偽りの聖女と呪われた公爵様〜嘘が聞こえる私が、心を閉ざした彼と結ぶ偽りの婚約〜

夏見ナイ

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第四十話 彼の血、私の恐怖

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路地裏は、戦闘の後の生々しい痕跡と、張り詰めた空気だけを残して、静まり返っていた。
レオンハルトと騎士たちが、気絶した襲撃者たちを手際よく拘束していく。その動きは、先ほどまでの失態を取り戻そうとするかのように、無駄がなく、迅速だった。
私は、壁際に立ったまま、その光景をただ呆然と眺めていた。
まだ、足の震えが止まらない。
死の恐怖が、冷たい粘液のように、私の体にまとわりついて離れないのだ。
ふと、視線をゼノン公爵へと向けた。
彼は、腕を組み、騎士たちの作業を静かに監督している。その横顔は、相変わらずの氷の仮面だ。
しかし、私は気づいてしまった。
彼の左腕。
黒い軽装鎧に覆われた、その腕の関節部分から、一筋、赤い液体がゆっくりと流れ落ちているのを。
血。
彼の、血。
「…閣下」
私の声は、自分でも驚くほど掠れていた。
彼は、私の声に気づき、ゆっくりとこちらを振り返る。
「どうした」
「その、腕…」
私は、震える指で彼の左腕を指し示した。
彼は、自分の腕を一瞥すると、まるで些細なことのように、気にも留めない様子で言った。
「ああ。問題ない。掠り傷だ」
問題ない、わけがない。
鎧の隙間から流れ出る血は、彼の服の袖を、じわりじわりと黒く濡らしていく。
おそらく、私が気づかなかっただけで、彼は先ほどの戦闘の中で、傷を負っていたのだ。
襲撃者の一人を無力化する際か、あるいは、私を庇った、あの瞬間に。
彼の血を見た瞬間、私の頭の中で、何かがぷつりと切れた。
先ほどまで私を支配していた、死への恐怖が、別の、もっと強烈な感情に塗り替えられていく。
それは、私自身が傷つくことよりも、ずっとずっと恐ろしい感情だった。
大切な人が、私のせいで傷つくことへの、絶望的な恐怖。
「…私の、せいで」
声にならない声が、唇から漏れた。
そうだ。彼が傷を負ったのは、私のせいだ。私が軽率に市場へ行きたいなどと言わなければ。私が、敵の罠にやすやすと掛からなければ。
彼が、傷つくことなど、なかったのだ。
「…違う」
彼が、静かに言った。
「これは、俺の不覚だ。お前のせいではない」
その言葉は、私を慰めるためのものではなかった。ただ、事実を告げているだけ。
しかし、その言葉は、今の私の耳には届かなかった。
彼の血。
その一滴一滴が、まるで私の命が流れ出しているかのように、私の心を苛んだ。
涙が、視界を滲ませる。
なぜだろう。
今まで、自分がどんなに酷い目に遭っても、決して流れなかった涙が。
彼の、たった一筋の血を前にして、こんなにも呆気なく溢れ出してくるなんて。
私は、何を考えていたのだろう。
この人は、無敵ではない。王国最強の騎士であっても、血を流す、生身の人間なのだ。
その当たり前の事実を、私は今まで、理解していなかったのかもしれない。
「アリーシャ」
彼が、私の名を呼んだ。
その声に、ほんのわずかな、戸惑いの響きが混じっていた。
彼は、私の涙を見て、どうしていいか分からないのかもしれない。
私は、溢れ出す涙を手の甲で乱暴に拭うと、彼に向かって、ふらふらと歩み寄った。
そして、自分でも信じられないような行動に出た。
私は、彼の傷ついた左腕を、そっと、両手で包み込むように、触れたのだ。
「…!」
彼が、息を呑む気配がした。
黒い革の手袋越しに、彼の腕の、硬い筋肉の感触が伝わってくる。そして、生々しい、鉄の匂いと、微かな温かみ。
これが、彼の血の温かさ。
「…何を、している」
彼の声が、すぐ頭上から聞こえる。
私は、顔を上げることができなかった。ただ、彼の腕を包む手に、力を込める。
「…痛い、ですか」
震える声で、私は尋ねた。
彼は、答えなかった。
ただ、彼の周りの静寂が、より一層深くなったように感じられた。
レオンハルトや、他の騎士たちが、息を殺して私たちを見守っているのが、気配で分かる。
私は、何を馬鹿なことをしているのだろう。
彼の傷に、私が触れたところで、何かが変わるわけではないのに。
それでも、私は、手を離すことができなかった。
まるで、そうすることで、彼の痛みを、ほんの少しでも、私が引き受けられるかのように。
どれくらいの時間が、そうしていただろうか。
やて、彼は、傷ついていない方の右手で、私の頭を、そっと撫でた。
その手は、大きく、そして不器用だった。
しかし、そのぎこちない手つきから、言葉にならない、優しい何かが、私に伝わってくるようだった。
「…戻るぞ」
彼は、静かに言った。
「手当ては、屋敷でやればいい」
その言葉に、私はようやく、彼の腕を包んでいた手を、ゆっくりと離した。
私の手袋には、彼の血が、赤い染みとなって、小さく付着していた。
その小さな染みが、まるで私の心に押された烙印のように、熱く、そして重く感じられた。
市場で手に入れた、ささやかな宝物。野菜と、幸運の妖精の人形は、もう石畳の上に転がったままだった。
束の間の陽だまりは、終わった。
そして、私は知ってしまった。
この静寂の城の主が傷つくことが、私にとって、世界の終わりを意味するほどの恐怖なのだということを。
その気づきは、私と彼の関係を、もう引き返すことのできない場所へと、静かに、しかし確実に、導いていくのだった。
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