるなという、明確な拒絶が含まれている。
おばさんは、彼の放つ威圧感に一瞬たじろいだが、すぐに気を取り直してにこりと笑った。
「そうかい。まあ、見るだけでも楽しんでっておくれよ」
その言葉に、嘘の音はなかった。
私は、レオンハルトの袖を、そっと引いた。
「あの、レオンハルト。少しだけ、買ってもいいかしら」
「…アリーシャ様。そのようなこと、なさらずとも…」
「お願い。自分で、選んでみたいの」
私が真剣な目で見つめると、彼はしばらく逡巡していたが、やがて深いため息をつくと、懐から小さな革袋を取り出した。
「…お好きなものを」
その許可に、私の顔はぱあっと輝いた。
私は、おばさんと相談しながら、夢中になって野菜を選んだ。どれも美味しそうで、なかなか決められない。その様子を、レオンハルトは少し離れた場所から、腕を組んで見守っていた。
彼の心から聞こえてくる音は、相変わらずの警戒心と、そしてほんの少しの呆れが混じった、複雑な響きだった。
しかし、その音の奥底に、今まで聞こえなかった、ごく微かな、温かい響きが混じり始めていることに、私は気づいていた。
それは、まるで氷が解け始める時に聞こえる、小さな水音のような、優しい音だった。
野菜を買い終えた私は、小さな包みを大事に抱え、再び市場の喧騒の中を歩き始めた。
次に私の足を止めたのは、素朴な木彫りの人形を売る、小さな露店だった。棚には、動物や兵士、踊り子など、様々な人形が並べられている。そのどれもが、作りは粗いが、不思議な温かみを持っていた。
私は、その中の一つの人形に、目を奪われた。
それは、銀色の髪を持ち、紫色の瞳を描き込まれた、小さな少女の人形だった。
まるで、昔の私を見ているかのようだった。
まだ、自分の能力が呪いだと知らず、ただ世界を不思議な目で見つめていた、幼い頃の私。
「…可愛い」
思わず、呟きが漏れた。
「お嬢ちゃん、それが気に入ったのかい?」
店の主である、穏やかな目をした老人が、優しい声で話しかけてきた。
「これはね、幸運を呼ぶと言われているんだよ。銀の髪の妖精の人形さ」
その言葉に、嘘はなかった。彼は、心からそう信じている。
私は、その人形をそっと手に取った。滑らかな木の感触が、手のひらに心地よい。
「…これを、ください」
私が言うと、レオンハルトが再び黙って代金を支払ってくれた。
私は、幸運の妖精の人形を、先ほどの野菜の包みと並べて、大切に抱きしめた。
それは、私が自分の意思で手に入れた、生まれて初めての「宝物」だった。
市場の散策は、あっという間に時間が過ぎていった。
私は、普通の少女のように笑い、驚き、そして心をときめかせた。レオンハルトと騎士たちは、そんな私を常に完璧な距離で守り続けてくれた。
太陽が、空高く昇りきる頃。
「アリーシャ様。そろそろ、お戻りの時間です」
レオンハルトが、静かに告げた。
「…そうね」
私は、少しだけ名残惜しい気持ちになりながらも、素直に頷いた。
束の間の陽だまり。夢のような時間。
それでも、今の私には、帰るべき場所がある。
私を待っていてくれる人がいる。
その事実が、私の心を温かく満たしていた。
私たちは、市場の出口へと向かって、人混みの中を歩き始めた。
私が買った野菜と、幸運の妖精の人形。
その二つのささやかな宝物を胸に抱きながら。
私は、この日の穏やかな幸福が、永遠に続くかのように錯覚していた。
しかし、その幸福は、一本の薄暗い路地の入り口で、唐突に終わりを告げることになる。
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