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第三十八話 路地裏の凶刃
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市場の喧騒が、嘘のように遠のいていく。
私の耳が捉えたのは、人々の活気ある声ではない。雑踏の音に紛れて、しかし明確にこちらへと向けられる、複数の人間の殺意。それは、金属が擦れるような、冷たく鋭い不協和音だった。
「レオンハルト!」
私の絶叫と、背後で空気を切り裂く鋭い音が重なったのは、ほぼ同時だった。
振り返ったレオンハルトの目に、背後から迫る凶刃が映る。咄嗟に体を捻った彼の肩を、短剣が浅く切り裂いた。赤い血が、彼の服をじわりと濡らす。
「ぐっ…!」
レオンハ-ルトは呻き声を上げながらも、瞬時に腰の剣を抜き放った。
その時にはもう、私たちは完全に包囲されていた。
市場の喧騒から一本だけ外れた、薄暗い路地裏。いつの間にか、私たちはそこへ巧みに誘導されていたのだ。
私たちの前後を、黒い頭巾で顔を隠した五人の男たちが塞いでいる。その手には、鈍い光を放つ短剣や棍棒が握られていた。
「アリーシャ様!こちらへ!」
レオンハ-ルトは、私を庇うように背後へ押しやると、他の騎士たちと共に円陣を組んだ。騎士たちの顔には、緊張と、そして裏をかかれたことへの屈辱の色が浮かんでいる。
男たちは、何も言わなかった。
ただ、その頭巾の下の瞳だけが、獣のような冷たい光を放ち、獲物である私をじっと見据えている。
彼らの目的は、私だ。
その事実を悟った瞬間、私の全身から血の気が引いた。足が震え、その場にへたり込みそうになるのを、必死で堪える。
私が買った、野菜の包みと木の人形が、震える手から滑り落ちた。
カラン、と乾いた音を立てて、幸運の妖精の人形が石畳の上に転がる。その紫色の瞳が、まるで今の私の絶望を映しているかのように、空虚にこちらを見上げていた。
「…何者だ!」
レオンハルトが、低い声で問うた。
しかし、答えはない。
代わりに、男たちの一人が、無言で棍棒を振り上げ、騎士の一人へと殴りかかった。
キンッ!と甲高い金属音が響き渡る。
騎士が剣でそれを受け止めたのを合図に、戦闘の火蓋は切って落とされた。
路地裏は、一瞬にして怒号と剣戟の音に満たされた。
レオンハルトと騎士たちは、屈強だった。公爵家に仕える、選りすぐりの精鋭だ。一人一人の技量は、おそらく襲撃者たちを遥かに上回っている。
しかし、敵の目的は、騎士たちを倒すことではなかった。
彼らは、巧みに連携し、騎士たちの注意を引きつけながら、その包囲網の隙間を縫うようにして、私へと迫ろうとしていた。
一人が、騎士の剣を棍棒で受け止める。その隙に、別の二人が、壁を蹴ってその上を飛び越え、私の頭上から襲いかかってきた。
「アリーシャ様!」
騎士の一人が叫び、私を突き飛ばす。
私は、石畳の上に無様に転がった。すぐ側を、敵の短剣が空気を切り裂いて通り過ぎる。もし、騎士の助けがなければ、今頃私の胸には、その刃が突き刺さっていた。
「くそっ…!」
レオンハルトが、忌々しげに舌打ちをした。
敵は、私たちの警護体制を完全に把握している。騎士の数、それぞれの技量、そして私の存在が、彼らの動きをどう制限するかまで。これは、素人の襲撃ではない。綿密に計画された、プロの仕事だ。
一人、また一人と、騎士たちが傷を負っていく。致命傷ではない。しかし、確実に動きを削がれ、包囲網は少しずつ、しかし確実に狭まっていった。
私は、ただ震えていることしかできなかった。
無力感。
私は、守られているだけだ。私のせいで、屈強な騎士たちが傷ついていく。私がここにいること自体が、彼らにとって最大の足枷なのだ。
「…私が、いなければ」
声にならない呟きが、唇から漏れた。
その時だった。
騎士の一人が、足元の瓦礫に躓き、一瞬だけ体勢を崩した。
敵は、その千載一遇の好機を見逃さなかった。
一人の男が、獣のような速さでその騎士の横をすり抜け、一直線に私へと向かってくる。
その目に宿る、冷たい殺意。
時間が、引き伸ばされたようにゆっくりと動く。
私と男の間には、もう誰もいない。
レオンハルトの、絶望に満ちた叫び声が、遠くで聞こえた。
「アリーシャ様ァァァッ!」
男が、短剣を振りかぶる。
その刃が、鈍い光を放ちながら、私の喉元へと迫る。
もう、駄目だ。
死ぬ。
私が、そう覚悟して、強く目を閉じた、その刹那だった。
ゴォッ、と。
突風が、路地裏を吹き抜けた。
それは、ただの風ではなかった。圧倒的な質量と速度を持った、何かが移動したことによって生じた、衝撃波のような風圧。
そして、私の目の前で、信じられない光景が繰り広げられた。
私に斬りかかろうとしていた男が、まるで巨大な壁にでも激突したかのように、くの字に折れ曲がり、悲鳴を上げる間もなく、路地裏の奥の壁まで吹き飛ばされたのだ。
ゴシャッ、という鈍い音が響き、男は壁に叩きつけられ、そのまま動かなくなった。
何が、起きたのか。
私が、呆然と目を見開くと、そこには、一つの人影が立っていた。
私の前に、まるで古城のガーゴイルのように。
漆黒の、影。
その人物は、いつからそこにいたのか。全く分からなかった。気配も、音も、何も感じなかった。
ただ、気づいた時には、そこにいた。
その人物は、ゆっくりと、こちらを振り返った。
逆光の中、その顔の輪郭が、ぼんやりと浮かび上がる。
彫刻のように整った、無表情。
そして、闇の中で、冷たく輝く、二つの金色の光。
「…公爵、閣下」
レオンハルトの、掠れた声が、震えていた。
そうだ。
この圧倒的な存在感。この絶対的な静寂。
間違いない。
ゼノン・アーク・エルヴァイン。
彼は、そこに立っていた。
その手には、剣さえ握られていない。
ただ、そこに立っているだけ。
しかし、その全身から放たれる威圧感は、路地裏の空気を支配し、残りの襲撃者たちの動きを、完全に凍りつかせていた。
彼は、どうしてここに。
その問いが、私の頭をよぎる。
しかし、そんなことは、もうどうでもよかった。
ただ、一つの事実だけが、私の絶望に凍てついた心を、確かな安堵で満たしていく。
間に合った。
私の、静寂の騎士が。
この地獄の底に、光を連れて、現れたのだ。
私の耳が捉えたのは、人々の活気ある声ではない。雑踏の音に紛れて、しかし明確にこちらへと向けられる、複数の人間の殺意。それは、金属が擦れるような、冷たく鋭い不協和音だった。
「レオンハルト!」
私の絶叫と、背後で空気を切り裂く鋭い音が重なったのは、ほぼ同時だった。
振り返ったレオンハルトの目に、背後から迫る凶刃が映る。咄嗟に体を捻った彼の肩を、短剣が浅く切り裂いた。赤い血が、彼の服をじわりと濡らす。
「ぐっ…!」
レオンハ-ルトは呻き声を上げながらも、瞬時に腰の剣を抜き放った。
その時にはもう、私たちは完全に包囲されていた。
市場の喧騒から一本だけ外れた、薄暗い路地裏。いつの間にか、私たちはそこへ巧みに誘導されていたのだ。
私たちの前後を、黒い頭巾で顔を隠した五人の男たちが塞いでいる。その手には、鈍い光を放つ短剣や棍棒が握られていた。
「アリーシャ様!こちらへ!」
レオンハ-ルトは、私を庇うように背後へ押しやると、他の騎士たちと共に円陣を組んだ。騎士たちの顔には、緊張と、そして裏をかかれたことへの屈辱の色が浮かんでいる。
男たちは、何も言わなかった。
ただ、その頭巾の下の瞳だけが、獣のような冷たい光を放ち、獲物である私をじっと見据えている。
彼らの目的は、私だ。
その事実を悟った瞬間、私の全身から血の気が引いた。足が震え、その場にへたり込みそうになるのを、必死で堪える。
私が買った、野菜の包みと木の人形が、震える手から滑り落ちた。
カラン、と乾いた音を立てて、幸運の妖精の人形が石畳の上に転がる。その紫色の瞳が、まるで今の私の絶望を映しているかのように、空虚にこちらを見上げていた。
「…何者だ!」
レオンハルトが、低い声で問うた。
しかし、答えはない。
代わりに、男たちの一人が、無言で棍棒を振り上げ、騎士の一人へと殴りかかった。
キンッ!と甲高い金属音が響き渡る。
騎士が剣でそれを受け止めたのを合図に、戦闘の火蓋は切って落とされた。
路地裏は、一瞬にして怒号と剣戟の音に満たされた。
レオンハルトと騎士たちは、屈強だった。公爵家に仕える、選りすぐりの精鋭だ。一人一人の技量は、おそらく襲撃者たちを遥かに上回っている。
しかし、敵の目的は、騎士たちを倒すことではなかった。
彼らは、巧みに連携し、騎士たちの注意を引きつけながら、その包囲網の隙間を縫うようにして、私へと迫ろうとしていた。
一人が、騎士の剣を棍棒で受け止める。その隙に、別の二人が、壁を蹴ってその上を飛び越え、私の頭上から襲いかかってきた。
「アリーシャ様!」
騎士の一人が叫び、私を突き飛ばす。
私は、石畳の上に無様に転がった。すぐ側を、敵の短剣が空気を切り裂いて通り過ぎる。もし、騎士の助けがなければ、今頃私の胸には、その刃が突き刺さっていた。
「くそっ…!」
レオンハルトが、忌々しげに舌打ちをした。
敵は、私たちの警護体制を完全に把握している。騎士の数、それぞれの技量、そして私の存在が、彼らの動きをどう制限するかまで。これは、素人の襲撃ではない。綿密に計画された、プロの仕事だ。
一人、また一人と、騎士たちが傷を負っていく。致命傷ではない。しかし、確実に動きを削がれ、包囲網は少しずつ、しかし確実に狭まっていった。
私は、ただ震えていることしかできなかった。
無力感。
私は、守られているだけだ。私のせいで、屈強な騎士たちが傷ついていく。私がここにいること自体が、彼らにとって最大の足枷なのだ。
「…私が、いなければ」
声にならない呟きが、唇から漏れた。
その時だった。
騎士の一人が、足元の瓦礫に躓き、一瞬だけ体勢を崩した。
敵は、その千載一遇の好機を見逃さなかった。
一人の男が、獣のような速さでその騎士の横をすり抜け、一直線に私へと向かってくる。
その目に宿る、冷たい殺意。
時間が、引き伸ばされたようにゆっくりと動く。
私と男の間には、もう誰もいない。
レオンハルトの、絶望に満ちた叫び声が、遠くで聞こえた。
「アリーシャ様ァァァッ!」
男が、短剣を振りかぶる。
その刃が、鈍い光を放ちながら、私の喉元へと迫る。
もう、駄目だ。
死ぬ。
私が、そう覚悟して、強く目を閉じた、その刹那だった。
ゴォッ、と。
突風が、路地裏を吹き抜けた。
それは、ただの風ではなかった。圧倒的な質量と速度を持った、何かが移動したことによって生じた、衝撃波のような風圧。
そして、私の目の前で、信じられない光景が繰り広げられた。
私に斬りかかろうとしていた男が、まるで巨大な壁にでも激突したかのように、くの字に折れ曲がり、悲鳴を上げる間もなく、路地裏の奥の壁まで吹き飛ばされたのだ。
ゴシャッ、という鈍い音が響き、男は壁に叩きつけられ、そのまま動かなくなった。
何が、起きたのか。
私が、呆然と目を見開くと、そこには、一つの人影が立っていた。
私の前に、まるで古城のガーゴイルのように。
漆黒の、影。
その人物は、いつからそこにいたのか。全く分からなかった。気配も、音も、何も感じなかった。
ただ、気づいた時には、そこにいた。
その人物は、ゆっくりと、こちらを振り返った。
逆光の中、その顔の輪郭が、ぼんやりと浮かび上がる。
彫刻のように整った、無表情。
そして、闇の中で、冷たく輝く、二つの金色の光。
「…公爵、閣下」
レオンハルトの、掠れた声が、震えていた。
そうだ。
この圧倒的な存在感。この絶対的な静寂。
間違いない。
ゼノン・アーク・エルヴァイン。
彼は、そこに立っていた。
その手には、剣さえ握られていない。
ただ、そこに立っているだけ。
しかし、その全身から放たれる威圧感は、路地裏の空気を支配し、残りの襲撃者たちの動きを、完全に凍りつかせていた。
彼は、どうしてここに。
その問いが、私の頭をよぎる。
しかし、そんなことは、もうどうでもよかった。
ただ、一つの事実だけが、私の絶望に凍てついた心を、確かな安堵で満たしていく。
間に合った。
私の、静寂の騎士が。
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