派遣の美食

ラビ

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十五皿目-フライドチキン

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※本作はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには一切関係ありません。




 それは、とある寒々しい雪の日。


「十八…。十九…っ。二十…っ!」
 とある安アパートの暖房も点けずに冷え切った一室で、一人の青年が黙々と腕立て伏せをしていた。


「一...。二...。三...」
 二十回毎に柔軟体操や腹筋、背筋運動を挟みつつ続けていたが、小休止を入れた男は自分の腕周りを確かめた。


「......」
 細い。
 少なくともその男が自分の腕に抱いた印象はそんな感じだった。


 青年の名前は南瀬夏樹。契約社員として派遣先を転々とする、今時どこにでもいる様な青年だった。


「...と言うか、今年は体重落ちたな...」
 体重計に乗りながら南瀬が鏡を覗くと、そこには減量中のボクサーかマラソンランナーの様な青年が立っていた。
 背は平均か少し高め。足腰は引き締まり、そこそこ太い筋肉が付いているが上半身は普通か少し筋肉質な程度。肩幅もあり姿勢も背筋がしっかりと伸びて、やせ細っていると言う程では無い。
 客観的に見れば標準体型か少し細めな体格だと思われるが、鏡に映る若干頬の薄い顔を歪める程度には不満だった。


「腕だけはどうしても筋肉が付かないんだよな...」
 南瀬は普段から歩き回るのが苦にならない方で、暇があれば繁華街等をブラつくのが半ば趣味になっている。
 欲しい物はネットカタログ越しに探すより、自分の足で見つける方が満足感があるし、その過程が楽しい。
 そう云う南瀬なので、毎日何キロも歩いていく内、自然と健脚になった。


 比べて上半身は、スポット派遣で肉体労働をしていた事と、体幹を意識した姿勢を保つ事で鍛えられている物の、見た目はそれ程に鍛えられている様に見えない。
 一時、腕を徹底的に酷使する現場に固定されていたが、筋が突っ走るばかりで、そこの仕事が終わった後はまたすぐ元に戻ってしまった。


「やはり、肉が足りない...」
 南瀬も身をもって痛感したが、効果的に筋肉を付けるには、鍛錬とタンパク質の補給の両方が揃うのが理想的だった。
 大豆等に多く含まれている植物性タンパク質と、卵の白身や肉の赤身の動物性タンパク質。
 だが自然のタンパク質だと、ビルドアップ出来る程摂ろうとするなら馬鹿みたいに大量に食べなくてはならない。その問題を解決するのがプロテイン食品だった。
 プロテインと聞くと人体に悪影響を及ぼす危険な薬物の様な先入観を持つ人が多いが、詰まるところ大豆由来のタンパク質等を濃縮して調合しただけの物である。
 特にキツい肉体労働の後に摂ると肉体疲労回復の効果もあって重宝するのだが、どうしても割高なので箱買いするのも難しい。
 普段肉類をそう豪快に使う余裕も無いので、どうしてもタンパク質不足になりがちの南瀬だった。


「今鶏肉が安いし、唐揚げ以外に何か作るか...」
 汗をシャワーで洗い流し、手早く身体を拭いた南瀬は、粉雪のチラつく駅前の商店街に繰り出す事にした。




 まだ師走に入ったばかりで、商店街はもうクリスマス模様だった。
 師走どころか、ハロウィンと入れ替わりに十一月から早くも南瓜を南天やポインセチアにすげ替える、商魂逞しい店も多い。


 日本のクリスマスは他国に比べてイベント色が強い。
 昔キャバレー等でクリスマスを口実にはしゃいだ人達のパーティースタイルがそのまま広まったと言う説もある位だから、クリスチャンでは無い大半の日本人にはお祭り騒ぎをする口実でしか無く、南瀬にすれば特売の口実が増える程度の意味しか持たなかった。


 それは兎も角。


 何故南瀬が今になって筋肉に拘るかと言うと、過労で弱った身体を建て直す為だった。
 例年稀に見る酷暑。就職活動に伴う食費制限。秋頃から突然の真冬並の寒波に、猛威を振るう病原菌...。
 幸い今年は風邪程度で済んだが、中々治らず往生した。この上職場からインフルエンザだのノロウィルスだのと厄介なのを感染されては堪らないので、その前に体力を付けて置きたかった。


(暫く肉週間だな…。いい加減体重を戻さないと、また何言われるか...)
 今勤めている職場で、大柄なOLが南瀬の体型について、冗談混じりに絡んで来る事があった。


「南瀬さん細いわね~。何食べたらそんな痩せられるの?」
「......」
 最初、何を言ってるのかと正気を疑った。『食って痩せる方法』と言っている時点で頭が悪いとしか言い様が無い。
 痩せようと思えば毎日一、二駅の距離を歩くだけでも可能だ。水だけを口にして運動すれば誰でも勝手に痩せる。
 そうならないのは無自覚に何かしら飲み食いしている証拠だが、こうした人達はその現実から全力で目を背けるし、指摘すれば言い訳を重ねて言葉を濁す。
 南瀬自身食道楽にも関わらず痩せているのは、その余裕が無い。ただのカロリー不足。ただそれだけの事。
 だが、南瀬を見るとさぞや凄いダイエット方法があるのだと。そして何故かその方法は『楽をして痩せる方法』なのだと根拠の無い事を言い出し、自分にも教えろと自分勝手な事をせがむ人が後を絶た無いので、正直うんざりしていた。


 そんな事を苦々しく思い出しつつ、傘も差さずにコートを雪で白くけぶらせた南瀬は、スーパーに入り精肉コーナーに足を進めた。
 ローストチキンやフライドチキン等の惣菜と一緒に、赤と緑のリボンで煌びやかに飾り立てられた棚から南瀬は骨付きの手羽元肉を手に取り、籠に放り込んだ。


(...ローストチキンもやってみたいが...。今回はフライドチキンにしとくか)
 南瀬の部屋には気合を入れて選んだ大形オーブンレンジがあるので、一羽丸ごとのローストチキンも可能だった。
 しかしこの手の料理は、けして複雑な手順が要らない分、数をこなして身体で覚えないと上達は難しい。
 失敗してもしなくてもパーティーサイズの鶏肉が残るので、平らげてからでないと再挑戦も出来ない。


(今度、切身で照り焼きチキンとかローストを色々試してみるか)
 調理法を色々考えながらスーパーを出た南瀬の前を、女子高生らしき制服の三人の少女達がはしゃぎながら歩いている。
 ホワイトクリスマスに浮かれているのか、さして広くも無い道一杯に広がって、踊る様にじゃれ合いながら歩いているので通り抜けるのも難しい。


(危なっかしいなあ。踏み硬まった雪で転...)
「キャッ!」
 考えていた事が現実となり、三人娘の一人、茶髪で長い髪の少女が雪で派手に足を滑らせた。
 受身の取り方も知らない少女は後頭部を打ったが、ぶつかった感触はアスファルトにしては柔らかかった。


「...危ないですよ?」
「あ...。す、すいません!」
「...いいえ」
 後ろを歩いていた男に思い切りぶつかった事に気付いた少女は、慌てて男から離れて謝ったが、男ーー南瀬ーーは身を引いて会釈すると、そのまま通り過ぎた。


(...つい受け止めたが、痴漢容疑で通報されたら嫌だなあ...)
 少女と偶然激突しかけたのは事実だが、南瀬は避けれなくも無かった。
 しかし、避けた場合少女がモロに頭を打つ危険な転び方だと認識した瞬間、買い物袋で両手の塞がっていた南瀬は、避けずに前へ踏み込んで自分から少女にぶつかり、身体で支えたのだった。


(三人の後ろにいたからわざととは思われて無いとは思うが...)
 仕方無かったとは言え、不審者扱いされては堪らないので、南瀬はその場から早足で立ち去った。




 家に戻り、手を洗ってエプロンを締めた南瀬は、早速フライドチキンの下拵えを始めた。
 鶏の手羽元の表面に、オールスパイス、塩、ガーリックパウダーを刷り込んだら、牛乳に浸して三時間。


「牛乳より豆乳の方が風味が出るかな...」
 手羽元を漬けたタッパーを冷蔵庫に入れた南瀬は、台所を片付け、ついでに書類整理で時間を潰す為にパソコンを立ち上げた。


『systems waking』
 ログインし、厳かな合成音のメッセージを流すパソコンを前に、暫し黙考する南瀬。
 今回試しているフライドチキンはアメリカ等の家庭料理のレシピだった。
 フライドチキン専門の某チェーン店の味を目指したいが、まずは作りやすそうなのがこれだった。
 しかし、やってみると味付けより臭み消しに重点を置いているのに気付いた。
 食べやすくはなるが、仕上がりは旨味も抑え込まれるのが予想される。


「フィッシュアンドチップスの時と同じか...。また魔改造しそうだな、これは...」


 やがて時間になる頃、小麦粉と上新粉を半々混ぜ、唐揚げの要領で手羽元にまぶして二度揚げした。
 上新粉は団子の生地に使う粉だが、衣に使うとカリっとした食感が出る。ただ...。


「...いかん、少し焦げた...」
焦げ易い欠点があるので火加減が難しかった。
 兎も角、南瀬は揚がったフライドチキンにフライドポテトを添えて、発泡酒片手に試食する事にした。


「いただきます」
 箸を取り一口齧ると、ザクザクとした楽しい歯応え。中からは旨味を含んだ脂が溢れて来る。
 鶏肉自体の旨味はやはり若干大人しくなっている物の、揚げ立てだけに実に美味い。南瀬は思わず発泡酒を煽った。


「ふはぁ...」
 酒で口内の脂を洗い落とすと、また皿に手が伸びる。フライドポテトも揚げ物だが箸休めに丁度良い。
 しかし、ピザと双璧のジャンクフードの王様だけに、たまに食べると箸が止まらない。


「ジャンクフードと言う割に、どちらも高いよなあ...。こんなの毎日食べて肥れる奴ってどんだけ金持ちなんだよ...」
 骨周りの軟骨を齧りつつボヤいている内、気が付けば皿には骨しか残っていなかった。




 一方、とあるファーストフード店のイートインの一角では。
「もー、チホ何やってんの」
「ごめーん。...でもさっきヤバかったかも...」


 先程の少女達がフライドチキン片手に姦しく騒いでいた。
「え?さっきのオッサンに触られた?痴漢?」
「何でその場で言わないのさ!逃げられちゃったじゃん!」
「いや何もされて無いから!」
 チホと呼ばれた茶髪の少女は通報しようとする友人達を慌てて止めた。


 茶髪の少女の名前は大澤千穂(おおさわちほ)。
 その友人の一人は髪をツインテールにした艶やかな少女で、名前は中村絢音(なかむらあやね)。
 もう一人の友人は眼鏡の似合う少女で、如月円(きさらぎまどか)と言った。


「あの時、怪我しそうな位思いっ切りコケたと思ったんだ...。うわ、今頃心臓バクバク言ってる」
 転んだ瞬間、大澤は身体が浮いた様な、時間がゆっくり流れている様な感覚を覚えた。
 『これはマズイ』と思った直後、だが見知らぬ青年の厚い胸板で受け止められていた。
 その時はホッとしたが、両手に買い物袋を下げてしっかりとした足取りで立ち去るビジネスマン風の青年の後ろ姿を思い出すと動悸が止まらない。
 そこでふと顔を上げると、友人達が意味有りげな笑みを浮かべていた。


「......ちょ!!やめま!違うから!」
「んー?何の事かなー?」
「でも意外ー。チホってオジサン趣味だったんだー」
「だから違うって!」
 顔を真っ赤に染めて否定する大澤だったが、二人には聞き流された。


「意外って言えばー。あのオッサンよく平気だったよねー」
「あー確かに。あんだけ細いのに、あんだけチホが勢いよくぶつかったんだから、五メートル位吹っ飛ばされてなきゃおかし...」
「おかしいのはアンタらの頭じゃ!あたしゃダンプか!」
「あの、お客様。他の方のご迷惑になりますので...」
「「はーい...」」
 店員に注意されてようやく落ち着いた大澤達だったが、友人達はまだからかう気満々だったので、大澤はカップのコーラを一口吸って気を落ち着けると、彼女らの好奇心の矛先を逸らす事にした。


「...いやあの人、コート越しだったけど、結構マッシブだったよ?こー...、エアバッグ?...違うな。後ろに倒れたら、丁度リクライニングシートがありました。みたいな安定感?」
「何じゃそらー!」
「ほほう...。細マッチョとな?」
 大澤の妙な表現に、中村は笑い転げ、如月は無意味に眼鏡を光らせた。


「て事は、しっかり堪能したのね?」
「何を!」
「勿論、雄(お)っぱいを」
 厳かに碌でもない事を言われた大澤は、テーブルに顔を打ち付けた。


「まどか、エローい」
「これ位普通よ。最近は男も大胸筋で胸の谷間を作る時代なんだから」
「そーなの?」
「そう...。雄(おす)の乳、即ち『雄っぱい』!」
「おおー!」
「しくしく...」
 SNSでよく見かけるアスキーアートみたいな動きでフライドチキンを振り回し『雄っぱい』を連呼する二人に付いて行けない大澤は、突っ伏したまま、さめざめと泣くしか無かったのだった。




 ...南瀬は知らない。世間から見れば、自分が充分恵まれた体格である事を。
 だがその事を知ったとしても、南瀬には何の慰めにもならないかも知れない。




 ともあれ。今日の所は...、
「...ご馳走様でした」
南瀬は箸を置いた。
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