古都の嘘つき婚約~命を削る没落令嬢と没落策士の明治京都再生録~

近衛京之介

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第二章:挫折と覚醒

第5話 天才策士の誤算と、時間という絶対の壁

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六道珍皇寺の山門を出ると、夜気は冷たく、湿っていた。  
先ほどまでの地獄の熱気とは裏腹に、現世の夜は静まり返っている。  
西園寺響一郎や鹿鳴館アリスたちは、待たせていた自家用の馬車や人力車に乗り込み、泥一つ跳ね上げることなく去っていった。
鉄の車輪が石畳を鳴らす音が遠ざかり、後には静寂と、置き去りにされた京極朔夜と久我山六花だけが残った。

「……はは。言われ放題だな、俺たち」

 朔夜は遠ざかる馬車の音を聞きながら、乾いた笑いを漏らした。  
拳を強く握りしめる。爪が掌に食い込む痛みだけが、現実感を繋ぎ止めていた。

「……朔夜くん。私、悔しいわ」

 隣で六花が呟く。その声は震えていた。  
無理もない。金も、コネも、人脈も、彼らは全て持っている。
対して自分たちは、明日の米にも困る没落士族だ。
「西園寺さんたちに勝てるのかな……。現実のところ、私たちは……ゼロだよ?」

 六花の不安げな瞳が、朔夜を映す。  
朔夜は、ふっと息を吐き、口元をニヤリと歪めた。道化の仮面ではなく、策士の顔で。

「関係ない」
「え?」
「金がなけりゃ、知恵を使えばいい。コネがなけりゃ、ハッタリで作ればいい」

 朔夜は六花の方を向き、その細い肩に手を置いた。
「俺のハッタリと、お前の……『観察眼』、そしてその『優しさ』があれば、勝てる」
「朔夜くん……」
「俺たちが力を合わせれば、絶対に何かできるはずだ。見返してやろうぜ、六花。……あの閻魔も、西園寺も、アリスも。全員だ!」

 その言葉に、六花の瞳に光が宿る。
「うん。一緒に大きな挑戦ができる。……わくわくしてきたわ」
「安心しろ。金も権力もないが、俺には『話術』がある。愛もある…世界ごと騙してやるよ」

 朔夜は強気に言い放ったが、内心では冷や汗が止まらなかった。
(言っちまった……。もう後戻りはできねえ)
そして、先ほど閻魔大王の前で切った啖呵を思い出す。
「こいつは俺の婚約者だ」  
その嘘もまた、彼らの退路を断つ鎖となっていた。
(まあ、もともと、そうなればいいなとは思っていたが)

 月明かりの下、二人の影が長く伸びる。  
その背後、閉ざされた山門の奥で、井戸の底から赤い光が一瞬だけ漏れ、すぐに闇へと消えた。
それはまるで、地獄からの嘲笑のようだった。

     †

 それから一週間。  
京都のメインストリート、四条通(しじょうどおり)。  
多くの人々が行き交う大通りは、どこか殺伐とした空気に包まれていた。
近代化の槌音が響く一方で、取り残された人々の焦燥が渦巻いている。

「ええい! 嘆かわしい!」
 怒号が響く。  
上級生の烏丸玄五郎が、数名の取り巻き(風紀委員)を引き連れて練り歩いていた。
彼は洋装の町人を捕まえ、ステッキで地面を叩いて説教をしている。

「貴様、日本人なら袴(はかま)を履け!その西洋かぶれの格好は何だ!」
「ひ、ひぃ!勘弁してくださいよぉ」
「そんな軟弱な精神だから、京都は衰退したのだ!復興とは、古き良き日本の心を取り戻すこと! 洋装など言語道断!」

 物陰からその様子を窺っていた朔夜は、げんなりと顔をしかめた。
「……うわ。烏丸先輩だ」
「何してるの?あの人たち」
「『風紀粛正』だとさ。……時代錯誤もいいとこだな」
 朔夜は吐き捨てるように言った。
「あんな精神論で腹が膨れるなら、誰も苦労しねえよ」
 その時、烏丸が二人を見つけた。
「おお、京極!久我山!ちょうどいいところに!」
「げっ」
「貴様らも手伝え!この街から西洋の毒を排除し、美しき封建の世を取り戻すのだ!」

 朔夜は瞬時に「道化」の愛想笑いを張り付け、後ずさった。
「い、いえ……俺たちは俺たちのやり方があるんで……へへっ」
「フン。貧乏人のやり方など知れておる。……邪魔だけはするなよ?」
 烏丸は鼻を鳴らし、再び通行人に怒鳴り散らしながら去っていった。  
市民たちは「関わりたくない」という顔で、迷惑そうに道を空けている。  
烏丸なりに「国を憂う正義」があるのだろうが、それは民衆の生活とはあまりに乖離していた。

 気を取り直して路地裏へ入ると、今度は長屋の前で人だかりができていた。
「どきなさい! ここは私が買い上げましたのよ!」
 白川紗代子だ。扇子で口元を隠し、貧しい住人たちを見下ろしている。
背後には、強面の地上げ屋たちが控えていた。

「そ、そんな殺生な……ここを追い出されたら、わしらはどこへ……」
「知りませんわ。手切れ金(小銭)は払いましたでしょう?」
 白川はうっとりと、ボロボロの長屋を見上げた。
彼女の目には、目の前の貧困ではなく、脳内にある理想郷しか映っていない。

「ここを更地にして……富裕層限定の『会員制サロン』を作りますの。貧乏人は排除して、選ばれた人間だけが優雅に過ごせる、真の京都……素敵でしょう?」

 そこへ通りがかった二人を見つけ、白川が冷ややかな視線を向ける。
「あら、京極さん。久我山さんも。ごきげんよう」
「……」
「まだ登用試験に参加するおつもり? 資金も人脈もないのに?」

 六花は無言で白川を見つめ返した。
その儚げな表情の裏で、彼女の冷徹な観察眼が白川を解剖する。
(……かわいそうな人)
(お金で高い壁を作らないと、自分の価値も守れないの?)
(朔夜くんが見ている「未来」に比べたら……あんたのサロンなんて、ただの鳥籠よ)

「ここは『持てる者』が動かす世界ですの。……身の程を知りなさいな」
 白川の高笑いを背に、二人は逃げるようにその場を離れた。
金と権力を持つ者の「正義」は、持たざる者にとっては暴力でしかなかった。

     †

 夕暮れの通りを、二人は重い足取りで歩いていた。
「……はぁ。どうしよう」
 朔夜が道端の石ころを力なく蹴る。コロコロと転がる音が、虚しく響く。
「烏丸先輩も白川先輩も、やり方は最悪だけど……『力(金と権威)』は持ってる。実際に人を動かして、場所を確保して……着々と進んでる」
「でもあの二人、方向性は何だかズレてるわね」
「それに比べて、俺たちは……」

 朔夜は立ち止まり、自分の空っぽの手のひらを見つめた。

「京都を復興させるって言ったけど……金もコネもない、ただの学生にそんなことできるのかな」 「西園寺さんたちも『鉄道』『疏水』とかスケールの違う話をしてるのに……私たちはまだスタートラインにも立ててないよね」

 絶望感が、二人の肩に重くのしかかる。  
自分たちの無力さを噛み締めていた、その時だった。  
通りがかった神社の境内に一本だけ、季節外れの桜が咲いているのが見えた。  
日当たりの関係か、あるいは品種の違いか。そこだけ春が来たように明るい。

「わあ、綺麗!」「咲いてるぞ!」「春やなぁ」
 その木の下だけ、人々が立ち止まり、笑顔で花を見上げている。  
着物の町人も、洋装の紳士も、ボロボロの服を着た子供も。  
桜の下では、貧富の差もなく、誰もが平等に笑っていた。

「……あ」
 朔夜が足を止める。  
その光景に、雷に打たれたように動けなくなる。

「……これだ」
「え?」
「見ろよ六花。……みんな笑ってる」
 朔夜の瞳に、生気が戻る。彼の脳内で、瞬時に計算式が組み上がっていく。
「金なんかなくても、立派な建物なんかなくても……『桜』が一本あるだけで、人は集まって、笑顔になるんだ」

 朔夜の脳裏に、灰色の京都が鮮やかに塗り替えられていくビジョンが広がった。  
黒い煙と煤(すす)に汚れた街が、薄紅色の花びらで埋め尽くされる光景。
それは単なる感傷ではない。巨大な経済効果を生むシステムだ。

「京都中を、桜の名所にするんだ」
「桜の……名所?」
「そうだ! そうすれば、日本中から観光客が来る。宿も潤う、土産も売れる。しかも桜は、一度植えれば毎年咲く。100年先、200年先も……この街の財産として残り続ける!」

 朔夜は興奮して、六花の肩をガシッと掴んだ。
「これぞ、未来への投資だ! これ以上の復興案はねえ!」
「す、すごい…!それなら私にも手伝える!苗木を植えるだけなら……」

 二人の顔が輝く。
勝てる。西園寺の疏水やアリスの鉄道なんかより、よっぽど人の心に届く。
人の心を動かせば、金は後からついてくる。

「勝てるぞ! 西園寺の疏水なんかより、よっぽど人の心を動かせる!」
「よし、すぐに苗木の手配を……」
 言いかけた朔夜の表情が、急に凍りついた。
「……いや、待て」
「何? どうしたの?」
 朔夜は指を折って数え始めた。顔色がみるみる青ざめていく。

「苗木を植えて……花が咲くまで、何年かかる?」
「えっと……桜の種類にもよるけど、早くて3年……普通は5年以上かな」
「…………」

 ガクリ、と朔夜はその場に膝をついた。膝の泥汚れなど気にする余裕もない。
「……ダメだ」
「朔夜くん?」
「閻魔の期限は『1年』だ。…5年も待ってられない」
「あ……」

 希望が大きかった分、絶望の落差は深かった。  
植物の成長という、絶対的な「時間」の壁。
それは金や知恵ではどうしようもない自然の摂理だ。

「時間はどうしようもないわね。……このアイデアはボツ?」
「はは……。そうだよな、そんな上手い話あるわけないよな」

 朔夜は地面に手をつき、乾いた笑いを漏らした。

「時間を飛び越える魔法でもなきゃ、無理だ……」
 朔夜は空を見上げて深いため息をついた。  
茜色の空を、カラスが鳴いて飛び去っていく。
それはまるで、二人の不吉な未来を暗示しているかのようだった。

「あーあ……閻魔大王様の言ってた『報酬』って、一体なんなんだろうな」
「『未来永劫の繁栄』……?」
「ああ。それさえあれば、俺たちの家も、借金も、全部解決するのに」
「……楽しみだね。どんなものなのかな」
「金塊の山か、魔法の杖か……」

 朔夜は自嘲気味に笑い、泥だらけの手を払った。
「まあ、考えてもしょうがねえ。この疑問の答えは……登用試験に合格して確かめるしかねえよな」
「今の私たちは、合格どころかスタートラインにすら立ててないし……」

 灰色の都に、夜が降りようとしていた。  
起死回生のアイデアは、時間という壁の前に、脆くも崩れ去った。
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