続・甘い果実

桧垣森輪

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妃沙実

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 それはまるで麻薬のようだ。
 甘い香りは脳内を痺れさせ、果肉は一度口に含むと二度三度と欲しくなり、
 やがて依存症のような抑えがたい渇望が生じる。


 ――あの日以来、私の心中は穏やかではない。


「……実さん、妃沙実さん?」
「え!? あ、は、はい?」
 急に声を掛けられて声が裏返る。
 見上げれば、黒目がちな瞳の綺麗な顔をした青年が目の前に立っていた。
「これのチェックをお願いします」
「……わかりました」
 遅れて呟いた返事など耳にも入っていない様子で、彼は書類を手渡すと何事もなかったかのように自分の席へと戻っていく。
 動揺を悟られまいと必死に平静を装ってはみたものの、これじゃあまるで、私だけが浮き足立っているみたいじゃない。

 明らかに挙動不審な私に対して、桃哉くんは至って冷静だった。

 私と桃哉くんが身体の関係を持ってから、かれこれもう一週間は経過している。その間ずっと、彼は何事もなかったかのような態度を取り続けていた。
 桃哉くんとは嫌でも毎日顔を合わせる。何しろ彼は私の直属の後輩で、部署も同じなら席も近い。
 戸惑う私に目配せでもしようものなら更に狼狽するかもしれないが、一瞥すらくれることもなかった。
 例えプライベートで何かあっても、男女の問題を仕事に持ち込むのはご法度だ。いくら社内恋愛に寛容な職場であっても、仕事中に大っぴらにいちゃつかれるのはウザいし、喧嘩や別れた後の気まずさには耐えがたいものがあると常々思ってきた。
 だから私も、せめて仕事中は務めて冷静に振る舞おうと心がけてみたものの、結果は見事に惨敗である。

 一夜(夜じゃなかったけど)のアバンチュールというにはあまりにも濃密な時間を過ごした。一度リビングで抱かれた後にベッドの上でもコトに及び、お陰で自宅に戻るたびにあんなことやこんなことを思い出しては一人悶絶する時間を送っている。
 それだけのことをしていながら、翌日に桃哉くんは何も言わずに帰って行った。
 ……いや、礼儀正しく『お邪魔しました』とは言われたよ?だけど、この先どうするかとか、今度いつ会うかとか、そういう具体的な話はなにもしていない。
 だから私たちには、未だに新たな肩書はついていない。

 桃哉くんは、私を好きだと言った。
 私にずっと彼氏がいたことも、その相手に振られたことも承知の上で、彼は私を抱いた。
 そんな彼を、私も受け入れた。だけど正直、彼を好きかどうかはよくわからない。
 あの時は彼が愛おしくて無我夢中で彼を求めたけれど、今になって思えば彼の言った通り、傷心の痛手に耐え切れなくて誘惑の甘い誘いにまんまと乗ってしまったのかもしれない。
 肌に感じた桃哉くんの香りや体温も、時間の経過とともに徐々に薄れていく。それと同時に、あの時感じた自分の感情も、熱に浮かされて一時の快楽に溺れていただけのようにも思えてくる。
 なにより、なんとも素っ気ない彼の態度が、私を好きだと言ったことすら夢か幻だったんじゃないかとさえ思わせる。 

 気づかれないように彼の様子をそっと覗き見ると、桃哉くんは、眼鏡をかけていた。
 桃哉くんはデスクワークの時にだけちょくちょく眼鏡をかける。一年間一緒に仕事をしてきたのだから既に周知の事実であるにも関わらず、銀縁の眼鏡でクールさの増したいつもと違う雰囲気の彼に、心臓が騒ぎ出す。
 桃哉くんは伏し目がちに書類に目を通しながら、長い指でつい、と眼鏡を押し上げた。
 何気ない仕草だけれど、その指を見て、脳裏には先日の情事の様子がまざまざと蘇る。
 少し骨ばった、細く長い指。
 あの指が私の身体に触れ、隅々まで愛撫した。
 ……やだ……どうしよう……。
 身体が、熱を帯び始める。
 あの日を思い出しただけで、胸の鼓動は早鐘を打ち、落ち着こうにも収まらなかった。

『例え遊びで終わったとしても、俺はこの時を後悔することはありませんから』

 彼はそう言って、私を抱いた。
 だけど、何もなかったことにできるほど私は大人ではない。
 その証拠に、仕事中だというのに、気がつけばいつも目で彼のことばかりを追ってしまう。
 桃哉くんとこの先どうなりたいのかなんてわからない。『付き合おうか?』『付き合おうね』なんてわざわざ言わなくてもいいんじゃないかという考えを高校生で恋愛レベルの止まっている私が持ち合わせているはずもなく、かといって自分から行動を起こすには、十年付き合った彼氏と別れたのにあまりにも時間が短く浅ましさを感じる。それでなくとも今まで散々ちょっかいを出して彼を惑わせてきたと指摘された以上は、中途半端な気持ちで接することはもうできない。だから気持ちの整理がつくまでは、もう少し先輩と後輩の立場を貫き通したいところではあるのだけれど、彼のことばかりが気になって仕事を疎かにしてしまう私には、もはやその関係さえも保てそうになかった。

 もしかして、その場限りの遊びだと割り切っていたのは、彼の方かもしれない。
 彼は私を好きだと言ったけど、今も好きとは限らない。言っただけで満足だったのかもしれないし、実際寝てみたらイメージと違ったということだってある。彼氏と別れたばかりのくせに易々と他の男と寝た私に、幻滅してしまったのかもしれない。
 そう考えれば、彼の素っ気ない態度にも合点がいく。所詮私は、長い間付き合っていた彼氏がいたというだけで、中身はほとんど成長しきれていない。年は下でも、精神年齢は彼の方がずっと大人だ。きっと、私を傷つけないように距離を置いたということだろう。
「ちょっと、コーヒー買ってくる」
 桃哉くんの優しさはありがたくもあるけれど、同じ空間にいるのがなんだかとても息苦しい。
 私は財布を握りしめて席を立った。

 そんな私の後ろ姿を彼が見つめていることなんて、気がつかなかった。



「よう、森永」
 オフィスの隅に設置された自動販売機コーナーに向かうと、そこには見知った顔が居た。
 彼は同期の有馬和也。部署は違うけれど同じ場所で研修期間を過ごしたのが縁で、今でも親交が続いている。
 有馬は桃哉くんが入社するまでは、我が社の断トツ人気ナンバーワンだった。眉目秀麗を絵に描いたような美男子で、おまけに頭脳明晰。当初から将来を嘱望されて花形部署に所属しながらも、抜きん出た才能を鼻にもかけない人当たりの良さもある。
 そんな男がどうしてその座を奪われたからというと、この男には私と同じく大学時代から付き合っている彼女がいて、入社以来執拗に繰り出された女子社員たちのアプローチをことごとく断ってきた鉄のハートの持ち主だからだ。美人で評判な受付嬢や秘書課の才女たちに代わる代わるお誘いを受けても、残念ながら有馬はそんな女たちに見向きもしなかった。ことごとく玉砕していった勇者たちの残骸を見て、いつの間にか女たちはこれ以上有馬に時間を割いても無駄骨に終わるということを悟り、新たに現れた 有望株桃哉くんへと流れていってしまった。
 有馬と親しくなったのは、なにも同期だからというだけではない。私もしばらく前までは操を立てていた相手がいたので、飲み会の席にあっても有馬とどうこうなるつもりもなく、有馬もそんな私を体のいい女除けにしていた。
「どうだ、失恋の傷は少しは癒えたのか?」
「……おかげさまで」
 癒えるどころか、桃哉くんに気を取られてすっかり忘れちゃってたりして。少し前までは元カレのことを思い出しては涙していたというのに、我ながら現金なものだ。
 だがそんなことを知らない有馬は、彼なりに私を慰めようとしてくれているらしい。
 溜め息まじりに自嘲気味で笑うと、私が財布を開くよりも先に有馬が自分の持っていた小銭を自販機へと投げ込んだ。……モテる男は、さりげなく気遣いできるものだ。
「聞けば自分とこの後輩を連れて飲み歩いてるみたいじゃねぇか。愚痴があるなら今晩は俺がお相手しましょうか?」
「そんな誤解を招くような言い方して、彼女は大丈夫なの?」
「心配しなくとも奥さんは俺にベタ惚れですから。それに家に帰れば毎日会えるしな」
 なにがベタ惚れ、だ。結婚もしていない内から奥さん呼ばわりしやがって、私への当てつけかっつーの。
 彼女にベタ惚れなのは、どちらかと言えば有馬の方だ。こちらは私と違い交際はすこぶる順調な上、社会人になってから同棲をしている彼女と、まだ非公式ではあるが近々結婚を控えている。
「有馬は、浮気したいなんて思ったこと、ないの?」
「ないね。昔はいろいろあったけど今になってみれば随分馬鹿なことをしたと思うし、どんなに目を逸らそうとしてもできないんだから、俺はもう一生アイツを手放さないと決めたんだ」
「……くっさいセリフね。ご馳走様」
 過去に何があったかは知らないが、数ある誘惑にも負けず、一途に彼女を想い続ける。そんな有馬に、私は同類のような親近感を抱いていた。でも実際は、私の恋愛は自分だけの独り善がりなものだったけれど。
 コーヒーを飲む私を、有馬はなぜかまじまじと覗き込んで見ている。
「浮かない顔してんな……ヤリ逃げでもされたか?」
「―――ぶっ!!」
 突然の爆弾発言に完全に意表を突かれた。慌てて周囲を見回したけれど、幸いにも私たちの他に人の気配はない。
「な、なんてことを言い出すのよ!?」
 小声で抗議すると、有馬は少し驚いたような顔をしていた。
「なんだ、図星か? お前の別れた男なら最後に一回とか言いかねないと思ったけど、その様子だと違う男か」
「ちょっ……やめてよ、違うってば」
 果たして本当に違うと言い切れるのだろうか。状況だけ見れば、どう見てもヤリ逃げされている。気になって手にした雑誌の『ヤリ逃げ男子の特徴』にも、弱みに付け込むとか、次の約束をしないとか、該当するようなことが書いてあった。
 世の中の男性がすべて軽薄だとは思いたくないけれど、元カレに浮気された上に捨てられたのだから疑ってしまうのは致し方ないだろう。桃哉くんだって、弱っている私に付け込んだのだと自ら言っていた。
 ……やっぱり、遊ばれちゃったかな。
 桃哉くんにしてみれば、今まで年上のお姉さんぶって自分を振り回していた女にからかい交じりで復讐しただけなのかもしれない。いくら弟のような存在とはいえ、子供みたいな中身の女に子供扱いされるのは、彼の男としてのプライドを傷つけていたのだろう。彼氏のいる身の上で過剰なスキンシップをしていれば、誑かすだのセクハラだのと言われても反論の余地もない。なのに、あれ以来桃哉くんの一挙手一投足が気になって仕方がないなんて、つくづく私も馬鹿な女だ。
 自己嫌悪から深く深く溜め息を吐くと、隣で顎に手を当てて何やら考え込む仕草をしていた有馬が、ふいにニヤリと笑った。
「何があったかは知らないけど、そう落ち込む必要もないさ。起きたことをなかったことにできないのは誰だって同じだ」
「なかったことにするのが大人の対応なんじゃないの?」
「そんな器用なことができるもんか。みんな忘れたフリをしているだけで、心の底では気になっているもんだ。相手に好意を持っているなら、尚更ね。少なくとも森永は嫌じゃなかったんだろう?」
「……だから、違うってば」
 あくまで違うと否定しつつも、有馬の言葉に少しだけ希望を持てた。
 桃哉くんだって、すべてを忘れたわけじゃないから、あんなによそよそしい態度をとるんだ。彼をどう思っているのかはわからなくても、少なくとも私は嫌ではなかった。お互いに何か思うところがあって、なかったことにできないのなら、焦らずとそう遠くない未来にはなんらかの答えが見つかるのかもしれない。
「ねえ。それって、経験上のアドバイスなわけ?」
「経験談というよりは、失敗談かな」
 そう言って、有馬は苦笑した。
「ま、どちらにしろ真昼間から職場でする話でもないか。その気があるなら連絡してくれ」
 それから私の肩に手を置くと、その整った顔を近づける。
かのじょに許可をもらうから、なるべく早めに頼むよ」
 耳元で小声で囁き、有馬はその場を後にした。
 変に格好をつけて去って行った有馬が気になりつつも、余裕な振りをしていてもなんだかんだで彼女を大切にしている様子が微笑ましかった。

 部署に戻ると、桃哉くんは奈々ちゃんとなにやら談笑をしていた。
 正確に言えば、自分の席に座って仕事をしている桃哉くんに、奈々ちゃんがやけに親しげにすり寄っているように見え、桃哉くんはといえば、いつも通りの笑顔を彼女に向けている。
 その光景に、チクリと胸が痛んだ。
 ああ、そうだ。あの時だって、私は二人を見て、こんなにもお似合いのカップルがいるものかと思ったはずなのに。
 桃哉くんは、あれから私に笑顔を見せることはない。それどころか、戻ってきた私の姿を見るや否や、資料室に行くと言って出て行ってしまった。
 こんなことになるのなら、甘い誘いになんて乗らなければよかった。

 だけど、桃哉くんは、私を好きだと言ったよね。
 後悔しないって言ったのは、貴方の方だったのに――。



「妃沙実さん」
 雑念を振り払って残りの時間を仕事へと没頭しようとしていた私に声を掛けたのは、奈々ちゃんだった。
「今夜、西園寺くんたちと飲みに行こうかと思っているんですけど、良かったらご一緒しませんか?」
 屈託のない笑顔にも、胸中は複雑だ。
「今日は、いいや。私も自分の同期と飲みに行こうかと思ってて」
「妃沙実さんの同期って、有馬さんですか?」
 一瞬、奈々ちゃんの顔が曇った気がする。
「そう。奈々ちゃんたちも、たまには私抜きで、先輩の愚痴でもしておいでよ」
 彼女の表情に若干の引っ掛かりを覚えたけれど、有馬自身も、有馬の彼女の存在も、女子社員の間では有名な話になっている。彼女持ちの相手と飲みに出かけることに違和感を抱いただけだろうと解釈して、私は誘いを断ると再び目の前のパソコンに向き合った。
 桃哉くんは席を立ったきり戻ってこない。奈々ちゃんも、ここ最近の私と桃哉くんのぎこちない雰囲気に気がついて仲を取り持とうとしてくれているのかもしれないが、ここまで避けられているのをわかっていて、誘われたからと無邪気に飲み会に参加なんてできるはずもなかった。
「……じゃあ、お言葉に甘えて西園寺くんとふたりっきりで行こうかな」
 ポツリと、だがしっかりと耳に入る言葉に、キーを叩く指が止まる。奈々ちゃんは思わせ振りな笑みを浮かべると、その後は何も言わずに自分の席へと戻って行った。
 自分も同期の男と飲みに行くのだから、彼女と桃哉くんが二人で出掛けるのを咎めることはできない。彼女が桃哉くんに気があるならば、これ以上私は踏み込まない方がいい。か弱くて守ってあげたくなるような女の子である奈々ちゃんと争ったところで、私が勝てる相手ではない。それに、私以外に向けられる桃哉くんの笑顔を見るのが辛い。他の女には笑い掛けるくせになんて、一回寝ただけの私が彼女気取りで嫉妬したら、桃哉くんだって迷惑だ。

 なのに、胸の中にふつふつと沸き上ってくるのは――独占欲。

 私を見つめた瞳に、あの子を映すの?
 私を好きだと言った唇で、あの子に囁くの?
 私に触れたあの指で、あの子に触れるの?
 吐息の熱さと鼻孔を擽る香り。締め付ける腕の力や、覆いかぶさる身体の重さを、今度は他の人が味わうの?

 元カレに浮気された時にだって、こんな気持ちにはならなかった。アイツが私を抱いていたように他の女を抱いていることなんて思いつきもしなかった。
 それくらい、あの夜の出来事は私にとって特別だった。

 ――やっぱり、なかったことになんて、できない。

 タイミングよく、机の上に置いていたスマホが新着メッセージを知らせた。
 表示された差出人の名前とたった一行の文章に、心が震える。
 文面では彼の心情は推し量れない。誘いを断ったことへの追及か、社交辞令か、それとも……嫉妬か。
 それでも、嬉しさで気持ちが昂るのを止められない。
 なんてちょろい女だろう。やさしくされて舞い上がって、冷たく突き放されたら不安になって、年下の男にいいように振り回されてしまっている。

 離れれば離れるほどに気になるだなんて、まるで禁断症状のようだ。

「……ちょっと、資料室に行ってくる」
「はい。ごゆっくり」

 ふらりと立ち上がった私に、奈々ちゃんは妖艶な笑みで手を振った。
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