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第二章:挫折と覚醒
第7話 私、死神にだってなるよ
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5月の湿った空気が、平安院学舎の教室にまとわりついていた。
だが、教室の中央だけは、梅雨の湿気など存在しないかのように華やいでいる。
西園寺響一郎と鹿鳴館アリスを中心に、選ばれし者たちの笑い声が渦巻いていた。
「琵琶湖疏水の測量が終わった。政府からの追加予算も降りる」
西園寺が懐中時計を確認しながら淡々と告げると、取り巻きの生徒たちが感嘆の声を上げた。
「さすが西園寺様! 仕事が早い!」
「私もよ。フランスから鉄道技師を三人招いたわ。来月には測量開始よ」
「アリス様の電気鉄道計画も順調ですね! 京都が変わりますわ!」
彼らが語るのは、輝かしい「未来」だ。鉄と蒸気と電気がもたらす、確実な繁栄。
その喧騒から遠く離れた、日陰の席。京極朔夜は机に突っ伏し、魂が抜けたように動かない。
「西陣織」も「青空教室」も失敗に終わり、手元に残ったのは無力感だけだ。
泥にまみれ、罵声を浴びた記憶が、彼の自尊心を蝕んでいる。
「……朔夜くん」
隣の席から、久我山六花が小声で話しかけた。
「……あ?」
朔夜の返事は掠れていた。生気がない。
「あ、あのね……お弁当、作ったの。一緒に……」
「いらねえ。……食欲ない」
朔夜は顔を上げようともしなかった。
六花は膝の上で弁当包みを握りしめた。
いつもなら「腹減った!」と飛びつくはずの彼が、今は何も欲しがらない。
それが何より、彼の心が壊れかけている証拠だった。
†
夕方。二人は鴨川沿いの通学路を並んで、無言で歩いていた。
夕日が川面を赤く染めている。
美しい夕景だが、二人の間には重苦しい沈黙が横たわっていた。
「…………」
俯いて歩く朔夜の背中は、ひどく小さく見えた。
いつもの自信に満ちた背中はどこへ行ってしまったのか。
六花はその頼りない背中を見つめながら、不意に、古い記憶を蘇らせていた。
あれは4年前――二人がまだ13歳だった頃のことだ。
*
(明治12年・回想)
中等部の体操の時間。
校庭の砂埃の中、十三歳の六花は派手に転倒した。
「ったぁ……っ!」
ハードルに足を引っ掛けたのだ。
膝を擦りむき、滲んだ血が白い靴下を汚していく。
周囲の男子生徒たちがクスクスと笑った。
「うわ、ドジだなー」
「久我山、運動オンチすぎ」
恥ずかしさと痛みで涙目になった六花の視界に、一人の少年が飛び込んできた。
朔夜だ。 彼は眉をひそめ、誰よりも早く駆け寄ってきた。
「……おい、立てるか?」
朔夜は何も言わず、六花の前に背中を向けてしゃがみ込んだ。
「乗れよ。保健室行くぞ」
「えっ……でも、みんな見てるし……」
「いいから乗れ」
有無を言わせぬ口調に、六花はおずおずとその背中に腕を回した。
朔夜が立ち上がる。
彼の体温と、運動着の汗の匂いが鼻をくすぐる。
歩き出す朔夜。その歩調は、驚くほど安定していた。
「……ごめんね。私、重いでしょ?下ろしてよ」
「じっとしてろ」
「だって、重いもの……」
六花が身を縮めると、朔夜は少し歩を緩め、背中の彼女を持ち上げ直した。
「……重いな。でも、心地よい重さだ」
「え……?」
「この重さが『俺の人生』でずっと背負えるなら、悪くない」
朔夜の耳が、夕焼けよりも赤く染まっていた。
六花は言葉を失い、その背中に顔を埋めた。
トクン、トクンと鳴る自分の心臓の音が、彼に聞こえてしまいそうで怖かった。
保健室には先生がいなかった。消毒液のツンとした匂いが鼻をつく。
ベッドの縁に座らされた六花の足元に、朔夜が膝をつく。
手には消毒液を含ませた脱脂綿を持っていた。
「……沁みるぞ。動くなよ」
(意外に、手つきが優しい…。私を『壊れ物』みたいに丁寧に扱ってくれる)
朔夜の指先が、傷口に触れる。
「っ……!」
激痛に、六花が顔をしかめた。
朔夜はすぐに手を止め、六花を見上げた。
その瞳は、ふざけている時の彼とは別人のように真剣だった。
「痛えか? ……我慢しろ、すぐ終わる」
朔夜は自分の制服の袖をまくり、白い腕を六花の口元に差し出した。
「痛ければ、俺の腕を噛め」
「え?」
「俺の腕ならいくら傷ついてもいい」
朔夜は真っ直ぐに六花を見つめた。
「……お前の痛みは、俺が引き受けるよ」
その言葉に射抜かれ、六花は息をするのも忘れた。
痛みなど、もうどうでもよかった。
六花は噛む代わりに、その腕にそっと額を押し当てた。彼の脈動が、直に伝わってくる。
(私を、何よりも大事に扱ってくれる)
(この人のためなら……私、どんな痛みだって耐えられる)
*
(現在)
そして今、六花の目の前には、自信を失い、ボロボロになった十六歳の朔夜がいた。
あの頃の、太陽のように眩しかった彼は、もういない。
(……やっぱり、嫌だ)
(こんな朔夜くん、見たくない。…あの頃の、元気な彼に戻ってほしい)
六花の中で、何かが決壊した。
彼が苦しんでいる。
なら、今度は私が、彼の痛みを引き受ける番だ。
たとえ、嫌われることになったとしても。
「……朔夜くん」
六花は立ち止まった。
朔夜がのろのろと振り返る。死んだ魚のような目だ。
「話があるの。……大事な話」
「なんだよ、改まって」
六花は左手を胸に当て、深呼吸した。
手袋の下の指先が、微かに震えている。
「嫌われるかもしれないけど……勇気を出して言うね。私……『変な特殊能力』があるの」
「……は?」
朔夜の目が、少しだけ開かれた。
「隠しててごめんなさい。誰にも言えなかったんだけど……私、触れた生き物を『老化』させちゃうみたいなの」
「老化……?」
「前に、ここで魚を捕ろうとした時…触った瞬間に死んじゃって…。何度試しても同じだった」
「…どういうことだ?」
「信じられないよね」
六花は自嘲気味に笑った。
朔夜の顔色が変わる。
「何も役立てられないかもしれないけど。朔夜くんなら何か、思いつくかもしれない。…見てて」
六花は河原に降りた。浅瀬に、一匹のアマガエルが泳いでいる。
六花は手袋を外し、素手を水面に近づけた。
「ごめんね……」
六花が素早く手を伸ばし、カエルの背に柔らかく触れる。
その瞬間。
ジュワッ……。
水中で小さな泡が立った。
ピチピチと跳ねていたカエルの緑色の皮膚が、一瞬で茶色く変色し、水分を失ってシワシワに萎んでいく。
カエルは苦しむ間もなく、干からびた枯れ葉のようになって水面にプカリと浮いた。
完全に、老衰して死んでいる。あまりにも呆気ない、時間の略奪。
「う、わぁ……!!」
朔夜が悲鳴を上げ、尻餅をついて後ずさった。
「死んだ……!?一瞬で!?」
六花は、濡れた自分の左手を見つめた。
恐ろしい手だ。命を奪う、死神の手。
「…気持ち悪いよね…。私、呪われてるの……」
朔夜が荒い息を吐きながら立ち上がる。
その目は恐怖で見開かれていた。
「……おい、六花」
「……はい」
「怖いよ。その左手で、絶対に俺を触るなよ」
六花の心臓が、冷たく凍りついた。
「……っ! う、うん……」
(やっぱり、嫌われちゃった……)
覚悟はしていたけれど、朔夜からの拒絶は、想像以上に心をえぐった。
だが、朔夜は震えながらも、ニヤリと歪んだ笑みを浮かべた。
「信じらんねえ…。殺傷能力抜群じゃねえか。これは…最強の『武器』になるかもしれねえ」 「え……?」
「脅しか、暗殺か…使いようによっちゃあ、あいつらを出し抜ける!」
朔夜の顔に、悪巧みをする時の色が戻る。
しかし、すぐにその表情が曇り、彼は頭を抱えた。
「……いや、待てよ。今回の試験は『京都の復興』だぞ?」
「あ……」
「『殺す』能力で、どうやって街を救うんだよ!?カエル殺しても、人殺しても…復興にはなんねえだろ!」
朔夜の叫びが、夕闇の河原に虚しく響く。
「やっぱり使えないよね…。この能力は『破壊』の力。街を豊かにしたり、人を幸せにすることはできないね」
「くそっ……!やっぱり俺らは詰んでるのか!?」
朔夜は地面を蹴った。
「金も人脈もない俺たちが、持ってるのは『死神の手』だけ…。どうしろってんだよ…!」
万策尽きた。
夕闇が濃くなる河原で、二人は立ち尽くすしかなかった。
その時。
頭上の三条大橋から、冷ややかな声が降ってきた。
「――そこで何をしている、京極」
ハッとして見上げると、橋の欄干に西園寺響一郎と鹿鳴館アリスが並んで立っていた。
夕日を背にし、二人を完全に見下ろす構図だ。
「西園寺……!」
「泥遊びか? 相変わらず暇そうだな」
西園寺は懐中時計を見ることすらせず、侮蔑の眼差しを向けた。
「僕は今日、琵琶湖疏水周辺の用地買収を八割方完了させた。予定より12時間早い進捗だ。来週には着工だ。…君が泥をこねている間に、地図が書き換わるぞ」
アリスが扇子を広げ、クスクスと笑う。
「あら、西園寺様。いけませんわ。彼らには彼らなりの『おままごと』があるんですもの」
「……」
「私も、フランスからの技師団との契約を済ませましたわ。電気鉄道の路線地も確保済みよ。……ねえ、京極さんと久我山さん。そろそろ『身の程』を悟ったら?」
「……行くぞ、アリス。時間の無駄だ」
「ええ。ごきげんよう、ゴミあさりのお二人さん。あなたたちが子供のお遊戯をしている間、私たちはフューチャー(未来)へ進んでいるわ」
二人は興味なさそうに背を向け、橋を渡って去っていく。
その姿は、あまりにも遠く、高く、輝いて見えた。
†
橋の下に残された二人。
「……くそっ」
朔夜は、足元の石を力任せに川へ蹴り込んだ。
「なんなんだよ…!あいつらは金と権力で『地図』を変えるってのに……俺たちはカエル一匹殺して終わりかよ!」
「こんな能力…どう使えばいいんだよ」
朔夜の悲痛な叫び。
だが、六花は泣いていなかった。
俯いてはいるが、その拳は震えるほど強く握りしめられている。
(……ムカつく)
(朔夜くんを見下ろしていいのは、神様だけよ)
(あんな成金女に、朔夜くんのカッコよさの何が分かるの?)
六花の中で、何かが音を立てて砕け、そして再構築された。
もう、ただ守られるだけの少女ではいられない。
彼女は自分の左手を、胸元で強く握りしめた。
呪うべきこの手を、今は武器として使う覚悟を決めたのだ。
「……朔夜くん」
「え?」
「あんな奴らの言葉、一秒で忘れて。朔夜くんの耳が汚れるわ」
その声の冷たさに、朔夜は思わずたじろいだ。
「お、おう…?(なんか今日、迫力が……)」
「見返してやろうよ」
六花は、去っていった西園寺たちの背中を睨みつけた。
「あいつらが泣いて土下座して、『京極様、参りました』って言うまで…私、絶対に許さないから」
「……!」
その剣幕に押され、朔夜の目に冷静な色が戻る。
そうだ。ここで腐っていては、あの高慢な連中の思う壺だ。
「……ああ。そうだな」
朔夜はニヤリと笑った。
それは弱者の笑いではなく、反撃を誓う狼の笑みだった。
「やってやるよ。……見てろよ、クソエリートども」
太陽が完全に沈み、夜が来る。
しかし、二人の瞳には、逆襲の光が確かに灯っていた。
だが、教室の中央だけは、梅雨の湿気など存在しないかのように華やいでいる。
西園寺響一郎と鹿鳴館アリスを中心に、選ばれし者たちの笑い声が渦巻いていた。
「琵琶湖疏水の測量が終わった。政府からの追加予算も降りる」
西園寺が懐中時計を確認しながら淡々と告げると、取り巻きの生徒たちが感嘆の声を上げた。
「さすが西園寺様! 仕事が早い!」
「私もよ。フランスから鉄道技師を三人招いたわ。来月には測量開始よ」
「アリス様の電気鉄道計画も順調ですね! 京都が変わりますわ!」
彼らが語るのは、輝かしい「未来」だ。鉄と蒸気と電気がもたらす、確実な繁栄。
その喧騒から遠く離れた、日陰の席。京極朔夜は机に突っ伏し、魂が抜けたように動かない。
「西陣織」も「青空教室」も失敗に終わり、手元に残ったのは無力感だけだ。
泥にまみれ、罵声を浴びた記憶が、彼の自尊心を蝕んでいる。
「……朔夜くん」
隣の席から、久我山六花が小声で話しかけた。
「……あ?」
朔夜の返事は掠れていた。生気がない。
「あ、あのね……お弁当、作ったの。一緒に……」
「いらねえ。……食欲ない」
朔夜は顔を上げようともしなかった。
六花は膝の上で弁当包みを握りしめた。
いつもなら「腹減った!」と飛びつくはずの彼が、今は何も欲しがらない。
それが何より、彼の心が壊れかけている証拠だった。
†
夕方。二人は鴨川沿いの通学路を並んで、無言で歩いていた。
夕日が川面を赤く染めている。
美しい夕景だが、二人の間には重苦しい沈黙が横たわっていた。
「…………」
俯いて歩く朔夜の背中は、ひどく小さく見えた。
いつもの自信に満ちた背中はどこへ行ってしまったのか。
六花はその頼りない背中を見つめながら、不意に、古い記憶を蘇らせていた。
あれは4年前――二人がまだ13歳だった頃のことだ。
*
(明治12年・回想)
中等部の体操の時間。
校庭の砂埃の中、十三歳の六花は派手に転倒した。
「ったぁ……っ!」
ハードルに足を引っ掛けたのだ。
膝を擦りむき、滲んだ血が白い靴下を汚していく。
周囲の男子生徒たちがクスクスと笑った。
「うわ、ドジだなー」
「久我山、運動オンチすぎ」
恥ずかしさと痛みで涙目になった六花の視界に、一人の少年が飛び込んできた。
朔夜だ。 彼は眉をひそめ、誰よりも早く駆け寄ってきた。
「……おい、立てるか?」
朔夜は何も言わず、六花の前に背中を向けてしゃがみ込んだ。
「乗れよ。保健室行くぞ」
「えっ……でも、みんな見てるし……」
「いいから乗れ」
有無を言わせぬ口調に、六花はおずおずとその背中に腕を回した。
朔夜が立ち上がる。
彼の体温と、運動着の汗の匂いが鼻をくすぐる。
歩き出す朔夜。その歩調は、驚くほど安定していた。
「……ごめんね。私、重いでしょ?下ろしてよ」
「じっとしてろ」
「だって、重いもの……」
六花が身を縮めると、朔夜は少し歩を緩め、背中の彼女を持ち上げ直した。
「……重いな。でも、心地よい重さだ」
「え……?」
「この重さが『俺の人生』でずっと背負えるなら、悪くない」
朔夜の耳が、夕焼けよりも赤く染まっていた。
六花は言葉を失い、その背中に顔を埋めた。
トクン、トクンと鳴る自分の心臓の音が、彼に聞こえてしまいそうで怖かった。
保健室には先生がいなかった。消毒液のツンとした匂いが鼻をつく。
ベッドの縁に座らされた六花の足元に、朔夜が膝をつく。
手には消毒液を含ませた脱脂綿を持っていた。
「……沁みるぞ。動くなよ」
(意外に、手つきが優しい…。私を『壊れ物』みたいに丁寧に扱ってくれる)
朔夜の指先が、傷口に触れる。
「っ……!」
激痛に、六花が顔をしかめた。
朔夜はすぐに手を止め、六花を見上げた。
その瞳は、ふざけている時の彼とは別人のように真剣だった。
「痛えか? ……我慢しろ、すぐ終わる」
朔夜は自分の制服の袖をまくり、白い腕を六花の口元に差し出した。
「痛ければ、俺の腕を噛め」
「え?」
「俺の腕ならいくら傷ついてもいい」
朔夜は真っ直ぐに六花を見つめた。
「……お前の痛みは、俺が引き受けるよ」
その言葉に射抜かれ、六花は息をするのも忘れた。
痛みなど、もうどうでもよかった。
六花は噛む代わりに、その腕にそっと額を押し当てた。彼の脈動が、直に伝わってくる。
(私を、何よりも大事に扱ってくれる)
(この人のためなら……私、どんな痛みだって耐えられる)
*
(現在)
そして今、六花の目の前には、自信を失い、ボロボロになった十六歳の朔夜がいた。
あの頃の、太陽のように眩しかった彼は、もういない。
(……やっぱり、嫌だ)
(こんな朔夜くん、見たくない。…あの頃の、元気な彼に戻ってほしい)
六花の中で、何かが決壊した。
彼が苦しんでいる。
なら、今度は私が、彼の痛みを引き受ける番だ。
たとえ、嫌われることになったとしても。
「……朔夜くん」
六花は立ち止まった。
朔夜がのろのろと振り返る。死んだ魚のような目だ。
「話があるの。……大事な話」
「なんだよ、改まって」
六花は左手を胸に当て、深呼吸した。
手袋の下の指先が、微かに震えている。
「嫌われるかもしれないけど……勇気を出して言うね。私……『変な特殊能力』があるの」
「……は?」
朔夜の目が、少しだけ開かれた。
「隠しててごめんなさい。誰にも言えなかったんだけど……私、触れた生き物を『老化』させちゃうみたいなの」
「老化……?」
「前に、ここで魚を捕ろうとした時…触った瞬間に死んじゃって…。何度試しても同じだった」
「…どういうことだ?」
「信じられないよね」
六花は自嘲気味に笑った。
朔夜の顔色が変わる。
「何も役立てられないかもしれないけど。朔夜くんなら何か、思いつくかもしれない。…見てて」
六花は河原に降りた。浅瀬に、一匹のアマガエルが泳いでいる。
六花は手袋を外し、素手を水面に近づけた。
「ごめんね……」
六花が素早く手を伸ばし、カエルの背に柔らかく触れる。
その瞬間。
ジュワッ……。
水中で小さな泡が立った。
ピチピチと跳ねていたカエルの緑色の皮膚が、一瞬で茶色く変色し、水分を失ってシワシワに萎んでいく。
カエルは苦しむ間もなく、干からびた枯れ葉のようになって水面にプカリと浮いた。
完全に、老衰して死んでいる。あまりにも呆気ない、時間の略奪。
「う、わぁ……!!」
朔夜が悲鳴を上げ、尻餅をついて後ずさった。
「死んだ……!?一瞬で!?」
六花は、濡れた自分の左手を見つめた。
恐ろしい手だ。命を奪う、死神の手。
「…気持ち悪いよね…。私、呪われてるの……」
朔夜が荒い息を吐きながら立ち上がる。
その目は恐怖で見開かれていた。
「……おい、六花」
「……はい」
「怖いよ。その左手で、絶対に俺を触るなよ」
六花の心臓が、冷たく凍りついた。
「……っ! う、うん……」
(やっぱり、嫌われちゃった……)
覚悟はしていたけれど、朔夜からの拒絶は、想像以上に心をえぐった。
だが、朔夜は震えながらも、ニヤリと歪んだ笑みを浮かべた。
「信じらんねえ…。殺傷能力抜群じゃねえか。これは…最強の『武器』になるかもしれねえ」 「え……?」
「脅しか、暗殺か…使いようによっちゃあ、あいつらを出し抜ける!」
朔夜の顔に、悪巧みをする時の色が戻る。
しかし、すぐにその表情が曇り、彼は頭を抱えた。
「……いや、待てよ。今回の試験は『京都の復興』だぞ?」
「あ……」
「『殺す』能力で、どうやって街を救うんだよ!?カエル殺しても、人殺しても…復興にはなんねえだろ!」
朔夜の叫びが、夕闇の河原に虚しく響く。
「やっぱり使えないよね…。この能力は『破壊』の力。街を豊かにしたり、人を幸せにすることはできないね」
「くそっ……!やっぱり俺らは詰んでるのか!?」
朔夜は地面を蹴った。
「金も人脈もない俺たちが、持ってるのは『死神の手』だけ…。どうしろってんだよ…!」
万策尽きた。
夕闇が濃くなる河原で、二人は立ち尽くすしかなかった。
その時。
頭上の三条大橋から、冷ややかな声が降ってきた。
「――そこで何をしている、京極」
ハッとして見上げると、橋の欄干に西園寺響一郎と鹿鳴館アリスが並んで立っていた。
夕日を背にし、二人を完全に見下ろす構図だ。
「西園寺……!」
「泥遊びか? 相変わらず暇そうだな」
西園寺は懐中時計を見ることすらせず、侮蔑の眼差しを向けた。
「僕は今日、琵琶湖疏水周辺の用地買収を八割方完了させた。予定より12時間早い進捗だ。来週には着工だ。…君が泥をこねている間に、地図が書き換わるぞ」
アリスが扇子を広げ、クスクスと笑う。
「あら、西園寺様。いけませんわ。彼らには彼らなりの『おままごと』があるんですもの」
「……」
「私も、フランスからの技師団との契約を済ませましたわ。電気鉄道の路線地も確保済みよ。……ねえ、京極さんと久我山さん。そろそろ『身の程』を悟ったら?」
「……行くぞ、アリス。時間の無駄だ」
「ええ。ごきげんよう、ゴミあさりのお二人さん。あなたたちが子供のお遊戯をしている間、私たちはフューチャー(未来)へ進んでいるわ」
二人は興味なさそうに背を向け、橋を渡って去っていく。
その姿は、あまりにも遠く、高く、輝いて見えた。
†
橋の下に残された二人。
「……くそっ」
朔夜は、足元の石を力任せに川へ蹴り込んだ。
「なんなんだよ…!あいつらは金と権力で『地図』を変えるってのに……俺たちはカエル一匹殺して終わりかよ!」
「こんな能力…どう使えばいいんだよ」
朔夜の悲痛な叫び。
だが、六花は泣いていなかった。
俯いてはいるが、その拳は震えるほど強く握りしめられている。
(……ムカつく)
(朔夜くんを見下ろしていいのは、神様だけよ)
(あんな成金女に、朔夜くんのカッコよさの何が分かるの?)
六花の中で、何かが音を立てて砕け、そして再構築された。
もう、ただ守られるだけの少女ではいられない。
彼女は自分の左手を、胸元で強く握りしめた。
呪うべきこの手を、今は武器として使う覚悟を決めたのだ。
「……朔夜くん」
「え?」
「あんな奴らの言葉、一秒で忘れて。朔夜くんの耳が汚れるわ」
その声の冷たさに、朔夜は思わずたじろいだ。
「お、おう…?(なんか今日、迫力が……)」
「見返してやろうよ」
六花は、去っていった西園寺たちの背中を睨みつけた。
「あいつらが泣いて土下座して、『京極様、参りました』って言うまで…私、絶対に許さないから」
「……!」
その剣幕に押され、朔夜の目に冷静な色が戻る。
そうだ。ここで腐っていては、あの高慢な連中の思う壺だ。
「……ああ。そうだな」
朔夜はニヤリと笑った。
それは弱者の笑いではなく、反撃を誓う狼の笑みだった。
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「君を愛することはない」で始まった不遇な結婚――。
国王の命令でクラーヴァル公爵家へと嫁いだ伯爵令嬢ヴィオラ。しかし夫のルシウスに愛されることはなく、毎日つらい仕打ちを受けていた。
孤独に耐えるヴィオラにとって唯一の救いは、護衛騎士エデン・アーヴィスと過ごした日々の思い出だった。エデンは強くて誠実で、いつもヴィオラを守ってくれた……でも、彼はもういない。この国を襲った『災禍の竜』と相打ちになって、3年前に戦死してしまったのだから。
ある日、参加した夜会の席でヴィオラは窮地に立たされる。その夜会は夫の愛人が主催するもので、夫と結託してヴィオラを陥れようとしていたのだ。誰に救いを求めることもできず、絶体絶命の彼女を救ったのは――?
(……私の体が、勝手に動いている!?)
「地獄で悔いろ、下郎が。このエデン・アーヴィスの目の黒いうちは、ヴィオラ様に指一本触れさせはしない!」
死んだはずのエデンの魂が、ヴィオラの体に乗り移っていた!?
――これは、望まぬ結婚をさせられた伯爵令嬢ヴィオラと、死んだはずの護衛騎士エデンのふしぎな恋の物語。理不尽な夫になんて、もう絶対に負けません!!
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