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第五十八話 無血の勝利
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アラン王子を捕虜にした私たちは、撤退もまた神速だった。ガルフたちが猿轡を噛ませたアランを担ぎ、私たちは再び夜の闇に溶け込むようにして王国軍の陣地を離脱した。総大将が連れ去られたことに、誰一人として気づく者はいなかった。
夜が明けエデンに朝の光が差し込む頃、私たちは無事に帰還した。
作戦の完璧な成功を知り、エデンの民から歓声が上がる。彼らは、これから始まるはずだった血みどろの総力戦を、一滴の血も流さずに回避できたのだ。
一方、王国軍の陣地は夜明けと共に大混乱に陥っていた。
「殿下がいない! アラン王子殿下のお姿が見えないぞ!」
側近たちの悲鳴のような声がキャンプ中に響き渡る。護衛兵たちは、いつの間にか蔓で拘束され、声も出せずに転がっていた。
総大将の忽然たる失踪。その事実は、疲弊しきっていた兵士たちの心を再起不能なまでに叩き潰した。
「敵の魔女の仕業だ!」
「我々は呪われているんだ!」
パニックは瞬く間に伝染し、軍の統制は完全に崩壊した。もはや彼らには戦う意志も目的も残されていなかった。
その混乱の只中に、エデンからの使者が一本の白い旗を掲げて悠然と現れた。使者はギルバートただ一人だった。
彼は混乱する兵士たちの前に立つと、朗々と響き渡る声で告げた。
「クローデル王国軍の諸君に告ぐ! 貴殿らの総大将、アラン王子殿下の身柄は我らエデン王国が預かった!」
その一言は、全ての騒ぎをぴたりと止ませるほどの衝撃を持っていた。兵士たちは信じられないという顔で、ただ呆然とギルバートを見つめている。
ギルバートは続けた。
「我が女王アリシア陛下は、無益な争いを望んでおられない。よって、貴殿らに選択肢を与える。一つは、このまま戦を続け、総大将を失ったまま無意味に命を散らす道。もう一つは、全ての武器を捨て我々の要求を呑み、無事に故郷へ帰る道だ」
彼の言葉は地獄に垂らされた一本の蜘蛛の糸のように、兵士たちの心に届いた。
故郷へ帰れる。
その言葉が、彼らの心を強く揺さぶった。
副官の老将軍が、やつれた顔で前に進み出た。
「……要求とは、何だ」
「我が女王の要求は二つ」
ギルバートは、指を二本立ててみせた。
「一つ。アラン王子の身柄と引き換えに、クローデル王国はエデン王国に対し今後一切の武力干渉を行わないことを誓約するべし。すなわち、不可侵条約の締結である」
「そして、二つ目」
彼の声がわずかに力を帯びた。
「貴殿らがこの地を去るにあたり、全ての兵糧と馬、そして武具の一部を我々に譲渡していただきたい。これは、貴殿らが我々の土地を不当に踏み荒らしたことに対する、ささやかな賠償金だ」
そのあまりに堂々とした、そしてあまりにも一方的な要求に王国軍の将校たちは言葉を失った。敗軍の将に賠償金まで要求する。前代未聞の事態だった。
しかし、彼らに選択の余地はなかった。総大将の命は敵の手に握られているのだ。
老将軍は深く、深くため息をつくと、力なく頷いた。
「……分かった。その要求を呑もう」
彼はその場で剣を地面に突き立て、降伏の意を示した。その姿を見て、他の兵士たちもまるで呪縛から解かれたように、次々と武器を地面に投げ出し始めた。
こうして、エデン防衛戦は文字通り『無血』の勝利で幕を閉じた。
その日の午後。
エデンの広場には奇妙な光景が広がっていた。
王国軍の兵士たちが自分たちの食料や武器を、黙々とエデンの食料庫へと運び込んでいる。その顔に屈辱の色はなかった。むしろ、これでようやく家に帰れるという安堵の色が浮かんでいる。
そして、私は女王として彼らに最後の慈悲を与えた。
「皆さん、ご苦労様でした」
私は広場に集まった兵士たちに向かって語りかけた。
「長い旅路になるでしょう。これを道中の食料として持っていってください」
私の合図でリーナたちが、焼きたてのパンと野菜をたっぷり使った温かいスープを兵士一人一人に配り始めたのだ。
「……いいのか?」
「敵である俺たちに……?」
兵士たちは戸惑いながらも温かい食事を受け取った。そして、一口スープを啜るとそのあまりの美味しさに、多くの者が涙を流した。
故郷の母親が作ってくれたような、優しくて温かい味。それは彼らがこの戦いで失いかけていた、人間としての心を取り戻させてくれる味だった。
私は捕虜となっていたアラン王子を、彼らの前に引き出した。
「アラン王子。あなたをお返しします。この兵士たちを無事に王都まで連れて帰るのが、あなたの最後の役目です」
アランは、もはや何の威厳もなく、ただ青ざめた顔で私を睨みつけていた。
王国軍は、その日のうちにエデンから撤退を始めた。
去り際、多くの兵士たちが私たちに向かって静かに頭を下げていった。その目には敵意ではなく、畏敬と、そして感謝の色が浮かんでいた。
私たちはただ敵を打ち破っただけではなかった。
私たちは力ではなく、慈悲と寛大さによって本当の意味での勝利を掴み取ったのだ。
武器を交えずに敵を屈服させ、その心さえも味方につける。エデン王国は、その最初の戦いにおいて大陸のどの国も持ち得ない、全く新しい『強さ』の形を静かに示したのだった。
夜が明けエデンに朝の光が差し込む頃、私たちは無事に帰還した。
作戦の完璧な成功を知り、エデンの民から歓声が上がる。彼らは、これから始まるはずだった血みどろの総力戦を、一滴の血も流さずに回避できたのだ。
一方、王国軍の陣地は夜明けと共に大混乱に陥っていた。
「殿下がいない! アラン王子殿下のお姿が見えないぞ!」
側近たちの悲鳴のような声がキャンプ中に響き渡る。護衛兵たちは、いつの間にか蔓で拘束され、声も出せずに転がっていた。
総大将の忽然たる失踪。その事実は、疲弊しきっていた兵士たちの心を再起不能なまでに叩き潰した。
「敵の魔女の仕業だ!」
「我々は呪われているんだ!」
パニックは瞬く間に伝染し、軍の統制は完全に崩壊した。もはや彼らには戦う意志も目的も残されていなかった。
その混乱の只中に、エデンからの使者が一本の白い旗を掲げて悠然と現れた。使者はギルバートただ一人だった。
彼は混乱する兵士たちの前に立つと、朗々と響き渡る声で告げた。
「クローデル王国軍の諸君に告ぐ! 貴殿らの総大将、アラン王子殿下の身柄は我らエデン王国が預かった!」
その一言は、全ての騒ぎをぴたりと止ませるほどの衝撃を持っていた。兵士たちは信じられないという顔で、ただ呆然とギルバートを見つめている。
ギルバートは続けた。
「我が女王アリシア陛下は、無益な争いを望んでおられない。よって、貴殿らに選択肢を与える。一つは、このまま戦を続け、総大将を失ったまま無意味に命を散らす道。もう一つは、全ての武器を捨て我々の要求を呑み、無事に故郷へ帰る道だ」
彼の言葉は地獄に垂らされた一本の蜘蛛の糸のように、兵士たちの心に届いた。
故郷へ帰れる。
その言葉が、彼らの心を強く揺さぶった。
副官の老将軍が、やつれた顔で前に進み出た。
「……要求とは、何だ」
「我が女王の要求は二つ」
ギルバートは、指を二本立ててみせた。
「一つ。アラン王子の身柄と引き換えに、クローデル王国はエデン王国に対し今後一切の武力干渉を行わないことを誓約するべし。すなわち、不可侵条約の締結である」
「そして、二つ目」
彼の声がわずかに力を帯びた。
「貴殿らがこの地を去るにあたり、全ての兵糧と馬、そして武具の一部を我々に譲渡していただきたい。これは、貴殿らが我々の土地を不当に踏み荒らしたことに対する、ささやかな賠償金だ」
そのあまりに堂々とした、そしてあまりにも一方的な要求に王国軍の将校たちは言葉を失った。敗軍の将に賠償金まで要求する。前代未聞の事態だった。
しかし、彼らに選択の余地はなかった。総大将の命は敵の手に握られているのだ。
老将軍は深く、深くため息をつくと、力なく頷いた。
「……分かった。その要求を呑もう」
彼はその場で剣を地面に突き立て、降伏の意を示した。その姿を見て、他の兵士たちもまるで呪縛から解かれたように、次々と武器を地面に投げ出し始めた。
こうして、エデン防衛戦は文字通り『無血』の勝利で幕を閉じた。
その日の午後。
エデンの広場には奇妙な光景が広がっていた。
王国軍の兵士たちが自分たちの食料や武器を、黙々とエデンの食料庫へと運び込んでいる。その顔に屈辱の色はなかった。むしろ、これでようやく家に帰れるという安堵の色が浮かんでいる。
そして、私は女王として彼らに最後の慈悲を与えた。
「皆さん、ご苦労様でした」
私は広場に集まった兵士たちに向かって語りかけた。
「長い旅路になるでしょう。これを道中の食料として持っていってください」
私の合図でリーナたちが、焼きたてのパンと野菜をたっぷり使った温かいスープを兵士一人一人に配り始めたのだ。
「……いいのか?」
「敵である俺たちに……?」
兵士たちは戸惑いながらも温かい食事を受け取った。そして、一口スープを啜るとそのあまりの美味しさに、多くの者が涙を流した。
故郷の母親が作ってくれたような、優しくて温かい味。それは彼らがこの戦いで失いかけていた、人間としての心を取り戻させてくれる味だった。
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私たちは力ではなく、慈悲と寛大さによって本当の意味での勝利を掴み取ったのだ。
武器を交えずに敵を屈服させ、その心さえも味方につける。エデン王国は、その最初の戦いにおいて大陸のどの国も持ち得ない、全く新しい『強さ』の形を静かに示したのだった。
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