悪魔と聖女

桧垣森輪

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7.月が消えた夜①

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 頭を下にして、暗闇を真っ逆さまに落ちていく。
 ――――ハイネ!
 通り過ぎていく空気の中で、微かに耳に響いた。
 それは、もう誰も呼ぶことのなくなった、私の名前……。

「ハイネ!」
 もう一度名前を呼ばれて、閉じていた目をハッと開く。同時に、みぞおちの辺りに突き上げるような衝撃を感じた。
「――ぐ……ぅっ」
 身体全体にブレーキがかかって、潰れた呻き声が喉から零れる。色気も可愛げもない声が周囲に反響して、腹に太い木の枝かなにかが突き当たったのかと思った。
「……間に合った……」
 強烈な痛みと吐き気に耐えていると、頭上から聞き覚えのある声が聞こえて、再度ハッとする。
 胸の下でハイネを支えているのは、無機質な木ではなく衣服を纏った腕。そして、ハイネを抱き止めているのは……悪魔、だった。
 ようやく目が慣れてくると、宙づりになって揺れる自分の足が目に映った。なにもない暗闇の中を、悪魔の腕に引っかかるようにして浮いている。
 まだ生きていることに最初は安堵した。だが次の瞬間、ハッと我に返る。
「……っ、は、離して……」
 足元には暗闇が広がり、もう一度そこへ飛び降りることに恐怖を感じた。それでもハイネは、悪魔を振りほどこうと自分を抱きかかえる腕に手をかける。
「離して……っ、はやく、離してよ!」
「おい、暴れるな」
「離してってば! 私は、いかなくちゃいけないの!」
 駄目なのだ、この手に囚われていては。一刻も早く、この手を振りほどかなくては。
 飛び降りた瞬間に、覚悟は決めていた。もっと前から、塔に閉じ込められたときから、このときのことだけを考えていた。
 自分が死ぬことでこの国は守られる。少なくとも、親やきょうだいは平和に暮らしていける。教会からもらった莫大なお金を返せるほど、家には余裕なんてない。
  ハイネは再び暗闇に身を投げようとする。なのに、どんなに藻掻いても、悪魔の腕は外れない。それどころか、抱き止める力がさらに強くなる。
 宙に浮いた状態で、ハイネはバタバタと足を動かした。すると、足元にはなにもないはずなのに、遠くで、微かに石の転がるような音がした。
 ハイネの動きがぴたりと止まる。視線を足元へと向けるが、やはり自分の両足がぶら下がるだけの暗闇が広がっている。
 なのに火口の底から、異様な気配を感じた。
 しばらくすると、また、石が転がる音がした。パラパラと、カラカラと。どうやら火口の底ではなく、岩の縁を石が転がり落ちているようだ。
 そして、徐々に違う音も聞こえ始める。
 ぺたり、ぺたり、と、なにかが下から、登ってくる。
「……お出ましか」
 悪魔は、ハイネを抱える手とは反対の手の上に、小さな火の玉を作り出した。途端に、ふたりの周囲だけが明るくなる。
 生み出された火球を天に掲げると、いくつかの小さな炎へと分裂した。それらは等間隔に広がって放たれ、壁に沿って静かに降りていく。炎はハイネたちから離れるごとに大きさを増していき、やがて停止した。
「あれが、おまえが命を捧げる神か?」
 悪魔の言葉とともに、なにかと目が合った。
 ハイネのぶら下がった足の間隔よりも離れた大きな目は、ヒトのものとも悪魔のものとも違う。瞳孔は縦に長く、炎のせいか金に近い色に見えた。飛び出た眼球で正面のハイネたちを見据えているため、白目の部分がやたらと多い。
 仄かな灯りに包まれながら、は、ゆっくりと歩を進めた。
「――ヒッ……!」
 壁を這い上がっていたのは、巨大な蛙の化け物だった。
 火口よりも一回り小さいそれは、頭部と僅かに見える背中が水ぶくれのようにブクブクと膨れあがった茶褐色なのに、尖った口から下の腹は白くつるりと丸みを帯びている。
 ――あれが、神? そんな馬鹿な……。
 神も悪魔も、ヒトより美しい存在なのだと彼は言った。だが目の前にいる化け物は、どう見ても化け物でしかない。
 ぬめり気を持った手足で張りつきながら、ぺたり、ぺたりと不快な音を立てて岩壁を登った巨大な蛙は、ある程度まで進んだところで動きを止めて、代わりにその大きな口をパカッと開いた。
 吐き出された息で炎が揺れて、濃くなった臭気がハイネの鼻にまで届く。口の中にも闇が広がり、その先は想像もつかない。
 ハイネの喉がこくんと鳴った。だけど口の中がカラカラに乾いて、唾も出なった。代わりに流れ出た冷や汗が頬を伝って、顎の先からぽたりと零れる。
 それが、蛙の口へと落ちていく。途中で粒が見えなくなっても、大きく開いた口は閉じられなかった。
 そう、あれは――聖女が飛び込んで来るのを、待っているのだ。
「……うそ、でしょ……」
 この先に神がいるとは信じていなかった。火口に身を投げた自分は、潰れて死ぬか、マグマに溶けてなくなるのだと思っていた。
 なのに現実は、想像以上に悲惨なものだ。まさか聖女の最期が、こんな化け物に食われて終わるとは。
 これまで幾人の聖女が火口から身を投げて、この化け物の腹に収まったかと思うと、血の気が引いて目の前が白く霞んだ。
「伝承がどうなっているかは知らないが、ヤツは相当長い間ここに住みついているんだろうな。なんたって、定期的に餌が上から落ちてくるんだから」
 悪魔の様子は普段と変わらない。ただその赤い目は、ハイネと同じく大口を開けた化け物へと向けられている。
「魔物ごときが、神を語るとはおこがましい」
「魔物……?」
 そのときだった。ヒュンッと空気を切り裂く音がして、ハイネを抱えた悪魔が素早く身を翻す。直後に、二人が浮いていた背後の壁がドゴッと大きな音を立てて崩れ落ちた。
「なに……!?」
 間一髪で躱したハイネが目を向けると、下から伸びたなにかが突き刺さっている。
 それは、蛙の口から伸びた長い舌。岩壁を抉った舌は、ゆっくりと本体へと戻っていく。そして戻ったと同時に、再びものすごい早さで二人に迫った。
「チッ」
 悪魔が舌打ちをしながらそれを躱す。そのたびに周囲の壁に大穴が開き、轟音とともに岩が蛙へと降り注いだ。
 それでも、魔物はビクともしない。ただ一点だけ、獲物であるハイネだけをジッと見つめて、その舌を伸ばす。
 このままでは、いつか悪魔ごと舌に絡め取られてしまう。
 そうなったら、彼までもがあれに食われてしまう……!
「は……早く、私を離して! そうしないと、あんたまで」
「うるさい、大人しくしてろ!」
 手を剥がそうと暴れるハイネを、悪魔が一喝した。
 そして、眼下の魔物を鋭く睨みつける。
「これは俺のものだ。神にも、ヒトにも渡さない」
 悪魔の手に、再び大きな火球が生み出された。そして、迫ってくる舌に向けて投げつける。
 ――ボウッ!
 舌の先端が炎に触れて、忽ち火花が散った。舌よりも威力のある火球が、導火線を辿るように蛙の口へと落ちていく。それを追って、周囲を照らしていた炎も集まり、火球はさらに膨らんでいく。
 ハイネを抱えたまま、悪魔は急上昇した。ハイネに見えたのは、大きな蛙がパクリと炎を飲み込むまで。

 そして、周囲が閃光に包まれる。
 二人の身体が火口から飛び出すと同時に、頂は血を噴いた。
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