派遣の美食

ラビ

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十七皿目-鶏柚子蕎麦

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※本作はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには一切関係ありません。


 『ごぉん...』と。
 遠くで腹の底に響く鐘の音が響いた。

「いよいよ今年も終わりか...」
 大晦日の、年も代わろうかと言う深夜。
 とあるアパートの台所の、それぞれにぐつぐつと湯の沸いた二つの鍋の前で、一人の青年が独りごちた。

 フリーの派遣先を転々とする、今時何処にでもいるような青年。名を南瀬夏樹と言った。

「来年はいい加減、正社員の仕事見付けないと...。そろそろ後が無いよな...」
 一方の鍋に菜箸を突っ込み、掻き回しながらも、南瀬の愚痴めいた独語は止まらなかった。

 派遣契約の社員は、その不安定さから無職とさして変わらぬ程待遇が悪い。
 健康保険、国民年金等、派遣契約期間だけ社員保険に切り替わるので、ボサっとしていると気が付けば求職期間の分を滞納している事がしばしば多い。
 なので契約の切れた直後は市役所等を奔走して後始末をするのが常だった。

「全く...。年々年金支給対象の年齢を引き上げて、一人でも対象者が減るのを待ってる様な詐欺臭いのに、どうして身銭を切らなきゃいかんのか...」

 苛立っている南瀬の耳に、また『ごぉん...』と除夜の鐘が響いた。

「...善い音だよなあ...。これを『うるさい』『止めろ』と騒ぐ奴らの気が知れん」
 重厚な鐘の音は聴いていると落ち着くし、年の終わりを実感させてくれるので南瀬は好きだったが、昨今これを『騒音公害』だと苦情が寄せられて自粛する寺か増えているらしい。
 音に対する感性は人それぞれなので分からなくも無いが、例えば夏の蝉や秋の鈴虫の声は、海外からの旅行者には耳障りらしい。
 大抵の日本人にすれば産まれる前から親しみ、愛でて来た音なので気にもならないのだが。
 除夜の鐘についても、あるいはそう言う事なのかも知れない...。

「保育園の件もそうだが、面と向かって抗議すると何かと面倒だから最近は投書が多いみたいだし、書面として明記される分厄介なのかもな...。今度俺も『止めないで』と投書しようかな」

 それは兎も角。

 南瀬が作っているのは年越し蕎麦だった。
 例年はザル蕎麦に天ぷらを添えたりしていたが、この年はやけに冷えるので、温かい掛け蕎麦に変更したのだった。
 無論、それだけでは寂しいので、大鍋で蕎麦を茹でる傍ら、並行して添える具も簡単に仕込んでいる。

 今回作るのは鶏団子。...と言うよりはツミレだった。
 量は大体二、三人分。ツミレ単品で食べるなら一人前分。


 まず鶏胸肉の挽肉を百二十グラム。
 人参を二十グラムすりおろし、軽く洗った柚子を皮だけ一個の半分程すりおろす。
 更におろし生姜を少々と、葱の青い所を五分の一本分を微塵切りに。
 最後に塩を少々と片栗粉を五グラム。

 以上を粘りが出る迄よく練ったら、ツミレとなる鶏肉餡の準備が整った。

 小鍋の底に名刺大の昆布を沈め、水から煮て沸いた所で肉餡を二個の蓮華かカレーの匙で掬い、木の葉形に形を整えて昆布を沈めた湯に次々と落とす。
 湯の中から浮き上がった物から順次掬い上げて、鶏のツミレの出来上がり。後は盛り付けるだけだった。

 蕎麦が茹で上がる迄に、丼にあらかじめツミレの茹で汁を注いで温めて置き、柚子の絞り汁を少々垂らして麺つゆで割り、蕎麦、鶏団子、刻み葱、柚子の皮を盛り付けて...、

「鶏柚子蕎麦の出来上がりっと...。ああ、良い香りだ...」
 元は某京風うどんのチェーン店の季節限定メニューを真似た物だった。
 もっとも、そこで使っていたのは鴨とうどんだったし、南瀬が自分の舌を頼りにそれっぽく仕上げただけなので原形を留めていないが。

「...頂きます」
 南瀬はその年最後の箸を取ったが、そのまま丼を持ち上げて柚子の香りを楽しんだ。
 日本は古くから多様な柑橘類を愛して来たが、柚子は特にその香り高さから風味付けに多用される。
 最近ではフランスで香水に使われたりするらしい。
 蜜柑と同じく血行促進、冷え症改善等の薬効があり、ビタミンも豊富なので、ビタミン不足で肌のカサつく真冬には誠に有難い果物だった。

 まずつゆを啜ると、柚子で少し酸味が利いていて、腹にじんわり染み渡るようだ。
 麺つゆにポン酢や梅干を利かすと、特にうどんとの相性が良い。
 だが蕎麦だと余り酸っぱくすると合わないので、若干控え目に柚子を搾ったが、どうやら上手くいった様だ。鶏の出汁も利いて実に美味い。
 続けて蕎麦を啜ると麺に絡んだ柚子の香りが口一杯に広がって、実に堪らない。
 更に鶏のツミレを頬張る。

「あっつ!ほっふっほっ...。鍋物つついてるみたいな気分だなぁ」
 実家では鰯のツミレが主流だったが、湯豆腐に次々と魚肉餡を煮てはポン酢で食べていた味を南瀬は思い出した。

「...ふう」
 じっくり味わい、かつ一気に平らげた南瀬は丼を置いて、白い湯気にけぶる柚子の香りのする吐息を吐いた。
 そこでふと南瀬は、自分の手からも柚子が薫る事に気が付いた。調理中に手に付いたのだろう。
「...柚子の搾りカスは湯船に浮かべて柚子湯にするかな」


 乾く手に、柚子のかほり、しみじみと。


 柄にも無く、そんな句が頭に浮かんだ南瀬だった。

 ともあれ。丁度除夜の鐘が鳴り終わる頃に...、
「...ご馳走様でした」
南瀬は箸を置いた。

ー完ー
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