異世界転生したので、文明レベルを21世紀まで引き上げてみた ~前世の膨大な知識を元手に、貧乏貴族から世界を変える“近代化の父”になります~

夏見ナイ

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第1話:目覚めたら中世でした

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意識が浮上する。
それはまるで濁った水の底から、ゆっくりと水面を目指すような感覚だった。体の感覚が曖昧で、手足が自分のものではないように重い。最後に覚えている光景は、蛍光灯が白々しく照らすオフィス。鳴り響くサーバーダウンのアラート。そして、胸を突き破るような激しい痛み。
そうだ。俺、藤堂亮(とうどうりょう)は、死んだはずだ。三十代半ば、過労死というあまりにも現代的な死因で。

しかし今、俺の背中は柔らかな感触を捉えていた。硬いオフィスチェアでも、冷たい床でもない。ふかふかとした、温かい何かの感触。微かに鼻をくすぐる、知らない匂い。干した草のような、埃っぽいような、そんな匂いだ。
ゆっくりと瞼を押し上げる。
視界に飛び込んできたのは、見慣れない木目の天井だった。太い梁が何本も渡され、その間は白い漆喰で塗り固められている。俺の殺風景なワンルームマンションとは似ても似つかない。
ここはどこだ。
混乱する頭で、錆びついた思考を無理やり回す。病院か。いや、それにしては静かすぎる。消毒液の匂いもしない。
体を起こそうとして、すぐに違和感に気づいた。
軽い。体が異常に軽い。そして小さい。視界の高さが普段よりずっと低い。自分の手を見下ろすと、そこにあったのは日に焼けていない、小さな子供の手だった。

「リオ様、お目覚めですか」

不意に、部屋の扉が軋む音を立てて開いた。入ってきたのは、麻の質素なワンピースを着た若い女だった。年の頃は二十歳前後だろうか。汚れたエプロンを締め、少し疲れた顔をしている。
彼女は俺を見て、安堵したように息を吐いた。
リオ様。俺はそんな名前じゃない。
声を出そうとしたが、喉が張り付いたように上手く言葉にならない。かろうじて「水……」と掠れた声を絞り出すのが精一杯だった。
「はい、ただいま」
女は心得たように頷き、すぐに部屋の隅にあった水差しから木製のカップに水を注いで持ってきた。受け取ったカップはずしりと重い。その水をゆっくりと喉に流し込む。塩素の匂いがしない、生ぬるい水だった。井戸水か何かだろうか。
少し落ち着きを取り戻し、改めて周囲を見渡す。
部屋は広くない。簡素な木のベッドに、机と椅子が一つ。机の上にはインク壺と鳥の羽根らしきものが置かれている。明かりは壁に取り付けられた燭台の蝋燭だけだ。
窓の外に目をやると、そこには信じられない光景が広がっていた。
石畳の道。木と漆喰でできた素朴な建物。道を歩く人々は、誰もが映画のエキストラのような古風な格好をしている。ゴトゴトと音を立てて通り過ぎていくのは、馬が引く荷車だ。
電線がない。アスファルトがない。自動車が一台も走っていない。
まさか。
そんな馬鹿な。
頭の中で、前世で読み漁った小説のテンプレートがいくつも浮かび上がる。
「あの……」
俺は目の前の女に話しかけた。彼女は侍女なのだろうか。
「はい、リオ様。何かご気分が優れませんか」
「鏡は……あるか」
「はい、こちらに」
女が指し示した部屋の隅に、一枚の姿見が立てかけられていた。銅鏡だろうか、表面が少し曇っている。
ふらつく足でベッドを降り、その鏡の前に立つ。
そして、絶句した。
鏡に映っていたのは、もちろん藤堂亮の疲れ切った三十代の顔ではなかった。
そこにいたのは、見知らぬ少年だった。
年は十歳くらいだろうか。陽の光を吸い込んだような、銀に近いプラチナブロンドの髪。大きな瞳は、澄んだ空のような青色をしていた。貴族の肖像画にでも出てきそうな整った顔立ちだが、頬はこけ、全体的に線が細い。栄養状態が良いとはお世辞にも言えなかった。
これが「リオ・アシュフォード」。
これが、今の俺の姿。
藤堂亮は死に、この異世界の少年として、新たな生を受けたらしい。
状況を理解した途端、強烈な尿意が俺を襲った。生理現象は、精神的な衝撃などお構いなしにやってくる。
「便所は……どこだ」
「ご案内します」
侍女に連れられて向かったのは、屋敷の隅にある小さな個室だった。扉を開けた瞬間、俺は思わず鼻をつまんだ。強烈なアンモニア臭が、脳を直接殴りつけるような衝撃となって襲いかかる。
中を覗き込み、俺は文明人としての尊厳が砕け散る音を聞いた。
そこにあったのは、便器などという代物ではなかった。ただの穴が開いた木箱だ。下からは隙間風がひゅうと吹き上げてくる。構造的には、地面に掘った穴の上に直接またがるのと大差ない。
そして、問題はその後だ。
用を済ませ、俺は辺りを見回す。紙がない。トイレットペーパーホルダーはおろか、ちり紙一枚見当たらない。
では、どうするのか。
壁に、丁寧に磨かれた木のヘラが一本、ぶら下がっていた。
まさか。
いや、まさかだろう。
しかし、それ以外に該当するものは見当たらない。侍女は当たり前のように外で待っている。
嘘だろ。これで拭くのか。
前世ではウォシュレットがなければ一日も落ち着かなかった男だぞ、俺は。温かい便座と、的確な水流による洗浄。そして優しい温風による乾燥。それが当たり前の日常だった。
木のヘラ。その無機質な響きが、俺の心を絶望で満たしていく。
覚悟を決めるのに、十分ほどの時間が必要だった。
意を決してそれを手に取り、役目を果たさせる。そのざらりとした、不快極まりない感触。清潔とは程遠い、ただ汚れを擦り付けて広げているだけのような感覚。俺の精神は、ゴリゴリと音を立てて削られていった。

震える手でヘラを元の場所に戻し、個室から出る。侍女は何も言わない。それが当たり前の光景だからだ。
次に案内されたのは、手を洗うための水場だった。大きな陶器の桶に水が張られ、その横に水差しが置いてある。
俺は当然のように、石鹸を探した。
ない。
どこにも、ない。
固形石鹸も、液体ソープも、殺菌ジェルもない。
まさか、水だけなのか。
俺は侍女に尋ねた。
「あの……手を洗う、石のようなものは」
「石、でございますか?」
彼女は不思議そうに首を傾げた。その反応で全てを察した。この世界に、石鹸という概念はおそらく存在しない。
絶望的な気分で、桶の水に手をつける。冷たい水が、汚れを洗い流してくれる。だが、それは表面上の話だ。あの木のヘラの感触と、微かに残る臭い。それが綺麗さっぱり洗い流されたとは到底思えない。目に見えない菌が、この手のひらで増殖しているような気がしてならなかった。
衛生観念。それは現代日本人が、無意識のうちに獲得した最強の防御魔法だ。そして俺は今、その魔法を完全に失った。

自分の部屋に戻り、ベッドに倒れ込むようにして突っ伏した。
異世界転生。チート能力で無双。ハーレムを築いて悠々自適のスローライフ。
そんな甘い夢は、木のヘラと水だけの洗浄によって、粉々に打ち砕かれた。
ここは、人間が文化的に生きられる場所ではない。
ここは、現代日本人にとって地獄だ。
窓の外から聞こえてくる、人々の活気ある声や馬車の蹄の音。それは牧歌的なBGMなどではない。文明が未熟であることの証明であり、俺の絶望を際立たせる不協和音でしかなかった。
これから先、毎日あのヘラを使わなければならないのか。石鹸のない生活を、死ぬまで続けなければならないのか。
考えただけで、気が遠くなりそうだった。
藤堂亮として生きた三十数年の記憶が、俺にこの世界の過酷さを容赦なく突きつけてくる。
「帰りたい……」
ぽつりと、心の声が漏れた。
ウォシュレットのある、俺の家に。コンビニがあって、抗生物質があって、清潔な下着が毎日履ける、あの当たり前の世界に。
意識がはっきりと覚醒してから、まだ数時間しか経っていない。
それなのに、リオ・アシュフォードという少年の体に宿った俺の魂は、すでに希望の欠片も見いだせないまま、深い深い絶望の底へと沈んでいくのだった。
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