涙と花

カイ異

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狂い咲く愛と軽蔑

狂い咲く愛慕

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 唯理は目の前の少年を見て気を張り詰めていた。石人の表情や雰囲気は最後に会ったよりも暗く陰湿な物へと変化している。
「石人くん、どうしてここに来たの?」
 雨車が恐る恐る尋ねた。その問いに石人は自傷気味に笑ってみせる。まるで歯車が外れたかのように笑い続ける石人に雨車は言いようのない恐ろしさを感じた。
「ここだけが僕の幸せの証だから」
 石人の答えに唯理は目を細める。昨日自分の仮説を伝えた雨車も、何か察するものがあったらしく口を閉ざしていた。
「すべてを思い出した上でそう言ってるのか?」
 唯理の問いに、石人は自身の額を手で覆いながら呟いた。
「ええ。すべて思い出しました。思い出したくことも」
 石人の抽象的な言葉はまるでこちらをからかうようでもあり、自虐しているようでもあった。その様子に唯理は最初のカードを切る選択をする。
「それは親に愛されていなかったということか?」
 場の空気が一瞬で変わったことを三人はすぐに理解した。冷たいなどという言葉では言い表せない、凍えるような火花が唯理と石人の間にあった。
「ねぇ、石人くんは本当に伯母さんからうとまれていたの?」
 我慢できないとばかりに雨車が声を上げた。雨車としてはこの可能性が間違いであってほしいのだろう。自分だってそうだ。こんなことできれば想像さえしたくなかった。
「いつから気づいてたんですか?」
 その言葉は肯定と同義だった。もう決定してしまった答えに唯理は顔をしかめる。
 ここで違うと否定されることを、本当は自分も願っていたのだと思う。だがそれはもはやかなわない。
「最初に違和感を覚えたのは君の話だ。君は特別な思い出を細かいところまで覚えていたのに、日常のことはほとんど何も答えられなかった」
 もちろん楽しかったことをよく覚えているのは不自然ではない。だが、人間は同じくらい嫌な思い出もなかなか忘れない。
 そして日常生活はそれこそ不満の宝庫だ。大事はなかったとしても、小さな愚痴や不満がないなんてことはあり得ない。
「正直、最初は記憶喪失だからだと納得しようとした。だが、どうしてそういう忘れ方をしたのか考えると、俺の中で一つ心当たりのあることがあった」
「回りくどいですね。もっとはっきり言ってくれませんか?」
 唯理は石人の目を見つめる。濁ったその目からは感情が読み取れなかった。
「君が話した母との思い出、それはすべて君の妄想だろう? だから君は覚えていた。それが本当の母との思い出なんかじゃなくて、自分が何度も思い描いた理想の光景だったから。心のよりどころとして、脳に焼き付くまで何度も想像した願いだったから。だから君は話すことができた」
 唯理の話を聞いて、石人はあきれたようにため息をつく。そしてさげすむような目をこちらに向けた。
「唯理さんは僕が考えてることがわかるって言うんですか? そうでもない限り唯理さんの言うことはただの妄想では?」
 唯理に見ることのできる花は大まかな情報しか与えてくれない。まして人の考えを知ることは不可能だ。だが、何の根拠もない発言ではなかった。
「実際に行ってきたよ。お前が行ったっていう動物園」
 石人の目が警戒するように細まったのを唯理は捉えた。その微かな動揺を唯理は鋭く突く。
「君が詳しく話してくれたから、調べることはすごく簡単だった。そしてすぐに気づいたよ。おかしな点に」
 唯理は先日のことを思い出す。
 動物園へと向かった日、唯理は何度も石人が語った言葉が本当であるようにと願った。勘違いですむものであればと願った。
 石人がキラキラと目を輝かせながら話す光景。自分とは正反対のその美しい光景を嘘にしたくなかったのだ。
 だが、今はその光景を自分の手で壊すことが唯理のやるべきことだった。
「君が詳しく話した道順は明らかに矛盾だらけだった。展示物の変更や動物園の名前を間違えている可能性も考えた。だが、それも違う。大掛かりな工事はその動物園で過去数年間起こっていないし、君がはっきりパンダを見たといったことからあの動物園でしかありえない」
 お楽しみ会で聞いたパンダの飼育の話、パンダはあくまで借りているものであるためパンダを飼育している動物園は限られている。
 故に思い出の動物園は一つに絞られる。しかも、はっきりとパンダを見たと言っている節から記憶違いにしてはあまりにもおかしかった。
「そして、もう一つ。君の言った道順は、お楽しみ会の時に行った動物園の道と酷似していた」
「……そこまで気づいてるんですね」
 石人の顔にはもはや余裕が残されておらず、恨めしそうに唯理を睨みつけていた。その視線の強烈さに唯理は背筋に寒いものを感じる。
 畳みかけるなら今しかない。唯理は次のカード切った。
「君の部屋であの動物園のチケットを見つけたよ」
「勝手に開けたんですか!」
 石人の叫びが廊下に響きわたった。石人は怒り狂ったように髪をかきむしると、壁をこぶしで殴る。
「ここからは完全に俺の想像だ。君はまだ低学年の時、母親とお楽しみ会の時の動物園に行く約束をした。だが、君のお母さんは来なかった。だから、君はそのことに心に傷を負いながら一人で動物園を回った。そして思い込ませたんだ。自分と母が幸せな思い出を築いていると。すべては自分の心を守るために」
 石人の家で見つけた動物園のチケット。それに染みついた涙に咲いた花は、記憶を失っていた石人のものよりも明らかに状態が悪かった。完全に壊れてしまっていた。
 その時に、石人の記憶喪失は、彼を母との記憶から守るために起こったのだと唯理は気づいたのだ。
 母との記憶を消し去り、自分が望んだ幸せな偽りの記憶に書き換える。そうすることで無理やり石人の心を治し、唯理の目を欺いたのだと。
 石人は苦々しく歯を噛みしめた。攻撃的な態度を示す石人に注意しながら、唯理は返答を待つ。その時、雨車が口を開いた。
「本当のことを話して、石人くん」
 その声は毅然きぜんとしていて、自分が知らなかった石人を知ろうという決意に満ちていた。
「ええ。そうですよ。母は……母は僕を愛していなかった!」
 憎悪の混じった声だった。あの母を思う石人と同じ人物だと思えないその声に、唯理はやっと本心を引き出せたと確信した。甘く幸福な偽りの記憶を捨てた石人は、もはや憎悪の塊のようだった。
「母さんは僕によく言ってましたよ! こっちに来るなって! まるで怪物を見るような目で僕を見てたんだ!」
 石人は泣き叫ぶ。その目の端からは大粒の涙があふれ、両頬を伝って地面に落ちる。次の瞬間、彼の原種が顕現けんげんした。
 茎は傷にまみれ、本来は優雅で柔らかな花弁はまるで空気の抜けた風船のようにしなびている。そして、ぞっとするほどに黒いオーラがその全身を覆っていた。
 カーネーション。その花言葉は『無垢で深い愛』。だが黄色のカーネーションはもう一つ意味を持つ。そえは『軽蔑』だった。
「ずっと母さんが嫌いだった。僕を腫れ物のように扱う母さんが憎くて仕方がなかった!」
「伯母さんは、どうして……そんな……」
 雨車の口から力のない声が漏れた。それを聞いて石人は狂ったように笑う。
「お母さんはよく言ってたよ。僕がどんどん父さんに似ていくって。あいつと同じになっていくって。母さんは結局一度も僕を見てくれなかった。勉強を頑張っても、運動を頑張っても、どれだけ努力しても、結局見るのは僕の中にいる父さんだけだった。僕はあんなに大切に思ってたのに……母さんは僕を捨てたんだ!」
「それが動機か?」
 唯理は静かに尋ねた。もはや細かい駆け引きはいらない。お互いもう隠すカードは存在しない。あとは食うか食われるかだ。
「ええ、僕が窓を開けました。そして、お母さんに急いで降りるように言ったんです」
 余りにも平然とした口調だった。まるで今日の朝食を話すように、流暢に自分がなしたことを告げる。
「石人くん! 自分が何を言ってるかわかってるの!」
 雨車の絶叫が響き渡った。その目には大粒の涙がたまり、かつてないほど唇を噛みしめていた。これほど怒っている雨車を見たのは初めてだった。
 唯理も怒りたかった。怒れればどれほど楽だっただろう。だが、それよりも唯理は悔やまずにはいられなかった。もうすでに悲劇が起きてしまったことに。あの少年がもはやもう壊れてしまったことに。
「あなたが伯母さんに辛い態度を取られていたのはすごく同情する。でも、だからってどうしてここまでする必要があったの? どんなことがあっても、あなたを育ててくれたたった一人の大切な家族でしょ?」
「大切な……家族? ふざけるな! あいつといるだけでお互い不幸だった。あいつが僕を引き取ったせいで、育てたせいで、僕は何度も苦しんだ。あいつのせいで僕の人生は壊れたんだ!」
 そう吐き捨てると、石人は下を向き、まるで自分に言い聞かせるように呟き始める。
「そうだ。僕の母さんは、僕の大切な母さんはあんなこと言わない。あいつは偽物なんだ……」
「そうやってまた妄想の世界に逃げるのか?」
 唯理はそういうと一歩前に進む。石人も呼応するように唯理を見つめた。これが今回の話し合いの最終局面だと唯理は直感した。
「黙っててくださいよ。もう嫌なんです、何もかも。幻想でも妄想でも構わない。僕を愛する母さんが僕が好きな母さんだ。それ以外は消えてしまえばいい」
「黙れるわけないだろ! 君がやったのは殺人未遂だ。高学年ならわかるだろ? 決して許されない一線を君は超えたんだ。君に必要なのはぬるい妄想なんかじゃない、冷たく厳しい罰だ」
 彼が母に手を下すという選択を取るほど追い詰められていたことは、唯理が誰よりもわかっていた。
 だが、今はその気持ちを切り捨てなくてはならない。今の石人には後悔も反省もない。
 ここで止めてあげなくては、踏み外した道を進み続けてしまう。それでは石人の母も、雨車も、石人自身も、誰も救われない。
「罰? いいですよ。僕を裁いてください。僕はあいつを殺そうとしたんですから。でも、それは僕が僕として生きるためだ。自分の人生を守るためだ。絶対に後悔なんてしない!」
「自分の身を守るためだとしても、明らかにやりすぎている」
「やりすぎだとかそんなことはどうでもいいんですよ。唯理さんに何がわかるんですか? 初めて料理を作った時に投げ捨てられた僕の気持ちがわかりますか? 肩をたたいた時に止めてと叫ばれた時のやるせなさがわかりますか? 許されないことをしたなんてわかってるんです。でも、そんな正論なんかじゃもう何も抑えられないんですよ!」 
 それは石人の心の叫びだった。何年もかけて大きく育った憎しみは、内側から石人を蝕み、もはや石人と一体となっていた。鬼のような形相をした石人に、唯理は再度何かを伝えようとする。
「……」
 唯理は驚きと共に目を見開いた。今何かを言わなくては、石人を納得させる何かを伝えられなくてはすべてが無駄になる。
 それなのに自分の口は何も言ってくれない。唯理は初めて思考が真っ白になったように思えた。
 自分に何が伝えられるだろうか? 母と共に暮らし、そのせいで絶望した少年に、母と暮らしたことのない自分が何を言ってあげられるだろうか?
 唯理は唇を噛みしめた。自分が石人の心を動かせる言葉を持ち合わせていないことなど心の奥底ではわかっていた。
 自分でも、自分が話す言葉よりも石人の憎悪の方が納得できた。親を憎む気持ちは痛いほど理解できた。
「それでも……君の方法は……」
 ダメだとはっきり言うことができなかった。冷たい汗が額を流れ、頬を伝う。
 唯理はうるさい鼓動を鎮めるように服の左胸を握りしめた。そして、自分が石人の方が正しいのではないかと思い始めている事実に愕然とする。
「……ください」
「え……」
「しっかりしてください!」
 耳元で叫ぶ雨車の声に唯理ははっと顔を上げた。目を横にやると焦ったような顔の雨車がこちらを見ていた。
 唯理は必死に冷静になろうと深呼吸を繰り返す。しかし、それ以上何かをする余力はなかった。
「初めてあなたに会った時から、あなたが嫌いでした」
 焦点が定まらない中で石人の淡々とした声が聞こえた。
「今なら理由がわかります。あなたも同じでしょう。愛されなかった人間でしょう? 僕にはわかります。そしてだからこそ許せなかったんです。何でもないというようにすました態度をとるあなたが!」
「違う! 悪いのは俺なんだ。だから……俺は……」
 その言葉を聞き、石人は軽蔑したように鼻を鳴らした。
「自分の気持ちにも素直になれず、僕を説得する理論もない。くだらないですね。警察には言いたければ言って構いません。仮に捕まったとしても僕は構わない。僕は自分が間違っているとは絶対に思わない」
 石人はそういうと唯理の横を通り過ぎる。もう話すことはないとばかりに、心からの軽蔑をぶつけるように、石人は一度も唯理の顔を見なかった。
「待って!」
 雨車の声を聞き、唯理は振り返る。雨車は歩き去ろうとする石人の腕を強く握っていた。ぷるぷると震える雨車の腕から、どれほど強く握っているのか理解できた。
「本当にあんな方法でよかったの? 私たちに伝えるっていう選択肢はなかったの?」
 石人は何も言わなかった。しかし、まるでこれが答えだというばかりに雨車の手を振りほどく。
 ガチャリと玄関の扉が開いた後、バタンと閉じられる音が静寂に響き渡った。 
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