古都の嘘つき婚約~命を削る没落令嬢と没落策士の明治京都再生録~

近衛京之介

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第二章:挫折と覚醒

第6話 「最後の手段」――禁断の力の告白を決断

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平安院学舎の放課後。
夕暮れが教室を茜色に染め上げていたが、その光は京極朔夜の心には届いていなかった。  
黒板には「復興案」と大きく書かれ、その下には無数の書き損じの紙が、まるで雪崩のように床に散乱している。「観光」「清掃」「祭り」……どの紙にも、乱暴な×印がつけられていた。

「……だめだ。何も思いつかねえ」

 朔夜は頭を抱え、机に突っ伏した。  
閻魔大王の前で大見得を切った時の熱はどこへやら、今の彼を支配しているのは冷たい絶望だ。

「観光、清掃、祭り……どれも金と人手が足りない。俺たち二人じゃ限界がある」
 朔夜の心が、泥沼のような自己嫌悪に沈んでいく。  
(くそっ……! 大見得切ったくせに、俺は結局口だけかよ……!)  
「世界ごと騙してやる」なんて言ったのに、この体たらくだ。
隣にいる六花に合わせる顔がない。

「……朔夜くん」
 そんな彼の前に、おずおずと差し出されたものがあった。  
1枚の、古びた布切れのような紙。

「あのね……これ、どうかな」
 「ん?」
 朔夜が顔を上げると、六花が不安げに、けれど瞳に小さな光を宿して立っていた。

「『西陣織』の復興……」
六花の声は小さいが、確信に満ちていた。

「京都の着物は世界一綺麗だよ。でも最近はみんな洋服ばかりで、織元さんも困ってるって聞いたの。だから……その良さを、もう一度みんなに思い出してもらえれば……」

 朔夜はハッとして、提案書を受け取った。  
拙い字だ。だが、その横に描かれた着物の絵は、糸の一本一本まで感じさせるほど丁寧に描き込まれていた。
六花の「観察眼」と、着物への深い愛情が滲み出ている。

「どういうことだ? もっと詳しく」 
「京都と言えば西陣織が有名でしょ。代表的な産業でもある西陣織から復興させるのよ」 
「そうか。帝が東京に移り、続いて公家たちも京から出て行った……」 
「そう。近代化という言葉で、手間のかかる伝統的な産業は衰退していってるの」

 朔夜の脳内で、霧が晴れるように道筋が見えた。  
近代化の波に飲まれ、忘れ去られようとしている「伝統」。
それはまさに、今の自分たち――没落士族の姿そのものではないか。

「……これだ!」 
「私たちで西陣を助けられないかな」
 「その通りだ……とにかく行動しよう」 
「まずはやってから。色々悩みましょう」

 朔夜の目に力が戻る。

「西陣織の着物なら、久我山家にも少しは残ってるだろ?
京極家にも母上のがあるはずだ」

 朔夜は立ち上がり、六花の両肩をガシッと掴んだ。

「さすがだ六花! 『伝統の美』なら、金がなくても俺たちの身体一つで伝えられる!」 
「う、うん」 
「お前がモデルになれ。俺が客引き(弁士)をやる」 
「え、私がモデル……?む、無理だよぉ……」

 六花が顔を真っ赤にして後ずさる。
普段は日陰の花のように目立たない彼女にとって、人前に立つことなど恐怖でしかないだろう。  だが、朔夜は知っている。彼女が秘めている美しさを。

「大丈夫だ。お前は磨けば光る。俺が保証する」
「俺にとっては、磨かなくても、すでにキラキラだけどな」

 その言葉に、六花は驚いたように目を見開き、やがて小さく、けれどしっかりと頷いた。

     †

 三日後。  
京都の目抜き通りは、いつも以上の賑わいを見せていた。  
その一角に、蜜柑箱を積んだ即席の舞台が作られていた。
その上に立つのは、袴姿も凛々しい朔夜だ。

「さあさあ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい!」

 朔夜が張り扇をパンパンと叩き、よく通る声を張り上げる。その姿は、もはや凡庸な学生ではない。観客を魅了する一流の演者だ。

「文明開化もいいけれど、忘れてませんか『日本の心』!千年続いた京の都、その粋(いき)を集めた西陣織のショータイムだ!」

 道行く人々が足を止める。
「なんだなんだ?」「見世物か?」と、好奇の目が集まってくる。  
朔夜は群衆の注目を一身に集め、大仰に手を差し伸べた。

「ご覧あれ! これぞ大和撫子、京の華!」
 街角から、六花がおずおずと現れた。  
身に纏っているのは、久我山家に代々伝わる深紅の振袖。
古いが手入れが行き届いており、日差しを浴びて絹が艶やかに輝いている。  
髪を結い上げ、薄化粧を施した六花は、普段の地味な少女とは別人のようだった。
恥ずかしそうに俯くその仕草さえ、計算された演出のように儚く美しい。

「どうです、この艶やかさ!洋服にはない、この繊細な柄!」
 朔夜の口上が熱を帯びる。

「今こそ着物を着て、京都の街を歩きましょう!西陣で着物を買いましょう」

 どよめきが起きた。
「おお……」 
「確かに、ええ着物やな」 
「あの娘、よう似合ってるわ」

 朔夜は手応えを感じてニヤリとした。  
(いける……! このまま雰囲気を盛り上げれば、街の空気は変わる……!)  
金がなくても、人の心は動かせる。
自分たちの「価値」は、まだ死んでいない。

 その時だった。  
カッポ、カッポ、と軽快な、しかし威圧的な馬の蹄(ひづめ)の音が響き渡った。

「道を開けろ! 鹿鳴館様のお通りだ!」
 御者の鋭い声と共に、群衆がモーゼの海のように割れる。  
現れたのは、白馬に引かれた豪奢な馬車。
その磨き上げられた車体は、陽光を反射してまばゆく輝いている。  
窓から顔を出したのは、鹿鳴館アリスだった。

「あら? 何やら古臭い匂いがすると思ったら……」
 馬車が止まり、扉が開く。アリスが優雅に降り立つ。  
その瞬間、通りの空気が一変した。  
最新流行の、腰を大きく膨らませたバッスル・ドレス。
鮮やかなロイヤルブルーの生地には、レースと宝石が散りばめられている。  
日傘を差す指先、ドレスの裾を捌く所作。
そのすべてから、圧倒的な「文明」のオーラが漂っていた。

「うわぁ……!」 
「すげえ、本物のドレスや」
「キラキラしとる……」

 一瞬で、群衆の目はアリスに釘付けになった。
先ほどまで六花に向けられていた称賛は、瞬く間にアリスへの羨望へと塗り替えられていく。

「ごきげんよう、皆様」
 アリスは優雅に微笑み、そして朔夜と六花の方をチラリと見た。
扇子で口元を隠し、憐れむように目を細める。

「まあ。……学芸会かしら?」
 市民たちから、クスクスと笑いが漏れる。

「西陣織? ふふ、素敵ね。……『博物館』に飾るには」 「……ッ」
 朔夜が息を呑む。  
アリスは、悪意ではなく「正論」として言葉を続けた。

「でも、これからは『機能美』の時代よ。動きやすくて、世界に通用する洋装こそが、シビライゼーション(文明)の証」

 アリスがくるりとターンしてみせる。
ドレスの裾がふわりと舞い、香水の甘い香りが漂う。
それは古都の埃っぽい匂いを消し去る、新しい時代の香りだった。

「……ま、確かにそうやな」 
「着物は窮屈やし、洗濯も大変やしな」 
「やっぱこれからは洋服やわ。あんなボロい着物、時代遅れやな」

 群衆の声が変わる。  
さっきまで「美しい」と言っていた人々が、今は「時代遅れ」と六花を見る。
蔑みの視線が、六花の白い肌に突き刺さる。

「…………」
 六花は顔面蒼白になり、着物の袖をギュッと握りしめた。  
人々がアリスの後を追って去っていく。

「お、おい待てよ! まだ話は……!」
 朔夜が叫ぶが、誰も足を止めない。

「無駄よ、京極」
 アリスが冷ややかに言い放つ。

「聴衆はね、『過去』より『未来』が好きなの。……あなたたちみたいな『過去の遺物』に、復興なんて無理よ」 

「そんなことありません!」
 六花が精一杯の声を張り上げるが、アリスには届かない。

「完全に子供のお遊戯会ね。京都の復興につながるとは思えないわ」
 アリスは冷ややかな笑顔を残し、再び馬車に乗り込んだ。  
馬車が走り去った後には、砂埃と、取り残された朔夜と六花だけが残された。

     †

 誰もいなくなった通り。  
祭りの後のような静寂が、より一層の惨めさを際立たせる。

「くそっ……! くそっ……!」
 朔夜は、悔しさに蜜柑箱を蹴り飛ばした。箱が転がり、乾いた音を立てる。
「なんでだ……! 俺の口上も、六花の着物も、あいつのドレス一着に勝てないのかよ……!」
 話術も、伝統も、圧倒的な「物量」と「流行」の前では無力だった。
自分の「話術」も「演出」も、本物の金持ちには通じない。
その無力感が、朔夜のプライドを引き裂く。

「……ごめんね、朔夜くん」
 背後から、震える声が聞こえた。
「私が…私が、地味だから…。着物が、ボロボロだったから……」 
「違う!お前は悪くない!悪いのは……」

 言いかけて、朔夜は言葉を失った。  
悪いのは誰だ? 「金」と「流行」になびく世の中か? 
それとも、それを持たない自分たちの無力さか?  
(悪いのは……お前を守れるだけの力がない、俺だ)  
朔夜の心の中で、どす黒い自己嫌悪が渦巻く。

 ポツリ。  雨粒が、朔夜の頬に落ちた。
「……雨か」
 ポツリ、ポツリと雨足が強まり、あっという間に土砂降りになる。  
六花の美しい着物が濡れ、重く垂れ下がる。薄化粧が滲み、涙のように頬を伝う。  
灰色の雨が、二人の敗北を嘲笑うように降り注いでいた。

     †

 それから数日後。  
着物作戦の失敗から立ち直れぬまま、二人は路地裏を歩いていた。
「……はぁ。着物作戦は駄目だった。でも諦めるわけにはいかない」 
「次は何をすればいいんだろう」

 朔夜の言葉には覇気がなく、六花の声も沈んでいる。  
その視線の先で、ボロボロの服を着た子供たちが、石ころ遊びをしているのが見えた。学校へ行く時間のはずだが、彼らはただ時間を潰しているようだ。

「……あの子たち、学校には行かないのかな」 
「行けるわけないだろ。学費が払えないんだ」
 朔夜が吐き捨てるように言う。  
その時、六花がハッとして足を止めた。

「それなら……私たちが教えればいいんじゃない?」 
「え?」 
「京都を復興させるには、やっぱり『人』を育てなきゃ。教育が必要だよ」

 六花の瞳に、再び熱が戻る。
「私たちは幸運にも、平安院学舎で質の高い教育を受けさせてもらってる。その学んだことを、私たちが子供たちに還元していくの。……未来への種まきとして」 
「……なるほど。『青空寺子屋』ってわけか」

 朔夜もまた、そのアイデアに希望を見出した。
「よし、それなら元手もかからない!俺の演技力なら、退屈な授業も面白くできるはずだ!」

 金がなくても、「知識」はある。
それを分け与えることならできるはずだ。
二人の目に、再び希望の光が宿った。

     †

 翌日の昼。少し開けた神社の境内。  
朔夜が地面に木の枝で文字を書き、即席の黒板にしていた。
その周りには、十人ほどの子供たちが集まっている。六花は端でニコニコと見守っている。

「――というわけで、この字は『夢』と読む!」
 朔夜の声が弾む。
「いいかお前ら! これを書けるようになれば、かっこいい大人になれるぞー!」 
「すげー! おいらも書きたい!」 
「先生、次は? 次の字教えて!」

 子供たちの目はキラキラと輝いている。
学ぶことの喜び、新しい世界を知る興奮。

「いける……! 子供たちの目が生き生きしてるな。六花」 
「これこそが、本当の復興の第一歩ね!閻魔大王さんも認めてくれるはずよ」

 二人は顔を見合わせ、確かな手応えを感じていた。  
だが、そのささやかな希望もまた、無惨に踏みにじられることになる。

「おい!!何遊んでやがる!!」

 ドカドカと、薄汚れた野良着を着た男たちが境内に乱入してきた。
子供たちの親だ。

「あ、父ちゃん……」 
「お前ら、こんなとこで油売ってる暇があったら、畑を手伝え!」

 父親の一人が、朔夜が地面に書いた『夢』の文字を、泥足で乱暴に踏み消した。

「あ……!」 
「ちょっと待ってください!俺たちはただ、読み書きを……」 
「ああん? 読み書きだぁ?」

 父親は朔夜の胸ぐらを掴み上げた。
酒と汗、そして染みついた貧困の臭いが鼻をつく。

「字なんか覚えて、腹が膨れるのかよ!」 
「……っ」 
「俺たちが欲しいのは『教養』じゃねえ!『明日の米』なんだよ!」

 朔夜は言葉を失った。  
その怒号は、あまりに切実で、あまりに正しかったからだ。
今日を生きるのに必死な彼らにとって、「未来のための教養」など、腹の足しにもならない贅沢品でしかない。

「そうよ! あんたたちみたいな暇な学生ごっこに、うちの子を巻き込まないで!」
 母親たちも金切り声を上げる。

「父ちゃん、やめてよぉ……先生は悪くないよぉ……」 
「うるせえ!行くぞ!」

 父親は子供の手を引っ張り、引きずっていく。
子供たちは泣きながら連れ戻されていく。

「先生ぇー!」「うわぁぁぁん!」
 子供たちの泣き声が遠ざかっていく。  
後には、踏み荒らされた『夢』の文字の残骸と、呆然と立ち尽くす二人だけが残された。

「……そんな」 
「字を覚えることすら……贅沢だって言うのか……」

 朔夜の膝が震える。  
自分たちの「善意」は、彼らの「生存本能」の前では無意味だった。
教養など、腹を満たしてから言えという現実に、完膚なきまでに叩きのめされた。

「…………」
 六花がしゃがみこみ、消された文字を指でなぞる。
指先が泥で汚れるが、気にする様子もない。

「……悲しいね、朔夜くん」 
「みんな、生きるのに必死すぎて…『未来』なんて見る余裕がないんだ」

 ポツリ。 また、空から雨粒が落ちてきた。  
冷たく、重い雨。それは二人の心に残っていた最後の火種すら、無慈悲に消し去ろうとしていた。

     †

 神社の軒下。激しい雨音が、世界を閉ざしている。  
朔夜は膝を抱えて座り込んでいた。
「……だめだ。綺麗事じゃ、何も救えねえ」
 朔夜の声は、枯れていた。

「歴史も、伝統も、教育も……」 
「今の京都には『無駄なもの』でしかないんだ」
 朔夜の目から、光が消えていく。  
それはかつて、父が蒸発して全てを失った時と同じ、「諦め」の目だった。
策士としての自信も、道化としての余裕も、今は欠片もない。ただの無力な少年に戻っていた。

「……俺たちじゃ、無理だったんだ」
 その言葉は、敗北宣言だった。  
だが。

「…………」
 六花は、朔夜の冷たい手を、そっと自分の両手で包み込んだ。  
温かい。  
朔夜が驚いて顔を上げると、六花は泣いていなかった。
その瞳には、雨音よりも静かで、しかし決して消えない炎が宿っていた。

「……ううん、まだあるよ」
 六花の心の奥底で、何かがカチリと音を立てて外れた。  
(朔夜くん……私には、まだ『最後の手段』があるかもしれない)  
(希望は薄いけど……朔夜くんがこんなに傷つくくらいなら、私は悪魔にだって魂を売る)
 雨の中、六花の決意だけが、静かに燃え上がっていた。
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