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第四話:ネットの囁き、学園の熱狂 - 規格外は止まらない
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数日が過ぎた。
俺が匿名でネット上に投じた「石」は、静かに、しかし確実に波紋を広げ始めていた。
最初は、あまりに突飛な内容に「トンデモ理論」「厨二病の妄想」と一笑に付されていた書き込みが、いくつかの技術系フォーラムや投資関連のコミュニティで、「待て、この記述、妙に具体的じゃないか?」「この予測、先日の○○のニュースと符合するぞ……」といった声と共に、一部の専門家やマニアの間で真剣に議論されるようになってきたのだ。
『次世代エネルギーコアに関する考察』
『量子コンピュータのブレイクスルー時期とその社会的影響』
『今後半年間の特定セクター株価変動予測モデル』
俺が書き込んだのは、この世界の標準的な知識レベルを遥かに超えた、しかし決して実現不可能な夢物語ではない、絶妙なラインの情報だった。完全記憶能力で得た膨大な知識、高度な情報処理能力による分析、そしてエルヴィンとしての異世界経験(例えば、マナやエーテルといった架空のエネルギー概念からの発想)が、それらを可能にした。
ハンドルネームは『Lv.1』。
前世の自分への皮肉と、現状の圧倒的な力とのギャップを込めた名前だ。
その『Lv.1』なる謎の人物が、一体何者なのか。様々な憶測が飛び交い、ちょっとしたネットミームになりかけているのを、俺は自室のPCの前で冷静に観察していた。
(ふむ、食いつきは上々、か。まあ、当然だな)
俺が提供したのは、未来の「ヒント」だ。それをどう解釈し、どう活用するかは彼ら次第。しばらくは、この状況を楽しませてもらうとしよう。
***
一方、帝聖学園での俺の日常は、相変わらず「規格外」の一言に尽きた。
授業は、もはや復習の時間にすらなっていない。教師の説明を聞くまでもなく、教科書を一度読んだだけで全てを理解してしまうため、授業中はもっぱら、他のことを考える時間に充てていた。例えば、次にネットに投下する「爆弾」の内容とか、神崎グループの事業ポートフォリオの分析とか、あるいは、窓の外を飛ぶ鳥の飛行パターン解析とか。
「……以上が、今日のポイントだ。何か質問は?」
教師が問いかける。クラスの誰もが黙っている中、俺は手を挙げた。
「先生、その理論ですが、最新の○○論文で提唱されている△△モデルを適用すると、矛盾が生じるのではないでしょうか? 具体的には……」
淀みなく指摘すると、教師は一瞬、言葉に詰まり、額に汗を浮かべながら俺の説明を聞いていた。そして、最後には「……か、神崎君の言う通りだ。すまない、私の勉強不足だった」と認めざるを得なかった。
こんなことが、日に何度か繰り返される。もはや、教師たちも俺に何かを教えるというより、俺から教えを請う場面すら出始めていた。
そんな俺の存在は、当然、クラスメイトたちにとっても異質だ。
畏敬、憧れ、嫉妬、そして諦め。様々な感情が渦巻いているのが分かる。
「はぁ……神崎君見てると、自分が凡人なのが嫌になるよ……」
昼休み、隣の席の橘葵が、大きなため息をつきながら呟いた。彼女は、陸上部の練習で自己ベストを更新したと喜んでいたが、俺の存在がその喜びを少し曇らせているのかもしれない。
「別に、他人と比べる必要はないだろう。君は君のペースで、自己ベストを目指せばいい」
「……うん、そう、だよね! ありがとう、神崎君!」
俺の言葉に、葵はぱっと顔を輝かせた。こういう素直なところは好感が持てる。彼女のようなタイプは、目標を与えられ、肯定されることで伸びるのだろう。
「それにしても、神崎君は本当に部活入らないの? 生徒会とかは? 高嶺会長、まだ諦めてないみたいだよ?」
葵が、教室の入り口付近に立つ人影を指差した。
そこには、腕を組んで、真っ直ぐにこちらを見つめる生徒会長、高嶺椿の姿があった。
「神崎君、少し時間いいかしら?」
椿が、凛とした声で話しかけてきた。相変わらずの怜悧な美貌だが、その瞳には明確な意志が宿っている。
「生徒会の話なら、今はあまり興味がないと言ったはずだが?」
「ええ、承知しているわ。でも、もう一度だけ、考え直してほしいの」
椿は、俺の席の前に立つと、真っ直ぐに俺の目を見て続けた。
「今の帝聖学園には、変革が必要だと私は考えているわ。伝統も大事だけれど、それに固執するあまり、停滞している部分も少なくない。あなたのその規格外の才能、学園をより良くするために使ってみる気はない?」
その言葉には、彼女自身の学園に対する情熱と、リーダーとしての強い責任感が感じられた。単なる権力欲や名誉欲だけで生徒会長を務めているわけではないらしい。
(なるほど、彼女は彼女なりに、理想を持っている、か)
面白い。だが、今はまだ、彼女の土俵に乗る気はない。
「残念だが、高嶺会長。俺には俺のやりたいことがある。学園の改革に興味がないわけではないが、今はまだ、その時期ではないと思っている」
「……あなたのやりたいこと、とは?」
椿が、鋭く問い返してくる。
「さあ、なんだろうな。それは、おいおい分かるんじゃないか?」
わざと曖昧に、含みを持たせた言い方をする。相手に考えさせ、興味を引きつける。これもまた、コミュニケーションの一つの技術だ。異世界では必要なかったが、この現代社会では有効なスキルだろう。
椿は、しばらく俺の目をじっと見つめていたが、やがて、ふっと息を吐いた。
「……分かったわ。今は、引き下がりましょう。でも、諦めたわけではないから。あなたがその気になったらいつでも声をかけて。生徒会の扉は、いつでも開いているわ」
そう言うと、彼女は颯爽と踵を返し、去っていった。
「……高嶺会長、本気みたいだね」
一部始終を見ていた葵が、ぽつりと言った。
「まあ、彼女の熱意は本物だろうな」
「神崎君が生徒会に入ったら、すごいことになりそう……」
葵は、何か面白いことを想像しているのか、少しワクワクしたような表情を浮かべていた。
***
放課後。
今日も部活動には参加せず、図書室へ向かう。
知識の吸収は、いくら続けても飽きることがない。今日は、認知科学と人工知能に関する書籍を読み漁ることにした。
静かな空間で、ページをめくる音だけが響く。
集中して読書を進めていると、ふと、視線を感じた。
顔を上げると、少し離れた席に座っていた白鳥栞と目が合った。彼女はすぐに視線を逸らし、再び手元の本に目を落としたが、その白い頬が、ほんのりと赤く染まっているように見えた。
(おや? 珍しい)
いつもは本の世界に没頭していて、周りのことなど全く気にしていないように見える彼女が、俺を意識していた?
少し興味が湧き、席を立って彼女の近くへ歩み寄った。
「白鳥さん、だったかな」
声をかけると、彼女はビクッと肩を震わせ、ゆっくりと顔を上げた。長い前髪の間から覗く大きな瞳が、驚きと戸惑いの色に揺れている。
「か、神崎……君……?」
か細い、囁くような声。
「いつも熱心に本を読んでいるな。何を読んでいるんだ?」
彼女が読んでいるのは、やはり難解そうな哲学書だった。タイトルは『存在と時間』。ハイデガーの主著だ。高校生が読むには、かなり背伸びした選択だろう。
「あ……えっと……これは……」
栞は、慌てて本を閉じ、胸元に抱きかかえるようにした。まるで、秘密を覗かれたかのように。
「難しそうな本だ。哲学に興味があるのか?」
「……はい、少し……」
俯いたまま、小さな声で答える。
「そうか。俺も哲学は嫌いじゃない。特に、認識論や言語哲学あたりは面白いと思う」
完全記憶能力のおかげで、主要な哲学者の思想や著作は、ほぼ頭に入っている。ハイデガーについても、もちろん詳細に理解している。
俺がそう言うと、栞は驚いたように顔を上げた。
「神崎君も……哲学を?」
「まあ、嗜む程度にはね。例えば、ハイデガーの言う『現存在(ダーザイン)』の概念は、人間存在の本質を鋭く突いていると思うが、その時間性についての解釈は、現代の認知科学の知見から見ると、少しアップデートが必要かもしれないな」
淀みなく、専門的な内容に踏み込んで話すと、栞の目が、驚きから次第に興味の色へと変わっていくのが分かった。
「……アップデート……ですか?」
「ああ。例えば……」
俺は、彼女の隣の椅子を引き寄せ、腰を下ろした。そして、ハイデガーの哲学と、最新の認知科学や脳科学の知見を結びつけながら、俺自身の解釈を語り始めた。
最初は戸惑っていた栞も、次第に俺の話に引き込まれていったようだ。時折、小さな声で質問を挟んだり、深く頷いたりしながら、真剣な表情で耳を傾けている。
彼女の瞳には、知的な探求心と、深い思考の色が宿っていた。普段の儚げな印象とは違う、強い輝きだ。
気づけば、閉館時間を告げるチャイムが鳴っていた。
「おっと、もうこんな時間か」
「あ……」
栞は、名残惜しそうな表情を浮かべた。
「なかなか面白い議論ができた。ありがとう、白鳥さん」
「い、いえ……こちらこそ……神崎君が、こんなに哲学に詳しいなんて、思いませんでした……」
栞は、少し頬を赤らめながら、はにかむように笑った。普段のミステリアスな雰囲気とは違う、年相応の少女らしい表情だ。
(なるほど、彼女はこういう一面も持っているのか)
これは、予想外の収穫だったかもしれない。
彼女との知的な会話は、退屈な日常における、良い刺激になりそうだ。
「また、機会があれば話そう」
そう言って席を立つと、栞は「……はい」と小さく頷いた。
図書室を出ると、ちょうど父からの着信があった。
「蓮か。少し、頼みたいことがある」
内容は、神崎グループが関わる海外企業とのオンラインミーティングに、オブザーバーとして参加してほしい、というものだった。相手企業の担当者が、俺と同年代の息子を同席させるらしく、それならばこちらも、ということらしい。
「別に構いませんよ。いつです?」
「明日の夜だ。資料は後で送る。目を通しておけ」
「了解です」
簡単な返事をして、通話を終える。
(海外企業とのミーティング、ね。これも面白そうだ)
俺の持つ多言語能力や、経済・経営に関する知識を試す良い機会だろう。それに、神崎グループの内部情報に触れることで、父が何を考えているのか、探ることもできるかもしれない。
ネットでの情報操作、学園内での圧倒的な存在感、ヒロインたちとの関係構築、そして、いよいよ始まる学外での活動。
神崎蓮の「好き放題」は、着実にその範囲を広げている。
帰宅後、PCを立ち上げると、ネット上の『Lv.1』に対する反応が、さらに大きくなっていることに気づいた。いくつかの大手ニュースサイトや、影響力のあるブロガーが、この謎の人物について取り上げ始めている。
匿名掲示板では、「未来人ではないか」「どこかの国家機関の関係者か」「実はAIなのでは」といった、SFまがいの憶測まで飛び交っていた。
(さて、次の「遊び」は何にしようか)
この熱狂を、さらに煽ってみるのも面白い。あるいは、全く別の分野で、新たな「伝説」を作るのもいいかもしれない。
選択肢は無限にある。そして、その全てを選ぶことができる力が、今の俺にはある。
退屈なんて、この俺がぶっ壊してやる。
夜景を眺めながら、神崎蓮は、次なる一手について思考を巡らせていた。その口元には、自信に満ちた、不敵な笑みが浮かんでいた。
世界は、俺のために回っている。そんな確信にも似た感覚が、全身を満たしていた。
俺が匿名でネット上に投じた「石」は、静かに、しかし確実に波紋を広げ始めていた。
最初は、あまりに突飛な内容に「トンデモ理論」「厨二病の妄想」と一笑に付されていた書き込みが、いくつかの技術系フォーラムや投資関連のコミュニティで、「待て、この記述、妙に具体的じゃないか?」「この予測、先日の○○のニュースと符合するぞ……」といった声と共に、一部の専門家やマニアの間で真剣に議論されるようになってきたのだ。
『次世代エネルギーコアに関する考察』
『量子コンピュータのブレイクスルー時期とその社会的影響』
『今後半年間の特定セクター株価変動予測モデル』
俺が書き込んだのは、この世界の標準的な知識レベルを遥かに超えた、しかし決して実現不可能な夢物語ではない、絶妙なラインの情報だった。完全記憶能力で得た膨大な知識、高度な情報処理能力による分析、そしてエルヴィンとしての異世界経験(例えば、マナやエーテルといった架空のエネルギー概念からの発想)が、それらを可能にした。
ハンドルネームは『Lv.1』。
前世の自分への皮肉と、現状の圧倒的な力とのギャップを込めた名前だ。
その『Lv.1』なる謎の人物が、一体何者なのか。様々な憶測が飛び交い、ちょっとしたネットミームになりかけているのを、俺は自室のPCの前で冷静に観察していた。
(ふむ、食いつきは上々、か。まあ、当然だな)
俺が提供したのは、未来の「ヒント」だ。それをどう解釈し、どう活用するかは彼ら次第。しばらくは、この状況を楽しませてもらうとしよう。
***
一方、帝聖学園での俺の日常は、相変わらず「規格外」の一言に尽きた。
授業は、もはや復習の時間にすらなっていない。教師の説明を聞くまでもなく、教科書を一度読んだだけで全てを理解してしまうため、授業中はもっぱら、他のことを考える時間に充てていた。例えば、次にネットに投下する「爆弾」の内容とか、神崎グループの事業ポートフォリオの分析とか、あるいは、窓の外を飛ぶ鳥の飛行パターン解析とか。
「……以上が、今日のポイントだ。何か質問は?」
教師が問いかける。クラスの誰もが黙っている中、俺は手を挙げた。
「先生、その理論ですが、最新の○○論文で提唱されている△△モデルを適用すると、矛盾が生じるのではないでしょうか? 具体的には……」
淀みなく指摘すると、教師は一瞬、言葉に詰まり、額に汗を浮かべながら俺の説明を聞いていた。そして、最後には「……か、神崎君の言う通りだ。すまない、私の勉強不足だった」と認めざるを得なかった。
こんなことが、日に何度か繰り返される。もはや、教師たちも俺に何かを教えるというより、俺から教えを請う場面すら出始めていた。
そんな俺の存在は、当然、クラスメイトたちにとっても異質だ。
畏敬、憧れ、嫉妬、そして諦め。様々な感情が渦巻いているのが分かる。
「はぁ……神崎君見てると、自分が凡人なのが嫌になるよ……」
昼休み、隣の席の橘葵が、大きなため息をつきながら呟いた。彼女は、陸上部の練習で自己ベストを更新したと喜んでいたが、俺の存在がその喜びを少し曇らせているのかもしれない。
「別に、他人と比べる必要はないだろう。君は君のペースで、自己ベストを目指せばいい」
「……うん、そう、だよね! ありがとう、神崎君!」
俺の言葉に、葵はぱっと顔を輝かせた。こういう素直なところは好感が持てる。彼女のようなタイプは、目標を与えられ、肯定されることで伸びるのだろう。
「それにしても、神崎君は本当に部活入らないの? 生徒会とかは? 高嶺会長、まだ諦めてないみたいだよ?」
葵が、教室の入り口付近に立つ人影を指差した。
そこには、腕を組んで、真っ直ぐにこちらを見つめる生徒会長、高嶺椿の姿があった。
「神崎君、少し時間いいかしら?」
椿が、凛とした声で話しかけてきた。相変わらずの怜悧な美貌だが、その瞳には明確な意志が宿っている。
「生徒会の話なら、今はあまり興味がないと言ったはずだが?」
「ええ、承知しているわ。でも、もう一度だけ、考え直してほしいの」
椿は、俺の席の前に立つと、真っ直ぐに俺の目を見て続けた。
「今の帝聖学園には、変革が必要だと私は考えているわ。伝統も大事だけれど、それに固執するあまり、停滞している部分も少なくない。あなたのその規格外の才能、学園をより良くするために使ってみる気はない?」
その言葉には、彼女自身の学園に対する情熱と、リーダーとしての強い責任感が感じられた。単なる権力欲や名誉欲だけで生徒会長を務めているわけではないらしい。
(なるほど、彼女は彼女なりに、理想を持っている、か)
面白い。だが、今はまだ、彼女の土俵に乗る気はない。
「残念だが、高嶺会長。俺には俺のやりたいことがある。学園の改革に興味がないわけではないが、今はまだ、その時期ではないと思っている」
「……あなたのやりたいこと、とは?」
椿が、鋭く問い返してくる。
「さあ、なんだろうな。それは、おいおい分かるんじゃないか?」
わざと曖昧に、含みを持たせた言い方をする。相手に考えさせ、興味を引きつける。これもまた、コミュニケーションの一つの技術だ。異世界では必要なかったが、この現代社会では有効なスキルだろう。
椿は、しばらく俺の目をじっと見つめていたが、やがて、ふっと息を吐いた。
「……分かったわ。今は、引き下がりましょう。でも、諦めたわけではないから。あなたがその気になったらいつでも声をかけて。生徒会の扉は、いつでも開いているわ」
そう言うと、彼女は颯爽と踵を返し、去っていった。
「……高嶺会長、本気みたいだね」
一部始終を見ていた葵が、ぽつりと言った。
「まあ、彼女の熱意は本物だろうな」
「神崎君が生徒会に入ったら、すごいことになりそう……」
葵は、何か面白いことを想像しているのか、少しワクワクしたような表情を浮かべていた。
***
放課後。
今日も部活動には参加せず、図書室へ向かう。
知識の吸収は、いくら続けても飽きることがない。今日は、認知科学と人工知能に関する書籍を読み漁ることにした。
静かな空間で、ページをめくる音だけが響く。
集中して読書を進めていると、ふと、視線を感じた。
顔を上げると、少し離れた席に座っていた白鳥栞と目が合った。彼女はすぐに視線を逸らし、再び手元の本に目を落としたが、その白い頬が、ほんのりと赤く染まっているように見えた。
(おや? 珍しい)
いつもは本の世界に没頭していて、周りのことなど全く気にしていないように見える彼女が、俺を意識していた?
少し興味が湧き、席を立って彼女の近くへ歩み寄った。
「白鳥さん、だったかな」
声をかけると、彼女はビクッと肩を震わせ、ゆっくりと顔を上げた。長い前髪の間から覗く大きな瞳が、驚きと戸惑いの色に揺れている。
「か、神崎……君……?」
か細い、囁くような声。
「いつも熱心に本を読んでいるな。何を読んでいるんだ?」
彼女が読んでいるのは、やはり難解そうな哲学書だった。タイトルは『存在と時間』。ハイデガーの主著だ。高校生が読むには、かなり背伸びした選択だろう。
「あ……えっと……これは……」
栞は、慌てて本を閉じ、胸元に抱きかかえるようにした。まるで、秘密を覗かれたかのように。
「難しそうな本だ。哲学に興味があるのか?」
「……はい、少し……」
俯いたまま、小さな声で答える。
「そうか。俺も哲学は嫌いじゃない。特に、認識論や言語哲学あたりは面白いと思う」
完全記憶能力のおかげで、主要な哲学者の思想や著作は、ほぼ頭に入っている。ハイデガーについても、もちろん詳細に理解している。
俺がそう言うと、栞は驚いたように顔を上げた。
「神崎君も……哲学を?」
「まあ、嗜む程度にはね。例えば、ハイデガーの言う『現存在(ダーザイン)』の概念は、人間存在の本質を鋭く突いていると思うが、その時間性についての解釈は、現代の認知科学の知見から見ると、少しアップデートが必要かもしれないな」
淀みなく、専門的な内容に踏み込んで話すと、栞の目が、驚きから次第に興味の色へと変わっていくのが分かった。
「……アップデート……ですか?」
「ああ。例えば……」
俺は、彼女の隣の椅子を引き寄せ、腰を下ろした。そして、ハイデガーの哲学と、最新の認知科学や脳科学の知見を結びつけながら、俺自身の解釈を語り始めた。
最初は戸惑っていた栞も、次第に俺の話に引き込まれていったようだ。時折、小さな声で質問を挟んだり、深く頷いたりしながら、真剣な表情で耳を傾けている。
彼女の瞳には、知的な探求心と、深い思考の色が宿っていた。普段の儚げな印象とは違う、強い輝きだ。
気づけば、閉館時間を告げるチャイムが鳴っていた。
「おっと、もうこんな時間か」
「あ……」
栞は、名残惜しそうな表情を浮かべた。
「なかなか面白い議論ができた。ありがとう、白鳥さん」
「い、いえ……こちらこそ……神崎君が、こんなに哲学に詳しいなんて、思いませんでした……」
栞は、少し頬を赤らめながら、はにかむように笑った。普段のミステリアスな雰囲気とは違う、年相応の少女らしい表情だ。
(なるほど、彼女はこういう一面も持っているのか)
これは、予想外の収穫だったかもしれない。
彼女との知的な会話は、退屈な日常における、良い刺激になりそうだ。
「また、機会があれば話そう」
そう言って席を立つと、栞は「……はい」と小さく頷いた。
図書室を出ると、ちょうど父からの着信があった。
「蓮か。少し、頼みたいことがある」
内容は、神崎グループが関わる海外企業とのオンラインミーティングに、オブザーバーとして参加してほしい、というものだった。相手企業の担当者が、俺と同年代の息子を同席させるらしく、それならばこちらも、ということらしい。
「別に構いませんよ。いつです?」
「明日の夜だ。資料は後で送る。目を通しておけ」
「了解です」
簡単な返事をして、通話を終える。
(海外企業とのミーティング、ね。これも面白そうだ)
俺の持つ多言語能力や、経済・経営に関する知識を試す良い機会だろう。それに、神崎グループの内部情報に触れることで、父が何を考えているのか、探ることもできるかもしれない。
ネットでの情報操作、学園内での圧倒的な存在感、ヒロインたちとの関係構築、そして、いよいよ始まる学外での活動。
神崎蓮の「好き放題」は、着実にその範囲を広げている。
帰宅後、PCを立ち上げると、ネット上の『Lv.1』に対する反応が、さらに大きくなっていることに気づいた。いくつかの大手ニュースサイトや、影響力のあるブロガーが、この謎の人物について取り上げ始めている。
匿名掲示板では、「未来人ではないか」「どこかの国家機関の関係者か」「実はAIなのでは」といった、SFまがいの憶測まで飛び交っていた。
(さて、次の「遊び」は何にしようか)
この熱狂を、さらに煽ってみるのも面白い。あるいは、全く別の分野で、新たな「伝説」を作るのもいいかもしれない。
選択肢は無限にある。そして、その全てを選ぶことができる力が、今の俺にはある。
退屈なんて、この俺がぶっ壊してやる。
夜景を眺めながら、神崎蓮は、次なる一手について思考を巡らせていた。その口元には、自信に満ちた、不敵な笑みが浮かんでいた。
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