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クリスを探して

9 小さな背中

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 社会福祉団体が王宮を訪問し、ハリーは挨拶や活動報告を受ける。それが、この日の唯一の予定。
 空いた時間は、普段できない事───政治的な文書や自分の資産関連の書類に目を通したり、投書や今後の公務に関する事務処理に充てる。摂政殿下に休む暇など与えられない。
 が、さすがに昨夜はあまり眠れなかったので、ハリーは寝坊をさせてもらう事になった。
 アーロンの部屋のベッドで眠っている。
 その間にアーロンは、ステファンの取り調べに立ち会った。
 ステファンは、簡素な椅子と机のある狭い部屋で、煌々とライトに照らされ、一睡もさせてもらえていない。疲れた顔をしているが、ふてぶてしい程に落ち着いて座り、淡々と答えている。
───クリスなら、とっくに倒れてる。
 比べるのは申し訳ないが、この事実1つを取っても、ステファンを別人と証明する材料として見るアーロン。
「お前のいない時に、勝手に進めてしまって悪かったな、アーロン。お前の見立て通りだった」
 マジックミラーの裏側に立つアーロンの横で、ヴェルナーが云った。
 監視カメラを見直し、ステファンの自宅から逆再生して、ステファニーと名乗った人物の足取りが掴めたそうだ。
「まるで、カメラの位置を把握してるみたいに、死角を選んで移動してた。だから見失ってたんだな」
 ひと呼吸挟むヴェルナー。「───プロだな、まるで」
「自供してるのか?」
 ステファンから目を離さずに訊くアーロン。
「ああ。何度訊いても、誰が訊いても答えに矛盾はない。供述に間違はいないだろう」
 そう答えるヴェルナーの方が、大きなあくびをする。
「派遣元の会社と連絡はついたのか?」
「会社の始業時間を待って、ベルジュの上司から話を聞く。場合によっては、家宅捜索の令状を取るさ」
「意外だな。警察に行かせるのか?」
「相手はこの国最大の企業の1つだ。いかに軍と云えども、勝手に行動すると、政治家先生のお叱りを受けるんだと」
 肩をすくめるヴェルナーを、眉を上げて見下ろすアーロン。
「軍部に物を云うなら、政治家の力を使えばいいのか」
「政治家の力じゃない。カネの力だ。派遣元のレムケは多額の政治資金を提供してるからな。この国でいちばんエラいのは、軍でも政治家でもなく、大手企業じゃないか?」
「摂政でも、ないな」
 ヴェルナーのせいではないが、アーロンは嫌味を込めて云った。
「殿下を動揺させてしまったことは、軍でも問題視されてる。近い内に、上から何か云われるだろう。事を急いだ訳は、この件は早急に片付ける必要があったからだ。───殿下のご様子はどうだ?」
「睡眠が充分とは云えないようだったから、予定の公務の時間まではお休みして頂いている」
「眠れなかったのか?」
 ヴェルナーは意外そうに目を見張った。護衛のチームの連中には、ハリーのバックアップスタッフの事は分からない。使用人が連行されたくらいで、眠れない程ショックを受ける国王代理なのか?
「使用人といえども、家族のように扱う。それがフリートウッド家の教育方針だそうだ」
 もちろん、立場をわきまえた上での事。だからこそ、危険な場面ではみんな、いつでもハリーの盾になる覚悟が出来ている。むしろ、兄弟よりも結び付きは強いかも知れない。
「殿下は胸を痛めておいでだった」
「そうか。それについては後で、ボスが謝罪に伺うそうだ」
「彼は、どうなるんだ?」
 明るい窓に向かって、アーロンは軽く顎をしゃくる。
「さあな」
「さあな、て、一晩かけて聴取したんだろ?」
「決めるのは上の連中だよ」
 労力の割には見返り───この場合はチームの手柄───が少ない、とヴェルナーには解っている。
 アーロンは薄い封筒を軽く掲げて、
「ステファン=ベルジュから、DNAを採取したいんだ。いいだろ?」
「ああ。好きにしろ」
「投げやりだなあ」
「今日は非番だったのに、俺まで早朝に呼び出されたんだ。ヘッダのご機嫌取る事で頭がいっぱいだよ」
 ステファンの連行の後、家族サービスを楽しみに帰ったヴェルナー。しかし、ハリーへの謝罪の為に各所を回らなければならなくなったボチェクの代わりに、チームの指揮を取らなければならなくなった。
 慰めるようにヴェルナーの肩を叩いて、アーロンはステファンの聴取を担当者と交代した。



 ステファンの前に座ると、初めて彼は顔を上げた。
「ワイアット先生...」
 小さく呟くように云った。その目が動揺しているようにも見えたが、どんな感情なのかまでは、アーロンにも判らない。ただ、これまででいちばん、クリスに似た顔だった。
「ニューエンブルグ城で、白骨の遺体が発見された事件、知ってる?」
「はい。───ハリー殿下が摂政に就任される直前の事ですよね」
 ステファンは淡々と、しかししっかりとした口調で淀みなく答えた。
 ふたりが対峙するのは、これが2度目。しかしそこに、距離感は全くない。
「あの件で、君のDNAが必要なんだ。協力してくれるね、ステファン」
 アーロンは持ってきた書類にサインを求めた。それが済むと、綿棒の先で口の中を擦るように指示した。
「ありがとう、助かるよ」
 綿棒をケースに入れると、アーロンはそれを横に置いて、ステファンに改めて向き直る。
「あの...まだ、何か?」
「ノートを見たよ」
 アーロンの言葉に、ステファンは僅かに動揺したようだった。
「ハリー殿下も、アレを、ご覧に...?」
「ご覧にはなったと思うけど、中身よりも殿下は、君の事をとても心配しておられたよ」
 大きなため息をつくステファン。
「大変、申し訳ありません」
 落ち込んで俯いたように、アーロンには見えた。演技やわざとやって見せている態度とは思えない。
「さっきここに来たばかりで何も聞いてないんだよ。何度も訊かれたと思うけど、殿下の誘拐の件、話してくれる?」
「はい」
 ステファンは短く答えた。
 アーロンの耳にはイヤホンが装着されていて、この部屋を監視している者からの声が聞こえる。無論、二人の会話は筒抜け。
「何故、あの連中の話に乗ったの?」
「ハリー殿下に、お会いしてみたかったんです」
「有名人だったから?」
「いいえ」
「じゃ、連中と同じ、金銭目的?」
「いいえ。あのノートを見て、探していたんです、アーロン・ワイアットという人物を」
 疲れた顔で見上げるステファンの目は、力強かった。
「ハリー殿下とまだ繋がりがあるのなら、アーロンに辿り着くかと思って、彼等と一緒に行動しました」
「修道院を出て行く前───」
 アーロンは、ふいに云った。「クリスの具合が良い時は、そんな目をする事があったよ」
 ステファンのブルーの瞳が、まるで生気を取り戻した様に潤んで揺れる。
「もっと、聞かせてください、ワイアット先生。───僕は、クリスの事が知りたくて、あなたを探していたんです!」
 ステファンは、自分に課していたルールを破り、素直に求めた。
 アーロンもまた、自分しか知らない思い出の人の事を、思う存分語れる事に喜びを感じながら話して聞かせた。
「クリスは、いつも一人で、修道院の花壇の縁に座っていたり、木に寄りかかったりして、遠くを見てた」



 基本的に、クリスは常に一人だった。
 時々、修道院や学校の誰かと一緒にいる事もあったが、付き合いが続くという事はなく、必ず数日で一人に戻っていた。
 その一人に訊いてみた事がある。
「今日は、クリスと一緒じゃないの、オイゲン?」
「サッカーしよう、て誘ったんだけど、嫌だって云われたんだ。せっかく誘ったのに」
 くっきりとした黒色の眉を曇らせた。
 クリスは運動も苦手だった。小柄なうえに細くて、同じ年頃の子供より体力がかなり劣っていた。普段から省エネ行動のタイプで、急がない悔しがらない頑張らない、敢えて虚弱を保っているような子だった。
 学校の成績もそんな風で、解らない事があっても、誰にも聞かず、自分でも調べず、教科書もあまり読まない。



「クリスは、ダメな子だった」
 まるで自嘲するように、アーロンは云った。「───コミュニケーションを取るのも下手で、すぐに気を悪くするし、気分屋で、相手の事をあまり考えて行動してなかった」
「発達障害、ですか?」
「いや、クリスの場合は、単なる学習不足だったんだと思う。普通は家族から学ぶ筈のコミュニケーションを、教えてくれる人がいなかったから」
「それなら、先生も条件は同じでしょう?」
 同じ修道院で育った事は、ステファンは調査済み。
 問いかけにアーロンは、頭を振って答える。
「クリスにはこだわりも欲求もなかったから、欲しい物もすぐ諦めていたし、人と衝突する事を避けていた。誰かと関わる事でコミュニケーションを学ぶ筈なのに、関わろうとしなかったからね」
「なんか、すみません」
「クリスを変えたのは、ファビアンだった」
「ファビアン...!」
 クリスにとって、初めてのひと。
「うん。人を好きになる、て凄い事なんだな、て思ったよ」
 ファビアンを自分だけのものにしたくて、アーロンに声高に宣言したクリス。あの時のクリスは、勇ましかった。
「勇ましかった?」
 今まで語られたクリスには似つかわしくない形容に、思わずオウム返しに聞き返すステファン。
「ああ。勇ましかった」
 笑ったアーロンは、得意げに見えた。
「ファビアンとはその後、どうなったんですか?」
「ファビアンは、それから1ヶ月もしない内に、怪我がもとで亡くなったんだ」
「そんな...」
───だから、彼はあのノートには二度と現れなかったのか...。



 ファビアンを失った悲しみの中で、アーロンはクリスの事を思った。その目はまた、クリスを探し始めていた。但し、今度は意識的に。
 時々、気持ちを紛らわす為に、アーロンは図書館で本を借りた。それを読む場所を探していると、クリスを見つけた。見慣れた小さな背中。
───泣いてるのかな。
 どうやったらいいかは分からないけど、同じ悲しみを抱えている筈だから、慰めたかった。
 驚かせないようにわざと足音が鳴るようにして近付き、隣に立った。
「ここ、座ってもいい?」
 聞こえてる筈なのに、返事がない。座るよ、と云ってアーロンは腰を下ろした。隣を覗き込むと、クリスは寝ていた。
───なんだよ!
 心配したのに、とは思ったものの、自分と同じように、夜はファビアンの事を考えてしまって眠れないのかも、と思い直し、黙って本を開いた。
 目が疲れて横になっていたアーロンは、いつの間にか眠ってしまっていた。その隣に、クリスはいなかった。日が落ちたばかりの薄闇の中で、虫の音に埋もれて独り、なんだかバカらしかったのを覚えている。
 それでもアーロンの挑戦は続いた。
 クリスは起きていても、近づくアーロンを咎めず、しかし立ち去る時も何も云わなかった。



 取調室の無機質な机に頬杖をつく、アーロン。
「動物を相手にしているみたいだったよ。これは心を許してくれている、て事なんだろうか? 敢えて無視なんだろうか? てね」
 やはりどこか自嘲気味に、しかし楽しそうにアーロンは云った。そして真面目に考えるステファン。
「アプローチを仕掛けないと、待ってても無理でしょう?」
「私もそう思って、話しかけてみたんだ」



 「ここ、いい?」「座るよ」としか云わないアーロンが、勇気を出して云った言葉は、
「寒くない?」
 だった。
 昼の間に眠ってしまうと、夜眠れなくなる。どうにもならなくて散歩に出たアーロンは、クリスを見つけた。
 短い夏が過ぎると、昼間でも本を持つ手が冷たくなる。アーロンはブランケットも一緒に持ち歩いていた。
 クリスの返事を待たずに、隣に座ってブランケットを掛けてあげると、彼は珍しく空を見上げていた。
「星、好きなの?」
「わかんない」
───クリスが返事してくれたー!
 内容はともかく、アーロンはあまりの嬉しさに朝まで眠れなかった。



「二人で一晩中起きてたんですか?」
「いや、クリスは眠そうにしてたから、すぐに部屋に戻ったよ、二人共」
「なんか、すみません」



 そのうちにアーロンは、クリスのお気に入りの場所が分かるようになり、そのどれかを巡れば彼を見つけられるようになった。
 アーロンはただ黙って寄り添ったり、バザーの為のクッキーをくすねてクリスにあげたりしていた。
 クリスも次第に打ち解けるようになったのか、アーロンが寝転ぶと同じように寝転んだり、アーロンの笑顔に目を細めて柔らかい表情を見せるようになっていった。
 そんなある日、修道院の近くにある城へ入って行くクリスを見つけた。
───クリスがあの城に、何しに行くんだろう?
 アーロンにとってはファビアンとの思い出しかない城。クリスにとっても同じではないのか?
 こっそり後を付けると、常緑樹の垣根の根本にリボンを認めた。青い生地に、水色の模様の入ったリボン。
 アーロンは少なからず、衝撃を受けた。
───クリスが、誰かと一緒にここにいる。
 クリスは、ファビアンではない他の誰かと、この城に入る約束をしていたようだ。
 正直、自分以外の誰かとクリスが仲良くなるなんて、少しも思っていなかった。
───クリスにはもう、新しい恋人がいるのか。
 クリスが一人でいるのを見かける事が多かったし、アーロン自身も、他の誰かとこの城の事を話した事がなかったので、お互いにフリーの状態だと、勝手に思っていた。

「先にリボンが結んであったら、入らないのがマナーさ。さもなくば、こっそり入って黙って先に出る」

 ファビアンがアーロンに教えてくれたルール。
 アーロンは、クリスが誰と一緒にいるのか知りたくて、半分怖いもの見たさで、橋を渡った。
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