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第59話 帝国へ
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エルドラド王国の王都を一台の壮麗な馬車が出発した。
クラインフェルト家の紋章と王家の旗を掲げたその馬車は、我が国の威信を懸けた外交使節団のものである。その行き先は北の大国、ガルニア帝国。
そしてその馬車の中には、俺の平穏な未来を乗せた棺桶がゆっくりと帝国という名の墓場へ向かっているような、絶望的な空気が漂っていた。いや、漂っているのは俺の心の中だけで、他のメンバーはやる気に満ち溢れているのだが。
「アレン様! これが帝国との国境線ですか! なんだか空気が違いますね!」
窓の外を眺めながら、カイルが興奮した声で言った。騎士団の制服に身を包んだ彼は、初めての国外任務に心を躍らせているようだった。
「ええ。魔力の密度が明らかに王国側とは異なります。地脈そのものが違うのでしょう。非常に興味深い」
ルナが手にした魔力測定器の数値を睨みながら、冷静に分析する。
「空気が乾燥しているわ。肌に良くないわね。アレン、貴方もこれを使いなさい」
セレスティーナがどこからか取り出した高級そうな保湿クリームを俺に差し出してくる。その気遣いは有り難いが、俺の肌より先に胃の粘膜をどうにかしてほしかった。
俺はそんな仲間たちのやり取りに、完璧な宰相代理の笑みを浮かべて頷きながら、内心では深いため息をついていた。
護衛がいるのは心強い。専門家がいるのも助かる。
だがこのメンバー構成は、精神的な負担が大きすぎる。
四方八方から向けられる絶対的な信頼と期待。それはもはや心地よいものではなく、俺の首を絞める絹のロープのようだった。
「アレン様……。お茶が入りましたわ。お疲れでしょうから、少しでもお休みください」
リリアーナが揺れる馬車の中とは思えないほど完璧な手つきで、紅茶を淹れてくれた。その所作はもはや聖女というより、熟練のメイドのそれに近い。彼女は夏休みの一件以来、俺の世話を焼くことに自らの存在意義を見出してしまっているようだった。
その紅茶を一口飲む。胃にわずかな温かさが染みた。
国境を越えると風景は一変した。
豊かな緑に覆われていた王国の土地とは対照的に、帝国のそれはどこか荒涼として厳しかった。広大な平原が地平線の果てまで続き、その上を吹き抜ける風は鉄の匂いがするようだった。
道は驚くほど整備されていた。軍隊が迅速に移動できるように、という軍事国家ならではの発想だろう。
やがて俺たちの馬車は帝国の騎士団と合流した。
黒鋼の、機能美だけを追求したような鎧に身を包んだ彼らは、一糸乱れぬ動きで俺たちの馬車を護衛し始めた。その動きには一切の無駄がない。王国の騎士たちのような華やかさはないが、その練度は明らかに帝国の方が上だった。
「……すごい。一分の隙もない」
カイルが尊敬と、わずかな対抗心を滲ませた声で呟いた。
俺はそんな彼らの姿を静かに観察しながら、これから始まる交渉の厳しさを改めて実感していた。
数日後、俺たちはついに帝国の首都アイゼンガルドに到着した。
その威容は王都とは全く異なる形で、俺たちを圧倒した。
華やかで芸術的な王都とは対照的に、アイゼンガルドの街並みは質実剛健そのものだった。黒い石で統一された巨大な建築物。機能的に区画整理された広い道路。行き交う人々もどこか規律正しく、その目には強国に住まう者としての誇りが宿っている。
全てが巨大な要塞の一部であるかのような、圧倒的な威圧感。
「……これが、帝国」
セレスティーナが息を呑んで呟いた。王女である彼女ですら、その国力の差を肌で感じ取っているのだろう。
俺たち使節団は帝国側が用意した壮麗な宿舎へと案内された。
長旅の疲れを癒す間もなく、皇帝陛下との謁見は明日に執り行われるとの通達があった。
その夜、俺は自室で一人、窓の外に広がる帝都の夜景を見下ろしていた。
無数の灯りがまるで星々のように輝いている。その一つ一つに人々の暮らしがある。
俺の双肩に、その暮らしと、そして故郷である王国の未来が重くのしかかっていた。
コンコンと控えめなノックの音がした。
「アレン様、俺です。カイルです」
「……入れ」
入ってきたカイルは真剣な、しかし少しだけ不安そうな顔をしていた。
「眠れませんか?」
「まあな」
俺が短く答えると、彼は俺の隣に立ち、同じように帝都の夜景を見下ろした。
「……アレン様。俺、少しだけ怖いのかもしれません」
彼が初めて弱音を吐いた。
「帝国に来て、そのすごさを目の当たりにして……。俺たちだけで、本当に国と国との問題を解決できるんだろうかって」
それはおそらくカイルだけでなく、仲間たち全員が心のどこかで感じている不安だった。
俺はそんな彼の肩をポンと軽く叩いた。
「大丈夫だ、カイル」
俺は静かに、しかし絶対的な自信を込めて言った。
「俺がいる」
その言葉は彼を安心させるための、ただのハッタリだった。
俺の内心は暴風雨の海の小舟のように、激しく揺れ動いていた。胃はもはや痛みという感覚すら失い、ただただ冷たい塊となって腹の底に沈んでいる。
だが俺はリーダーとして、全権大使として、弱さを見せるわけにはいかない。
俺の言葉を聞いたカイルの顔に、ぱっと光が灯った。
そうだ。俺にはこの人がいる。
この『王国の至宝』が全てを見通している。
彼の不安は俺への絶対的な信頼によって、瞬く間に払拭されたようだった。
「……はいっ! そうですよね! すみません、情けないこと言いました!」
彼はいつもの太陽のような笑顔を取り戻した。
「明日は任せてください! アレン様の背中は俺が必ず守ります!」
そう言って彼は力強く敬礼し、部屋から出て行った。
一人残された部屋で俺は深いため息をついた。
仲間からの信頼が重い。
あまりにも、重すぎる。
俺は明日、たった一人であの強大な帝国の皇帝と渡り合わなければならないのだ。
俺は窓枠を強く握りしめた。
やるしかない。
俺の平穏な老後のために。
そして俺を信じてくれる、仲間たちのために。
俺は宰相代理としての、そして『王国の至宝』としての、重すぎる仮面を再び被り直した。
その仮面の下で俺の胃が静かに、そして悲痛な叫び声を上げていることなど、誰も知らない。
クラインフェルト家の紋章と王家の旗を掲げたその馬車は、我が国の威信を懸けた外交使節団のものである。その行き先は北の大国、ガルニア帝国。
そしてその馬車の中には、俺の平穏な未来を乗せた棺桶がゆっくりと帝国という名の墓場へ向かっているような、絶望的な空気が漂っていた。いや、漂っているのは俺の心の中だけで、他のメンバーはやる気に満ち溢れているのだが。
「アレン様! これが帝国との国境線ですか! なんだか空気が違いますね!」
窓の外を眺めながら、カイルが興奮した声で言った。騎士団の制服に身を包んだ彼は、初めての国外任務に心を躍らせているようだった。
「ええ。魔力の密度が明らかに王国側とは異なります。地脈そのものが違うのでしょう。非常に興味深い」
ルナが手にした魔力測定器の数値を睨みながら、冷静に分析する。
「空気が乾燥しているわ。肌に良くないわね。アレン、貴方もこれを使いなさい」
セレスティーナがどこからか取り出した高級そうな保湿クリームを俺に差し出してくる。その気遣いは有り難いが、俺の肌より先に胃の粘膜をどうにかしてほしかった。
俺はそんな仲間たちのやり取りに、完璧な宰相代理の笑みを浮かべて頷きながら、内心では深いため息をついていた。
護衛がいるのは心強い。専門家がいるのも助かる。
だがこのメンバー構成は、精神的な負担が大きすぎる。
四方八方から向けられる絶対的な信頼と期待。それはもはや心地よいものではなく、俺の首を絞める絹のロープのようだった。
「アレン様……。お茶が入りましたわ。お疲れでしょうから、少しでもお休みください」
リリアーナが揺れる馬車の中とは思えないほど完璧な手つきで、紅茶を淹れてくれた。その所作はもはや聖女というより、熟練のメイドのそれに近い。彼女は夏休みの一件以来、俺の世話を焼くことに自らの存在意義を見出してしまっているようだった。
その紅茶を一口飲む。胃にわずかな温かさが染みた。
国境を越えると風景は一変した。
豊かな緑に覆われていた王国の土地とは対照的に、帝国のそれはどこか荒涼として厳しかった。広大な平原が地平線の果てまで続き、その上を吹き抜ける風は鉄の匂いがするようだった。
道は驚くほど整備されていた。軍隊が迅速に移動できるように、という軍事国家ならではの発想だろう。
やがて俺たちの馬車は帝国の騎士団と合流した。
黒鋼の、機能美だけを追求したような鎧に身を包んだ彼らは、一糸乱れぬ動きで俺たちの馬車を護衛し始めた。その動きには一切の無駄がない。王国の騎士たちのような華やかさはないが、その練度は明らかに帝国の方が上だった。
「……すごい。一分の隙もない」
カイルが尊敬と、わずかな対抗心を滲ませた声で呟いた。
俺はそんな彼らの姿を静かに観察しながら、これから始まる交渉の厳しさを改めて実感していた。
数日後、俺たちはついに帝国の首都アイゼンガルドに到着した。
その威容は王都とは全く異なる形で、俺たちを圧倒した。
華やかで芸術的な王都とは対照的に、アイゼンガルドの街並みは質実剛健そのものだった。黒い石で統一された巨大な建築物。機能的に区画整理された広い道路。行き交う人々もどこか規律正しく、その目には強国に住まう者としての誇りが宿っている。
全てが巨大な要塞の一部であるかのような、圧倒的な威圧感。
「……これが、帝国」
セレスティーナが息を呑んで呟いた。王女である彼女ですら、その国力の差を肌で感じ取っているのだろう。
俺たち使節団は帝国側が用意した壮麗な宿舎へと案内された。
長旅の疲れを癒す間もなく、皇帝陛下との謁見は明日に執り行われるとの通達があった。
その夜、俺は自室で一人、窓の外に広がる帝都の夜景を見下ろしていた。
無数の灯りがまるで星々のように輝いている。その一つ一つに人々の暮らしがある。
俺の双肩に、その暮らしと、そして故郷である王国の未来が重くのしかかっていた。
コンコンと控えめなノックの音がした。
「アレン様、俺です。カイルです」
「……入れ」
入ってきたカイルは真剣な、しかし少しだけ不安そうな顔をしていた。
「眠れませんか?」
「まあな」
俺が短く答えると、彼は俺の隣に立ち、同じように帝都の夜景を見下ろした。
「……アレン様。俺、少しだけ怖いのかもしれません」
彼が初めて弱音を吐いた。
「帝国に来て、そのすごさを目の当たりにして……。俺たちだけで、本当に国と国との問題を解決できるんだろうかって」
それはおそらくカイルだけでなく、仲間たち全員が心のどこかで感じている不安だった。
俺はそんな彼の肩をポンと軽く叩いた。
「大丈夫だ、カイル」
俺は静かに、しかし絶対的な自信を込めて言った。
「俺がいる」
その言葉は彼を安心させるための、ただのハッタリだった。
俺の内心は暴風雨の海の小舟のように、激しく揺れ動いていた。胃はもはや痛みという感覚すら失い、ただただ冷たい塊となって腹の底に沈んでいる。
だが俺はリーダーとして、全権大使として、弱さを見せるわけにはいかない。
俺の言葉を聞いたカイルの顔に、ぱっと光が灯った。
そうだ。俺にはこの人がいる。
この『王国の至宝』が全てを見通している。
彼の不安は俺への絶対的な信頼によって、瞬く間に払拭されたようだった。
「……はいっ! そうですよね! すみません、情けないこと言いました!」
彼はいつもの太陽のような笑顔を取り戻した。
「明日は任せてください! アレン様の背中は俺が必ず守ります!」
そう言って彼は力強く敬礼し、部屋から出て行った。
一人残された部屋で俺は深いため息をついた。
仲間からの信頼が重い。
あまりにも、重すぎる。
俺は明日、たった一人であの強大な帝国の皇帝と渡り合わなければならないのだ。
俺は窓枠を強く握りしめた。
やるしかない。
俺の平穏な老後のために。
そして俺を信じてくれる、仲間たちのために。
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