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桃哉
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【登場人物補足】
☆芳野奈々(よしのなな)
☆木崎陽生(きざきはるき)
桃哉の同期二人の名前です。桃哉がファーストネームで二人を呼ぶのは違和感があるので苗字を追加しました。
*****
「寝ちゃった……?」
「寝ちゃったね……」
頭から毛布を被ったままミノムシみたいに身体を隠した妃沙実さんは、腕のなかですやすやと眠りに落ちてしまった。
……ったく、いい年こいて子供じゃないんだから」
芳野は心底がっかりしたように肩を落とすと、手足を広げてその場に倒れ込む。いくら家主である妃沙実さんが見ていないとはいえ、目の前には同期の男が二人もいるにも関わらずこの油断しきった姿はいかがなものかと思わず眉間に皺が寄るが、当の芳野はおかまいなしだった。
「目の前にこれ以上ない程の優良物件があるのに、どうしておいしくいただこうとしないんだろうね」
「……お前の本性知ったら、妃沙実さんドン引きするだろうな」
芳野の彼氏である木崎でさえも、猫を被るのを止めた姿に呆れている。だが、可愛い彼女のあられもない姿に鼻の下を伸ばしているのは見え見えだった。
「でもさ。妃沙実さんって、私が西園寺くんを好きだと勘違いしてるよね?」
「あー、俺も思った」
芳野の言葉に、木崎もうんうんと頷く。妃沙実さんが勘違いするのも無理はない。同期の二人が付き合いを始めたのはつい最近のことだが、二人の、というより芳野の意向で、それは意図的に隠されていた。
「私と西園寺くんが話している時の妃沙実さんの顔、見た? あれって無意識の嫉妬ってやつだよね。でも、ちょっとけしかけたら西園寺くんを選ぶとかさ。ああいう時に選択するのって、なんとも思っていない相手ではないと思うんだけどなー」
チラリと視線をこちらに寄越した芳野の目は、俺の心情を見通してさも面白そうに笑っている。
……確かに、あれは嬉しかった。
好きな女に、頭から毛布をすっぽり被ってしおらしく身体を寄せながら「愛してるよ」なんて言われたら、誰だって舞い上がるだろう。つい本気になって抱き寄せてみれば、彼女はあっという間に現実逃避してしまった。
芳野は計算で自分を可愛らしく演出しているが、妃沙実さんのそれは天然であり、むしろこちらのほうが性質が悪い。
妃沙実さんに出会ったのは去年の春。
長く厳しい就職活動の末にようやく入社した会社で、俺は運命の人に出会った。
華美にならない程度のナチュラルメイクしかしていなくても、素材の良さは存分にわかる。綺麗なストレートの黒髪を後ろで纏め、後れ毛の落ちた白いうなじからはなんとも言えない色気を漂わせていて、第一印象は、年上の落ち着いた女性だと思った。
妃沙実さんは、初日からお互いを名前で呼び合うことを提案した。なんでも、自分が新人の時にひどく厳しい先輩に就いて、働くことが億劫になる様な経験をしたそうだ。どうせ働くなら楽しく働かなくちゃね、と笑う顔からは大人の余裕すら感じられた。
実際に彼女は社会人としてとても優秀な先輩である。仕事は早く的確で、俺たちへのアドバイスも親切丁寧でわかりやすい。さらに、なにか困難に直面していても安易に助け船を出すわけでもなく、さりげなくヒントを与えるだけで自分たちの力で解決できるように導くだけ。一方で仕事を離れれば友達にでも接するように実に明るくフレンドリーで、後輩との飲み会にも積極的に参加していた。もっとも、フレンドリー過ぎて少々過剰なスキンシップも多かったりするのだけれど。
本人にしてみれば小さい子供やペットをあやしている感覚なのかもしれないが、時にそれは限度を超えていて、他人からすればこちらを誘惑しているようにしか思えないのだけれど、彼女は呆れるほどに無邪気だった。
これがむさくるしい中年の上司や下心見え見えの派手な女子が相手ならば嫌悪したが、彼女のそれに他意はなく不快感を抱くことはなかった。むしろ、仕事中の凛としたイメージとのギャップに、やられてしまったくらいに。
常に明るく元気な印象な妃沙実さんだけど、ふとした時に寂しそうな笑顔を見せる時がある。それは決まって誰かの幸せそうな恋愛話を聞いている時で、暗に彼女自身が決して良い恋愛をしていないことを表しているようだった。
妃沙実さんに付き合って十年にもなる彼氏がいるというのを知った時は、ショックだった。しかも、そいつはギャンブル狂いでろくなデートもしない残念な相手で、なぜそんな男と付き合っているのかとその場に居た全員が思ったが、彼女もそれを自覚しているらしくそれ以来公の場で彼氏の話を聞くことはなかった。
他人からすれば別れた方がいい相手であっても、長く続いているのであればいずれその男と結婚するのだろう。だが報われないとわかっていても、一度意識してしまった相手を忘れることはそうそうできるものでもない。ましてや妃沙実さんとは毎日のように顔を合わせる上、人の気も知らないで平然と抱きついてきたりする。そんな相手を意識するなという方に無理がある。
すっかり妃沙実さんに心奪われた俺は、当時付き合っていた恋人に対する気持ちも薄れ、早々に別れを切り出した。
彼女と別れたからといって好きな人と付き合えるわけではないけれど、気持ちがなくなった自分にいつまでも縛り付けられている恋人が不憫でしかない。別れたくないと泣いて縋る姿を見ても、申し訳ないとは思っても愛しさを感じることはできなかった。
そんな俺にもようやくチャンスが訪れた。実際のところ、まだアイツと続いていたのかという驚きの方が強かったが、誕生日当日に浮気が発覚してそのまま捨てられたと泣いて落ち込む彼女を見て、内心ガッツポーズした。
妃沙実さんが自分を憎からず思っているということは、自惚れではなく自覚している。日頃から彼氏の話をしない人だったが、特に自分と居る時には意識して彼氏の話を避けていたということや、過剰とも思えるスキンシップも、実は安易に触れるのは俺にだけということも知っている。
それは一年近くもの間注意深く彼女を観察してきた成果であり、彼女の性格上まったく何とも思っていない相手に対してそういった態度はとらない。それでも、無意識に意識しているとはいえ、妃沙実さんにとって今の俺は、弟のようなかわいい後輩でしかない。
だが、意識していないのであれば意識させればいいだけの話。
手に入れたくて仕方のなかった女性が、もう腕の中に居るのだから。
「さてと、じゃあ邪魔者は退散しようかしら」
大の字に寝転がっていた芳野が身体を起こして目配せすると、木崎は待っていたかのようにそそくさと荷物を手にして立ち上がる。惚れた弱みかもしれないが、二人の関係はもはや女王様と下僕に近い。
見栄えの良い芳野と自分をカップリングしたがる話を聞かなくもないが、それは芳野の本質を知らないからだ。俺の妃沙実さんへの想いにいち早く気付いたのは芳野であり、協力してやる代わりに木崎を寄越せと言ってきた。
妃沙実さんは気軽に後輩とも飲みに行く人ではあるが、自ら不用意に男と二人きりになるようなことはしない。日頃あれだけスキンシップをしてくるくせに、妙にずれたところで一線を引きたがるのは、もどかしくもあり可愛らしくもある。俺が今こうして彼女の家に入ることができるのも、芳野という媒体が居てくれるお陰だ。
芳野が木崎のどこをそんなに気に入ったのかは知りたくもないが、自分たちの時間を犠牲にしてまでこうして付き合ってくれることには感謝している。芳野は、妃沙実さんがどうしようもない男と一緒になるよりは、俺の方がまだマシだと思ったのだそうだ。
「……お膳立てしてあげたんだから、がっつくんじゃないわよ?」
帰り支度を整えた木崎に誘導されて玄関に向かう芳野が、去り際に振り返るとそう言い残した。
同性の敵を作りやすい芳野にとってもまた、妃沙実さんは心を開いている先輩であり、大切な人であった。
ようやく巡ってきたチャンスなんだから、がっついたりしないさ。
咲いた花がすぐに実になるなんて、思わない。
*
「妃沙実さん、これのチェックをお願いします」
「……わかりました」
自分から話しかけておきながら、我ながら素っ気ない態度である。
書類を受け取る手が少し震えていたことや、彼女の声が上擦っていることに気づかないふりをしながらも、心の中ではほくそ笑んでいた。
彼女を抱いたその日から、俺はわざと突き放すような態度をとることにした。
がっつくな、という芳野の助言は途中から忘れてしまったが、妃沙実さんの中に俺という存在を刻み込むことには成功したと思う。
だが、男女の関係にはなっても、妃沙実さんが俺に好意を持ったかどうかはまだ怪しい。長い間付き合ってきた男と別れたばかりの彼女が、そう簡単に堕ちたとは思えない。失恋のショックで自暴自棄になっていたからとも言われかねないし、あのまま強引に次の約束をとりつけることだってできたかのだけれど、俺は妃沙実さんとセフレになりたいわけではない。
ポーカーフェイスの苦手な妃沙実さんは、俺の態度に案の定困惑している。
だけど、まだ足りない。
貴女が何も知らない一年間、俺はずっと振り回されてきたのだから、今度は貴女の番ですよ。
もっと悩んでください。もっと苦しんでください。
俺のことを考えるたびに、俺で頭の中がいっぱいになっていくはずだから。
それはまるで、じわじわと組織を破壊しながらゆっくりと全身に回る毒のように。
ちゃんと俺を、好きになって欲しいから。
だけど誤算もある。
妃沙実さんを焦らしておきながら、我慢を強いられるのは俺も同じだった。
遊びで終わったとしても後悔しないと言った言葉に嘘はなく、例え一度きりの関係だったとしても、好きな女を抱ける歓びに変わりはなかった。
だが、一度甘い味を知ってしまったら、もう知らなかった時には戻れない。
涙で潤んだ瞳。少し紅潮した頬。乱れた息遣い。ふるりとした赤い唇から洩れる甲高い声。白い肌に汗で張り付いた長い髪。柔らかな乳房。濡れた泉が俺を締め付ける感触――。
自分を裏切った男の影を気にしながらも蕩けていった艶めかしい姿は、今も脳裏に焼き付いている。
悩み苦しんでいる妃沙実さんを見るたびに、手を伸ばしてしまいそうになる自分をぐっと堪えつつ、いつ終わるともわからない不毛な時間をひたすら耐え忍んだ。
「ちょっと、コーヒー買ってくる」
空気に耐えかねた妃沙実さんが席を外すと同時に、向かいの席の芳野から鋭い視線の矢が飛ぶ。言葉はなくとも、その目が大概にしたらどうだと訴えている。
そもそも芳野は俺のやり方が気に入らないらしい。一度やっちまったんなら無駄に苦しめずにとどめを刺せというのが彼女の流儀のようで、今の俺は自分の大切な先輩を苛めているように見えるそうだ。
苛めているつもりはないが、少々やり過ぎた感があるのもわかっている。
妃沙実さんは駆け引きが出来るほど男女の関係に精通していない。十年も付き合っていた男がいたのだって、妃沙実さんが我慢に我慢を重ねてきた結果だ。変に男慣れしていないところも魅力的な一方で、その無防備な態度が無駄に気を惹くのも事実。悩んだ末に気心の知れた余所の男の元へ逃げ込んでいくかもしれない。
逃げるように出て行った妃沙実さんを追いかけると、案の定不安は的中する。
彼女は、男と会っていた。
相手の男には見覚えがある。彼女の同期で、我が社のエースとも噂される有馬先輩。
妃沙実さんが縁で何度か見かけたことのある程度だが、仕事もできて人望もある彼は、新入社員なら誰しもが憧れる目標となる人物だった。だが、不思議なことに社内で浮いた話を聞いたことはない。彼にも妃沙実さんと同じように長く付き合っている恋人がいるらしいが、そんなものが免罪符になんてならないということは、身を持って知っていた。
気づかれないように距離を置いているため二人が何を話しているのかまでは聞こえないが、仲睦まじい様子にはイラつきすら覚えた。
ふいに、妃沙実さんの話を聞きながら何やら考えている様子だった有馬さんと、目が合った。
俺の存在に気付いた彼の顔が、俄かに歪んだ。彼は妃沙実さんと一言、二言会話を交わし、彼女の肩に手を置くとその整った顔を彼女の耳元へと近づけた。
その瞬間、全身の血が沸騰するかのような怒りを覚えた。
有馬さんは、妃沙実さんに話しかけながらも、目だけは真っ直ぐこちらに向けられている。それが挑発であるということはあまりにもわかりやすかった。
だが、わかっていてもうまく感情をコントロールできない。
自分以外の男が彼女に触れるなんて。いつから自分は、こんなにも心が狭くなってしまったのだろうか。
「覗き見とはあんまりいい趣味とは言えないな」
怒りに我を忘れている間に、気がつくとすぐそこに有馬さんが立っていた。
恋敵になるかもしれない相手が突然目の前に現れて、驚きでしばし呆然となる。自分で言うのもなんだが、俺も学生時代から何かと目立って騒がれることも多かったが、社会に出れば上には上がいると思い知らされたのも彼の存在があったからだ。そんな相手に真正面から見据えられては、背筋に冷たいものが流れても仕方はない。
有馬さんはしばらくそんな俺を見つめていたが、やがて納得したように頷いた。有馬さんとは、彼が社内で妃沙実さんとすれ違う時に会話しているのに何度か同席していた程度で、彼が俺を認識しているかどうかも定かではない。それでも、俺を見る有馬さんの目が柔らかいものになったのは、気のせいではないらしい。
「機はもう十分に熟したみたいだ。タイミングを見誤ると、横から出てきた伏兵に掠め取られるぞ」
がんばれよ、と肩を叩くと、有馬さんは去って行った。
真意はわからないが、その言葉に後押しされたのも事実。
余裕のある振りをしていても、いい加減俺だって我慢の限界だ。
熟した実を目の前にしていつまでも指を咥えたままでいるのは、もう耐えられそうにない。
部署に帰った俺は、すぐさま芳野に協力を要請した。ようやく決着をつける気になったかと嬉しそうな芳野に貸しを作ったのはでかいが、妃沙実さんが戻ってきたのを確認すると、後を任せて資料室へと向かった。
最上階にある資料室は、デジタル化の進んだ昨今では訪れる者もほとんどいない。時折まだデータ化されていないものや、これから入力するものを探しに来るうちの部署の人間が出入りする程度で、鍵の管理も自分たちに任されている。
つまりここは、誰にも邪魔をされず密会するには都合のいい場所。
ここで最後の罠を張る。
だから早く、そのドアを開けて。
無邪気に飛び回る蝶を誘う、甘い香りを散らすから。
急ぐ必要もないからと後回しにしていた仕事を片付けながら待っていると、芳野からメールが入った。
『誘ったんだけど、有馬さんと出かけるからって断られちゃった』
わざわざ相手の名前まで書き込んでくるところが、あいつがこの状況を楽しんでいる証拠だ。
悪びれもせずニンマリとしているだろう顔を思い浮かべながら、妃沙実さん宛てに急いでメールを打った。妃沙実さんをここに誘導するように頼んだはずが、結局は自分で手を下してしまった。
やがて、コンコン、と小さくドアを叩く音がする。
擦りガラス越しのシルエットであっても、それが誰だかわかってしまう。
それだけで、胸の奥が熱くなる。
駆け引きなんてどうだったいい。余裕なんてもうなかった。
先に好きになった方が負けというのなら、勝敗は最初から決まっている。
――毒に蝕まれているのは俺の方だ。
☆芳野奈々(よしのなな)
☆木崎陽生(きざきはるき)
桃哉の同期二人の名前です。桃哉がファーストネームで二人を呼ぶのは違和感があるので苗字を追加しました。
*****
「寝ちゃった……?」
「寝ちゃったね……」
頭から毛布を被ったままミノムシみたいに身体を隠した妃沙実さんは、腕のなかですやすやと眠りに落ちてしまった。
……ったく、いい年こいて子供じゃないんだから」
芳野は心底がっかりしたように肩を落とすと、手足を広げてその場に倒れ込む。いくら家主である妃沙実さんが見ていないとはいえ、目の前には同期の男が二人もいるにも関わらずこの油断しきった姿はいかがなものかと思わず眉間に皺が寄るが、当の芳野はおかまいなしだった。
「目の前にこれ以上ない程の優良物件があるのに、どうしておいしくいただこうとしないんだろうね」
「……お前の本性知ったら、妃沙実さんドン引きするだろうな」
芳野の彼氏である木崎でさえも、猫を被るのを止めた姿に呆れている。だが、可愛い彼女のあられもない姿に鼻の下を伸ばしているのは見え見えだった。
「でもさ。妃沙実さんって、私が西園寺くんを好きだと勘違いしてるよね?」
「あー、俺も思った」
芳野の言葉に、木崎もうんうんと頷く。妃沙実さんが勘違いするのも無理はない。同期の二人が付き合いを始めたのはつい最近のことだが、二人の、というより芳野の意向で、それは意図的に隠されていた。
「私と西園寺くんが話している時の妃沙実さんの顔、見た? あれって無意識の嫉妬ってやつだよね。でも、ちょっとけしかけたら西園寺くんを選ぶとかさ。ああいう時に選択するのって、なんとも思っていない相手ではないと思うんだけどなー」
チラリと視線をこちらに寄越した芳野の目は、俺の心情を見通してさも面白そうに笑っている。
……確かに、あれは嬉しかった。
好きな女に、頭から毛布をすっぽり被ってしおらしく身体を寄せながら「愛してるよ」なんて言われたら、誰だって舞い上がるだろう。つい本気になって抱き寄せてみれば、彼女はあっという間に現実逃避してしまった。
芳野は計算で自分を可愛らしく演出しているが、妃沙実さんのそれは天然であり、むしろこちらのほうが性質が悪い。
妃沙実さんに出会ったのは去年の春。
長く厳しい就職活動の末にようやく入社した会社で、俺は運命の人に出会った。
華美にならない程度のナチュラルメイクしかしていなくても、素材の良さは存分にわかる。綺麗なストレートの黒髪を後ろで纏め、後れ毛の落ちた白いうなじからはなんとも言えない色気を漂わせていて、第一印象は、年上の落ち着いた女性だと思った。
妃沙実さんは、初日からお互いを名前で呼び合うことを提案した。なんでも、自分が新人の時にひどく厳しい先輩に就いて、働くことが億劫になる様な経験をしたそうだ。どうせ働くなら楽しく働かなくちゃね、と笑う顔からは大人の余裕すら感じられた。
実際に彼女は社会人としてとても優秀な先輩である。仕事は早く的確で、俺たちへのアドバイスも親切丁寧でわかりやすい。さらに、なにか困難に直面していても安易に助け船を出すわけでもなく、さりげなくヒントを与えるだけで自分たちの力で解決できるように導くだけ。一方で仕事を離れれば友達にでも接するように実に明るくフレンドリーで、後輩との飲み会にも積極的に参加していた。もっとも、フレンドリー過ぎて少々過剰なスキンシップも多かったりするのだけれど。
本人にしてみれば小さい子供やペットをあやしている感覚なのかもしれないが、時にそれは限度を超えていて、他人からすればこちらを誘惑しているようにしか思えないのだけれど、彼女は呆れるほどに無邪気だった。
これがむさくるしい中年の上司や下心見え見えの派手な女子が相手ならば嫌悪したが、彼女のそれに他意はなく不快感を抱くことはなかった。むしろ、仕事中の凛としたイメージとのギャップに、やられてしまったくらいに。
常に明るく元気な印象な妃沙実さんだけど、ふとした時に寂しそうな笑顔を見せる時がある。それは決まって誰かの幸せそうな恋愛話を聞いている時で、暗に彼女自身が決して良い恋愛をしていないことを表しているようだった。
妃沙実さんに付き合って十年にもなる彼氏がいるというのを知った時は、ショックだった。しかも、そいつはギャンブル狂いでろくなデートもしない残念な相手で、なぜそんな男と付き合っているのかとその場に居た全員が思ったが、彼女もそれを自覚しているらしくそれ以来公の場で彼氏の話を聞くことはなかった。
他人からすれば別れた方がいい相手であっても、長く続いているのであればいずれその男と結婚するのだろう。だが報われないとわかっていても、一度意識してしまった相手を忘れることはそうそうできるものでもない。ましてや妃沙実さんとは毎日のように顔を合わせる上、人の気も知らないで平然と抱きついてきたりする。そんな相手を意識するなという方に無理がある。
すっかり妃沙実さんに心奪われた俺は、当時付き合っていた恋人に対する気持ちも薄れ、早々に別れを切り出した。
彼女と別れたからといって好きな人と付き合えるわけではないけれど、気持ちがなくなった自分にいつまでも縛り付けられている恋人が不憫でしかない。別れたくないと泣いて縋る姿を見ても、申し訳ないとは思っても愛しさを感じることはできなかった。
そんな俺にもようやくチャンスが訪れた。実際のところ、まだアイツと続いていたのかという驚きの方が強かったが、誕生日当日に浮気が発覚してそのまま捨てられたと泣いて落ち込む彼女を見て、内心ガッツポーズした。
妃沙実さんが自分を憎からず思っているということは、自惚れではなく自覚している。日頃から彼氏の話をしない人だったが、特に自分と居る時には意識して彼氏の話を避けていたということや、過剰とも思えるスキンシップも、実は安易に触れるのは俺にだけということも知っている。
それは一年近くもの間注意深く彼女を観察してきた成果であり、彼女の性格上まったく何とも思っていない相手に対してそういった態度はとらない。それでも、無意識に意識しているとはいえ、妃沙実さんにとって今の俺は、弟のようなかわいい後輩でしかない。
だが、意識していないのであれば意識させればいいだけの話。
手に入れたくて仕方のなかった女性が、もう腕の中に居るのだから。
「さてと、じゃあ邪魔者は退散しようかしら」
大の字に寝転がっていた芳野が身体を起こして目配せすると、木崎は待っていたかのようにそそくさと荷物を手にして立ち上がる。惚れた弱みかもしれないが、二人の関係はもはや女王様と下僕に近い。
見栄えの良い芳野と自分をカップリングしたがる話を聞かなくもないが、それは芳野の本質を知らないからだ。俺の妃沙実さんへの想いにいち早く気付いたのは芳野であり、協力してやる代わりに木崎を寄越せと言ってきた。
妃沙実さんは気軽に後輩とも飲みに行く人ではあるが、自ら不用意に男と二人きりになるようなことはしない。日頃あれだけスキンシップをしてくるくせに、妙にずれたところで一線を引きたがるのは、もどかしくもあり可愛らしくもある。俺が今こうして彼女の家に入ることができるのも、芳野という媒体が居てくれるお陰だ。
芳野が木崎のどこをそんなに気に入ったのかは知りたくもないが、自分たちの時間を犠牲にしてまでこうして付き合ってくれることには感謝している。芳野は、妃沙実さんがどうしようもない男と一緒になるよりは、俺の方がまだマシだと思ったのだそうだ。
「……お膳立てしてあげたんだから、がっつくんじゃないわよ?」
帰り支度を整えた木崎に誘導されて玄関に向かう芳野が、去り際に振り返るとそう言い残した。
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ようやく巡ってきたチャンスなんだから、がっついたりしないさ。
咲いた花がすぐに実になるなんて、思わない。
*
「妃沙実さん、これのチェックをお願いします」
「……わかりました」
自分から話しかけておきながら、我ながら素っ気ない態度である。
書類を受け取る手が少し震えていたことや、彼女の声が上擦っていることに気づかないふりをしながらも、心の中ではほくそ笑んでいた。
彼女を抱いたその日から、俺はわざと突き放すような態度をとることにした。
がっつくな、という芳野の助言は途中から忘れてしまったが、妃沙実さんの中に俺という存在を刻み込むことには成功したと思う。
だが、男女の関係にはなっても、妃沙実さんが俺に好意を持ったかどうかはまだ怪しい。長い間付き合ってきた男と別れたばかりの彼女が、そう簡単に堕ちたとは思えない。失恋のショックで自暴自棄になっていたからとも言われかねないし、あのまま強引に次の約束をとりつけることだってできたかのだけれど、俺は妃沙実さんとセフレになりたいわけではない。
ポーカーフェイスの苦手な妃沙実さんは、俺の態度に案の定困惑している。
だけど、まだ足りない。
貴女が何も知らない一年間、俺はずっと振り回されてきたのだから、今度は貴女の番ですよ。
もっと悩んでください。もっと苦しんでください。
俺のことを考えるたびに、俺で頭の中がいっぱいになっていくはずだから。
それはまるで、じわじわと組織を破壊しながらゆっくりと全身に回る毒のように。
ちゃんと俺を、好きになって欲しいから。
だけど誤算もある。
妃沙実さんを焦らしておきながら、我慢を強いられるのは俺も同じだった。
遊びで終わったとしても後悔しないと言った言葉に嘘はなく、例え一度きりの関係だったとしても、好きな女を抱ける歓びに変わりはなかった。
だが、一度甘い味を知ってしまったら、もう知らなかった時には戻れない。
涙で潤んだ瞳。少し紅潮した頬。乱れた息遣い。ふるりとした赤い唇から洩れる甲高い声。白い肌に汗で張り付いた長い髪。柔らかな乳房。濡れた泉が俺を締め付ける感触――。
自分を裏切った男の影を気にしながらも蕩けていった艶めかしい姿は、今も脳裏に焼き付いている。
悩み苦しんでいる妃沙実さんを見るたびに、手を伸ばしてしまいそうになる自分をぐっと堪えつつ、いつ終わるともわからない不毛な時間をひたすら耐え忍んだ。
「ちょっと、コーヒー買ってくる」
空気に耐えかねた妃沙実さんが席を外すと同時に、向かいの席の芳野から鋭い視線の矢が飛ぶ。言葉はなくとも、その目が大概にしたらどうだと訴えている。
そもそも芳野は俺のやり方が気に入らないらしい。一度やっちまったんなら無駄に苦しめずにとどめを刺せというのが彼女の流儀のようで、今の俺は自分の大切な先輩を苛めているように見えるそうだ。
苛めているつもりはないが、少々やり過ぎた感があるのもわかっている。
妃沙実さんは駆け引きが出来るほど男女の関係に精通していない。十年も付き合っていた男がいたのだって、妃沙実さんが我慢に我慢を重ねてきた結果だ。変に男慣れしていないところも魅力的な一方で、その無防備な態度が無駄に気を惹くのも事実。悩んだ末に気心の知れた余所の男の元へ逃げ込んでいくかもしれない。
逃げるように出て行った妃沙実さんを追いかけると、案の定不安は的中する。
彼女は、男と会っていた。
相手の男には見覚えがある。彼女の同期で、我が社のエースとも噂される有馬先輩。
妃沙実さんが縁で何度か見かけたことのある程度だが、仕事もできて人望もある彼は、新入社員なら誰しもが憧れる目標となる人物だった。だが、不思議なことに社内で浮いた話を聞いたことはない。彼にも妃沙実さんと同じように長く付き合っている恋人がいるらしいが、そんなものが免罪符になんてならないということは、身を持って知っていた。
気づかれないように距離を置いているため二人が何を話しているのかまでは聞こえないが、仲睦まじい様子にはイラつきすら覚えた。
ふいに、妃沙実さんの話を聞きながら何やら考えている様子だった有馬さんと、目が合った。
俺の存在に気付いた彼の顔が、俄かに歪んだ。彼は妃沙実さんと一言、二言会話を交わし、彼女の肩に手を置くとその整った顔を彼女の耳元へと近づけた。
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有馬さんは、妃沙実さんに話しかけながらも、目だけは真っ直ぐこちらに向けられている。それが挑発であるということはあまりにもわかりやすかった。
だが、わかっていてもうまく感情をコントロールできない。
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「覗き見とはあんまりいい趣味とは言えないな」
怒りに我を忘れている間に、気がつくとすぐそこに有馬さんが立っていた。
恋敵になるかもしれない相手が突然目の前に現れて、驚きでしばし呆然となる。自分で言うのもなんだが、俺も学生時代から何かと目立って騒がれることも多かったが、社会に出れば上には上がいると思い知らされたのも彼の存在があったからだ。そんな相手に真正面から見据えられては、背筋に冷たいものが流れても仕方はない。
有馬さんはしばらくそんな俺を見つめていたが、やがて納得したように頷いた。有馬さんとは、彼が社内で妃沙実さんとすれ違う時に会話しているのに何度か同席していた程度で、彼が俺を認識しているかどうかも定かではない。それでも、俺を見る有馬さんの目が柔らかいものになったのは、気のせいではないらしい。
「機はもう十分に熟したみたいだ。タイミングを見誤ると、横から出てきた伏兵に掠め取られるぞ」
がんばれよ、と肩を叩くと、有馬さんは去って行った。
真意はわからないが、その言葉に後押しされたのも事実。
余裕のある振りをしていても、いい加減俺だって我慢の限界だ。
熟した実を目の前にしていつまでも指を咥えたままでいるのは、もう耐えられそうにない。
部署に帰った俺は、すぐさま芳野に協力を要請した。ようやく決着をつける気になったかと嬉しそうな芳野に貸しを作ったのはでかいが、妃沙実さんが戻ってきたのを確認すると、後を任せて資料室へと向かった。
最上階にある資料室は、デジタル化の進んだ昨今では訪れる者もほとんどいない。時折まだデータ化されていないものや、これから入力するものを探しに来るうちの部署の人間が出入りする程度で、鍵の管理も自分たちに任されている。
つまりここは、誰にも邪魔をされず密会するには都合のいい場所。
ここで最後の罠を張る。
だから早く、そのドアを開けて。
無邪気に飛び回る蝶を誘う、甘い香りを散らすから。
急ぐ必要もないからと後回しにしていた仕事を片付けながら待っていると、芳野からメールが入った。
『誘ったんだけど、有馬さんと出かけるからって断られちゃった』
わざわざ相手の名前まで書き込んでくるところが、あいつがこの状況を楽しんでいる証拠だ。
悪びれもせずニンマリとしているだろう顔を思い浮かべながら、妃沙実さん宛てに急いでメールを打った。妃沙実さんをここに誘導するように頼んだはずが、結局は自分で手を下してしまった。
やがて、コンコン、と小さくドアを叩く音がする。
擦りガラス越しのシルエットであっても、それが誰だかわかってしまう。
それだけで、胸の奥が熱くなる。
駆け引きなんてどうだったいい。余裕なんてもうなかった。
先に好きになった方が負けというのなら、勝敗は最初から決まっている。
――毒に蝕まれているのは俺の方だ。
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フィオナは王太子ジェラルドの婚約者。王宮で暮らしながら王太子妃教育を受けていた。そんなある日、ジェラルドと侯爵家令嬢のマデリーンがキスをする所を目撃してしまう。ショックを受けたフィオナは自ら修道院に行くことを決意し、護衛騎士のエルマーとともに王宮を逃げ出した。置き手紙を読んだ皇太子が追いかけてくるとは思いもせずに⋯⋯
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