偽りの聖女と呪われた公爵様〜嘘が聞こえる私が、心を閉ざした彼と結ぶ偽りの婚約〜

夏見ナイ

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第三十九話 静寂なる圧殺

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路地裏の時間は、凍りついていた。
私の前に立ちはだかる、漆黒の影。ゼノン・エルヴァイン公爵。彼の登場は、この場の全ての物理法則を捻じ曲げ、空気を鉛のように重く変えてしまった。
残された四人の襲撃者たちは、まるで蛇に睨まれた蛙のように、身動き一つできずにいる。彼らの心から発せられる不協和音は、先ほどまでの冷酷な殺意から、純粋な恐怖と絶望の響きへと変わっていた。
彼らは理解したのだ。
自分たちが、決して手を出してはならない、領域を侵してしまったことを。
「…閣下。なぜ、ここに…」
肩から血を流しながらも、レオンハルトが呆然と呟いた。
ゼノン公爵は、彼に答えることはなかった。その金色の瞳は、ただ目の前の敵だけを、静かに見据えている。
彼は、ゆっくりと一歩、前に踏み出した。
カツリ、と長靴が石畳を打つ、硬質な音。
その音だけが、この凍りついた世界で唯一の現実音だった。
その一歩に、襲撃者たちの肩がびくりと震える。
一人が、恐怖に耐えきれなくなった。
「う、うわああああっ!」
甲高い絶叫と共に、彼は私に背を向け、路地の入り口へと逃げ出そうとした。
しかし、その背中が完全にこちらを向くよりも早く。
ゼノン公爵の姿が、その場から掻き消えた。
いや、違う。
私の目では捉えきれないほどの速度で、彼が動いたのだ。
残像さえ見えなかった。ただ、気づいた時には、彼は逃げ出そうとした男の背後に立っていた。
そして、その首筋に、手刀を振り下ろす。
ゴッ、という鈍い音。
男は、悲鳴を上げる間もなく、崩れるようにして石畳の上に倒れ伏した。
「…一人目」
彼の口から、低く、感情のない声が漏れた。
それは、まるで数を数えるだけの、単調な作業のような響きだった。
残るは、三人。
彼らは、互いに目配せすると、同時に動いた。
一人が、ゼノン公爵の正面から短剣を突き出す。残りの二人は、左右から挟み撃ちにするように、彼の死角を狙って襲いかかった。
それは、熟練した者たちによる、完璧な三位一体の攻撃。
しかし、ゼノン公爵は、動かなかった。
彼は、ただそこに立っているだけ。
三方向から迫る刃が、彼の体に突き刺さる、その寸前。
彼の体が、微かに揺らめいた。
次の瞬間、三人の襲撃者たちが、同時に宙を舞っていた。
何が起きたのか、私には全く理解できなかった。
彼は、最小限の動きで、正面の男の突きをいなし、その勢いを利用して男の体を投げ飛ばす。同時に、左右から迫っていた男たちの手首を掴み、彼らの体を互いに激突させたのだ。
その全てが、一瞬の、流れるような動きの中で行われた。
まるで、精巧に振り付けられた、死の舞踏。
ドサッ、という鈍い音を立てて、三人の男たちが地面に叩きつけられる。彼らは呻き声を上げ、もはや立ち上がる力も残っていないようだった。
戦闘は、終わった。
あまりにも、一方的な圧殺。
ゼノン公爵は、剣さえ抜いていない。ただ、その圧倒的な体術だけで、プロの暗殺者集団を、赤子の手をひねるように無力化してしまったのだ。
王国最強の騎士。
その称号が、決して伊達ではないことを、私は今、骨の髄まで思い知らされていた。
路地裏に、再び静寂が戻る。
聞こえるのは、倒れた男たちの苦悶の呻き声と、負傷した騎士たちの荒い呼吸だけ。
ゼノン公爵は、倒した男たちを一瞥すると、興味を失ったように彼らに背を向けた。そして、ゆっくりとした足取りで、私の元へと歩み寄ってくる。
私は、まだ石畳の上に座り込んだまま、動けずにいた。
恐怖と、安堵と、そして目の前で繰り広げられた圧倒的な力の光景。その全てが、私の思考を麻痺させていた。
彼は、私の目の前で足を止めると、その大きな影で、私をすっぽりと覆った。
そして、無言で、手を差し伸べる。
黒い手袋に包まれた、大きな手。
私は、吸い寄せられるように、その手を取った。
彼は、力強い動きで、私を立ち上がらせる。その瞳は、私の顔を、そして私の体のどこにも傷がないことを、確認するように、じっと見つめていた。
その視線に、私はなぜか、叱られているような気分になった。
「…申し訳、ございません」
か細い声で、私は謝罪した。
彼が与えてくれた、束の間の休息。それを、私は自らの軽率さで、台無しにしてしまった。
彼は、何も答えなかった。
ただ、私を立たせると、すぐに踵を返し、レオンハルトの方へと歩いていく。
「レオンハルト」
「…はっ!申し訳、ございません、閣下!このレオンハルト、万死に値します!」
レオンハルトは、傷ついた肩を押さえながら、その場に膝をつき、深く頭を垂れた。彼の声は、屈辱と自責の念で震えている。
主人が守るべき対象を、自らの目の前で危険に晒してしまった。騎士として、これ以上の失態はない。
「…言い訳は、後で聞く」
ゼノン公爵の声は、氷のように冷たかった。
「この者たちを捕らえ、地下牢へ運べ。一人たりとも、死なせるな。口を割らせるまでは、な」
「御意!」
レオンハルトは、はっと顔を上げると、他の騎士たちに素早く指示を飛ばし始めた。
私は、その光景を、ただ呆然と眺めていた。
助かった。
その安堵感よりも、今は、別の感情が私の心を支配していた。
彼の、怒り。
それは、私に向けられたものではない。レオンハルトに向けられたものでもない。
この襲撃を計画し、実行させた、顔の見えない敵へ。
そして、私を危険に晒した、この状況そのものへ。
彼の纏う静寂は、今、凍てつくような怒りの色を帯びて、路地裏の空気を支配していた。
彼は、怒っている。
私のために。
その事実が、私の胸の奥を、ちりちりと焦がすように、熱くさせた。
それは、痛みであり、そして、生まれて初めて感じる、誰かに守られているという、確かな実感だった。
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