偽りの聖女と呪われた公爵様〜嘘が聞こえる私が、心を閉ざした彼と結ぶ偽りの婚約〜

夏見ナイ

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第五十七話 古代魔術師の影

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禁書庫の静寂は、もはや安らぎではなかった。
私が見つけた小さな巻物。その黒い革の装丁から放たれる禍々しい気配が、この空間の空気を刃物のように鋭く、そして冷たく変えていた。
ゼノン公爵は、その巻物を慎重に受け取ると、近くの閲覧机の上に置いた。彼の横顔は今まで見たこともないほどに硬く、その金色の瞳はまるで宿敵を前にしたかのように危険な光を宿している。
「…間違いない。これは、古代魔術師が使っていた紋様だ」
彼の声は低く、そして重かった。
「エルヴァイン家に伝わる記録の中でも、最も忌むべき存在として記されている、影を操る一族」
彼は震える私の視線を受け止めると、静かに、しかしはっきりとその名を告げた。
「『ノックス一族』。我が祖先に、この呪いをかけた者たちの名だ」
ノックス一族。
その名が、呪いの言葉となって私の心に深く刻み込まれた。
彼は短剣の先を使い、巻物を固く縛っていた革紐を慎重に断ち切った。
くるりと解かれた羊皮紙が、机の上に広がる。
そこに記されていたのは、おびただしい数の見たこともない文字だった。それは蛇がのたくったような、あるいは鋭い爪で引っ掻いたような、不吉で力強い筆跡。
「…古代魔術語か」
ゼノン公爵が忌々しげに呟いた。
「ほとんどがすでに解読不能となった言語だ。これでは…」
彼の言葉が絶望に途切れかける。
しかし、私は諦めなかった。
「わたくしに、触れさせてください」
「何?」
「文字は読めません。ですが、この羊皮紙に込められた書き手の『思い』なら、あるいは音として感じ取れるかもしれません」
私の突拍子もない申し出に、彼は一瞬だけ目を見開いた。しかし、すぐにその意図を理解したのだろう。彼は黙って私に場所を譲った。
私は深呼吸を一つした。そして、おそるおそるその禍々しい羊皮紙の上に指先を滑らせる。
その瞬間。
私の頭の中に、轟音と共に漆黒の奔流が流れ込んできた。
『ギィィィィィン…!』
それは、嘘の不協和音などではなかった。
もっと根源的で混沌とした、純粋な負の感情の塊。
嫉妬。憎悪。絶望。そして、エルヴァインの血への底なしの執着。
「…うっ…!」
あまりの衝撃に、私は思わず声を上げその場に崩れ落ちそうになった。
「アリーシャ!」
彼が咄嗟に私の肩を支える。その腕の力強さが、私を現実の世界へと引き戻してくれた。
「大丈夫か」
「…はい。なんとか」
私は荒い呼吸を繰り返しながら、必死で立ち上がった。
「…聞こえました。この呪いをかけた者の声が」
「声?」
「はい。それは深い絶望と、そして歪んだ愛情でした。エルヴァインの持つ大いなる力を自分たちだけのものにしたかった。しかし、それが叶わなかった。だから呪いをかけたのです」
私は目を閉じ、先ほど感じ取った音の残響を必死で言葉にしていく。
「『光は闇を渇望する。愛という光が強ければ強いほど、その代償として生まれる闇もまた深くなる』…そんな声が」
私の言葉を彼は息を殺して聞いていた。
「…代償」
彼がその言葉を繰り返す。
私たちは再び羊皮紙に視線を落とした。
私の感じ取った音のイメージを頼りに、ゼノン公爵が彼の持つ古代語の知識と照らし合わせ、難解な文字を一つずつ解読していく。
『エルヴァインの血に宿る大いなる力』
『愛という鍵』
『封印の解放』
『等価なる代償』
断片的な言葉が、少しずつ意味を成し始めていく。
これはただの呪いではない。
エルヴァイン家に元々宿っていた何か強大な力を、意図的に封じ込めるための古代の魔術。そして、その封印を解く鍵が「愛」であり、解放には何らかの「代償」が伴う。
歴代当主たちが愛する女性を失ってきたのは、その代償だったというのか。
「…やはり、俺のそばにいては、お前は…」
彼が苦しげに呟いた。その心の弦が再び軋む音がする。
しかし、私はその言葉を強く遮った。
「いいえ、違います。まだ全てが分かったわけではありません。代償とは、必ずしも命とは限らないはずです。それに、この呪いには何か抜け道があるような気がするのです」
私の耳がそう告げていた。
あの負の感情の奔流の、その奥底にほんの僅かな、しかし確かな別の響きがあった。
それは後悔にも似た、微かな音の揺らぎ。
呪いをかけた魔術師自身が、その術が完璧ではないことを知っていたのではないか。
「…続けよう」
私の言葉に、彼は力なく頷いた。
私たちはその夜、禁書庫を出ることはなかった。
差し入れのハーブティーはとっくに冷めきり、魔法灯の頼りない光だけが書物の山に埋もれる私たちの姿をぼんやりと照らし出している。
時間は感覚を失っていた。
ただ、二人で一つの目的に向かって突き進んでいく。
その行為だけが私たちを支えていた。
私たちはノックス一族に関する他の書物を探し始めた。
そして、ゼノン公爵が埃をかぶった分厚い貴族名鑑の中から、一枚の古びた羊皮紙を見つけ出した。
それは他のページとは明らかに違う紙質で、本の間に挟み込まれるようにして隠されていたものだった。
彼はその羊皮紙を魔法灯の光にかざす。
そこに描かれていたのは、複雑に枝分かれした一つの家系図。
そして、その頂点に記されていたのは紛れもない、あの禍々しい紋様。
ノックス一族の家系図だ。
「…見つけたぞ」
彼の声が興奮に震えていた。
彼はその家系図を指でゆっくりと下へと辿っていく。
何世代にもわたる一族の歴史。
そして、その指が家系図の最も新しい部分、今から二十数年ほど前の記録の上でぴたりと止まった。
彼の動きが完全に停止する。
その金色の瞳が、信じられないものを見るように大きく見開かれた。
「…まさか」
彼の唇から掠れた驚愕の呟きが漏れた。
「そんな、馬鹿なことが…」
私は何が起きたのか分からず、彼の見つめる羊皮紙をその肩越しに覗き込んだ。
そして、私もまたそこに記された名前に言葉を失った。
ノックス一族の最後の末裔。
その娘が嫁いだ先の貴族家の名前。
そこには、はっきりとこう記されていたのだ。
『アルフォンス第二王子が母君の、ご実家』である、と。
禁書庫の静寂が、私たちの驚愕を音もなく飲み込んでいった。
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