派遣の美食

ラビ

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二十皿目-ラムレーズンのパウンドケーキ

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※本作はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには一切関係ありません。


 …彼女が『彼』を見い出したのは只の偶然だった。


 長い冬も、ようやく梅の花が綻び春の足音が聞こえて来た頃。
 いつの世も、出会いと別れは世の常。仮想の電脳世界に於いてもそれは例外では無かった。

Kinusaya-Godhand:じゃあ、後は任せるよ。悪いけど頼むよ、紳士さん。
Saint-German:お任せ下さい!この不詳サンジェルマン!新ギルドマスターの大任を、全身全霊を以て果たして見せますぞー!
Kinusaya-Godhand:お、お手柔らかにね。^^;
Kinusaya-Godhand:まあ、最近は紳士さんがあちこち気を配ってくれてたし、実質ギルマスみたいなものだったから。ホント助かったよ。
Saint-German:ギルマス殿も、リアルが忙しそうでしたから仕方ありますまい!
Kinusaya-Godhand:いや、紳士さんには本当に感謝してるよ。ガチ路線からグダついて来て、どんどん初期のギルメン達が抜けてく中で、ずっとギルドを支えてきてくれたでしょ?
Saint-German:ギルマス殿…!(´;ω;`)ぶわっ
Kinusaya-Godhand:w
Kinusaya-Godhand:復帰するかは未定だけど、いつかオフ会でも開いて紳士さんや先生とも呑めたら良いな。じゃあ、宜しくね!
『ギルドマスターKinusaya-Godhandより、ギルドマスター権限の移譲要請が入りました。承諾しますか?Yes/No』

 そんな心暖まるやり取りを、とある一室でモニター越しに見るその顔にはしかし、邪悪な笑みが浮かんでいた。

「くくく…。ついにこの時が来た…」
 そこへ部屋の外からノックが鳴らされた。しかし部屋の主は、眼の前のモニターに釘付けのまま、気付いた様子すらなかった。

「くっくっくっ…」
 そうこうする内、背後で何度かノックされ、ついには戸が開けられた。

「くはははは…」
「………おーい」
「はーっはっはっはーーっ!!遂に!我が世の春が来たーっ!!…あ痛っ!」
 突然脳天にチョップを受けて高笑いを止められた部屋の主は、椅子に掛けたまま振り向くと、背後から攻撃した侵入者に抗議した。

「…いきなり何をするんだい、暴力姉」
「いきなりじゃないわよ。何度呼んだと思ってんの、晩ご飯よ。ば、ん、ご、は、ん!」
「…おや?」
 部屋の主の容姿を一言で言えば、高校でクラス委員長をしていそうな少女。背中まで届く真っ直ぐな髪と眼鏡が、古風な文系という印象を強めている。…真顔に戻る直前の狂乱を見ていなければ、だが。
 その少女が振り向いた先で手刀を構えたまま眉間に皺を寄せて見下ろしているのは、清潔感のある短い髪の、活発そうな女性だった。
 何もかも対照的な二人だが、その容姿、特に、どちらもクセの無い上質の墨の様な黒髪を持っている事から姉妹とすぐに分かる。
 少女の名は如月円(きさらぎまどか)。どこにでもいる様な女子高生だった。
 女性の名は如月綾(きさらぎあや)。如月円の姉であり、どこにでもいる様な女子大生だった。

「全く…。独り部屋に籠ってそんなバカ笑いして。お母さんに聴かれたらどーすんの」
「元々この家防音高いし?もし聴かれても、テレビか姉だと納得して終わるよ」
「待てコラ」
「まどかー?あやー?ご飯よー?」
「「はーい」」
 階下からの声に応える姉妹の声が見事に重なった。声の質も似ているので、確かにドア越しであれば区別は難しいだろう。

「ほらほら。お母さんが呼んでるよ?」
「おのれ…。後で覚えてなさいよ」
 妹を睨みつつも、階下から微かに漂って来る食欲を誘う香りに屈したのか、早足で降りる。
「…この香りはもしや」
「そ、例の餃子。私も手伝ったんだから」
「あ。私急に具合が…クエッ」
「はいはい。良いから行くよ?お父さんも待ってるから」
 踵を返して部屋に戻ろうとした妹の襟首を素早く掴み、如月綾は颯爽と居間へと引きずって行くのだった…。


「はー。美味しかったね!」
「…確かに」
 夕飯と洗い物を済ませ、如月綾と円の姉妹は如月円の自室に戻り、小さな折り畳みのちゃぶ台を挟んでペットボトルのお茶で食後の一杯を楽しんでいた。
 この夜の如月家の夕飯は、姉妹で一緒に遊んでいるオンラインゲームで『ギルド』と呼ばれる同好会的な仲間の一人、アバターネーム『Takiji-Koba』から教わった餃子だった。

「…姉の事だから、『黒餃子』と言って黒焦げの炭を出されるかと思ったよ」
「もう…!それは先生にも止められたじゃない!」
 先日何故かギルドチャットで報告されたTakiji-Kobaの餃子は、皮に烏龍茶を練り込んだ物を自分で作ると言う創作料理だった。
 如月綾も早速同じ物を作ろうとしたが、Takiji-Koba本人と母親に止められた。
 曰く、今回のは飽くまで実験で、作った物は全て自分で責任を以て処分する前提だから問題無いが、人に食べさせるなら少しづつ練習しながら出来る範囲でやった方が良いと。
 レシピを写したメモを見せたら、母親にも同じ様な事を言われた。母親にしたら、ただでさえ娘のアレンジには嫌な思い出しか無いのに、その上わざわざ皮から仕込む手間を掛けさせられるのは面倒だろう。
 なので皮は市販の物を使い、普段の如月家は白菜多めにした『野菜餃子』なのを、大蒜等の薫物の無い、肉まん的な肉餡を詰めた『肉餃子』にするに留めたが、結果は好評だった。
 特に父親が営業職なので「平日から堂々と餃子を食べても匂わないなんて最高!」と、大喜びでビール片手に餃子を頬張っていた。

「少し皮が破けてたり、形の歪な餃子もあったけど。具…『肉餡』と言ったかな?本当にあれも姉が?」
「………」
 母親が食卓で、今夜の餃子は上の娘が作ったのだと楽しそうに語ると父親は泣きそうな位喜び、益々箸が進んだ。
 ただ、当の自慢の娘は無言で、しかし今と同じ様にわざとらしく視線を逸らしていたので、その妹は全てを察した。

「いや、私が肉餡を作ろうとしたら、お母さんが「作るのは次回にして、今回はちゃんと見て覚えるのよ?」って…」
「ま、妥当だね」
「む~……」
「先生も言ってたじゃないか。「最初から完璧に包みたいなら餃子包み器を買えば良い」と。それと同じだよ、姉は焦って高望みし過ぎだろう」
 妹の言葉は正論過ぎて如月綾は何も言い返せ無かった。
 弁の立つ妹には口ではかなわないので、話題を変えようと視線を泳がせると、不意に妹の肩越しにパソコンモニターが見えた。

「…忘れてたけど、さっきのバカ笑いはゲーム絡み?」
「ん?まあね」
 姉からのあからさまな話題の切り替えに苦笑しつつ、お茶で口を湿らせた。

「チャット上で一度に報告するつもりだったけどね?」
「うん」
「私、あのギルドのギルマスを引き継ぐ事になったから」
「ぷふぅごふっ!?」
 お茶を口に含んだ所で妹に爆弾発言をされた如月綾は、霧吹きの様にむせた。

「汚いなあ…。ここ私の部屋だよ?」
「ごめ…、だて…」
 ゲホゲホと咳の止まらない姉の背を、文句を言いつつもさすりながらタオルで飛沫を拭ってやる如月円。なんだかんだで本音を言い合える、仲の良い姉妹だった。

「な、何でまた…」
「前ギルマス、引退するんだそうだよ」
 このゲームでギルドを立ち上げる理由は大きくふたつに分かれる。
 ひとつは真剣にゲームの攻略だけを追求し、最難関イベントに定期的に挑めるだけの精鋭メンバーを揃える為の『固定ギルド』。
 もうひとつは単に社交場として身内でチャットを楽しむのが主目的の『社交ギルド』。
 社交場からもう一歩踏み込んで、攻略とは関係無しにユーザー同士で独自のイベントを企画するギルドもあるが、兎も角、如月姉妹が共有しているギルドは前者の『固定ギルド』として立ち上げた物だった。

「え?たまにイベントは一緒にやるけど、そこまでガツガツしてる感じじゃないよね?あそこ」
「そう。ギルマスが固定を維持出来なくなったからね」
 ギルマスのKinusaya-Godhandも元々は『廃人』と呼ばれる根っからのゲーマーで、ギルド設立当初はそれこそ寝る間も惜しんでイベント攻略に全力を傾けていた。
 しかし二十四時間ゲーム漬けの生活など、年金生活の独居老人でも無ければそうは長続きしない。
 Kinusaya-Godhandもリアルでは立派な社会人となり、重要なポストに着いて忙しくなり、また仕事の楽しさも覚えて来た。
 当然固定イベントを休む頻度は上がり、他の固定ギルドに移籍する者も増え、気が付けばただのおしゃべりギルドになっていた。でなければ如月円も、Takiji-Kobaや姉のSaya-Florence等のライトユーザーを招いたりはしなかったろう。

「で。この春の人事異動を機に、スッパリこのゲームを辞める事にしたんだそうだよ」
「へー、思い切ったねー。貴重なお宝装備とか山程持ってるだろうに」
「そんなのは数年もしたら、すぐパワーインフレでゴミになるよ。執着してもぬるま湯に浸かり続けるだけだから、自分の中で一区切りするのに必要な事だと言ってたよ」
「えらい!…いや、それは良いんだけど!」
「いや、絹さやご飯さんも、いつか復帰しないとも限らない様な事を言ってたし、出来ればそれ迄ギルドを維持したい物だよ」
「ホントだねー。…って、私が聞きたいのは!……え?」
「ん?」
「いや、誰ソレ?」
「前ギルマスのアバターネーム」
「…はいぃぃぃ!?」
「嫌だなぁ。いつもチャットで名前見てるじゃないか」
「だ、だって確か『絹さやゴッドハンド』さんって…」
「間違っては無いけど、それは日本語英語。『Godhand』を正しく発音すると『ゴッハン』に近い読み方になるので、そこに引っ掛けた洒落だよ。正しくは『絹さやゴッハン』さん」
「はへ~…って、わーかるかーい!」
 如月綾のちゃぶ台返し(のジェスチャー)に、妹はケラケラと笑う。

「まあ、普段は皆『ギルマスさん』と呼んでたしね。…さ。いい加減他のギルメンにも報告したいし、続きは自分の部屋からチャットしてくれるかい?」
「はいはい…。何聞こうとしたか忘れちゃったよ」
 ぼやきながらペットボトルを取って妹の部屋を出ようと立ち上がる如月綾。その時、キーボードの脇に置かれた妹のスマホが視界に入ったのだが、何となく違和感を覚えた。

(あれ?まどかのにあんなストラップ付いてたっけ?)
 いつものキャラ物のストラップ数本…美男子に擬人化した仏像だったか刀だったか。
 それと一緒に下がっている、キーリングを付けただけの無骨なストラップは見覚えの無い物だった。

(ま、いっか)
 とは言え、それだけと言えばそれだけの事なので、如月綾はそのまま部屋を出て、鼻歌混じりに隣りの自室へと去ったのだった。


「…油断したな。姉は妙にカンが働くから」
 口に出してから、先刻の失態を思い出して口を噤む如月円。
(適当にはぐらかして置いたが、同じギルドに招いてしまった以上、いずれ姉にはバレる気がするが…まあ良いか。よく考えれば『計画』に気付かれたとしても、その時の姉の反応が面倒なだけだし)
 ギルドチャットでは朗らかな変態紳士を演じてギルマス襲名の挨拶をしつつ、腹黒い思考を続ける少女。ネット上では皆仮面を被っている様な物だが、ここまで来ると女優並の演技力だった。
 文章だけとは言え、キャラ性を立てても大抵は直ぐに『地』が出たりぎこちなくなる物だが、如月円の演ずるSaint-Germanは如何にも円熟した大人の貫禄で、中身が女学生とは誰も予想だにしない。
 最も交流の長いKinusaya-Godhandすら、同世代か中年以上の男性と信じて疑わない程だった。
 まさか肩を並べて共に廃人級ゲーマーをやっていた親友が、出会った当初はまだ小学生の幼女だったと知ったら、顎を落とす程驚くだろう。

Takiji-Koba:ギルマス襲名おめでとうございます、紳士さん。絹さやご飯さんはもうアカウントを消してしまったのですか?
Saint-German:ありがとうございますぞ!はい。下手に挨拶して回ると決心が揺らぐので、ギルドメッセージに代えさせて貰うが申し訳ないと伝えて欲しいと伝言を頼まれておりますぞ!
Saya-Florence:そっかー。残念だね~。
Saint-German:いつかオフ会したいと申しておられましたし、その時は先生も来てくれると嬉しいと。無理強いはしませぬがw
Takiji-Koba:え?私もですか?

 『オフ会』とは、インターネット上のみの付き合いだった仲間同士で直に会って騒ぐ、本来の意味の『パーティー』の事だった。
 当然、素顔を晒す覚悟が無ければ出来ない。如月円も、この場では社交辞令のつもりだったが、ここで特大の爆弾が落とされた。

Saint-German:絹さやご飯殿も、先生の飯テロを楽しみにしておられましたからなw
Takiji-Koba:wじゃあ、都合が合いそうでしたらパウンドケーキでも焼いて行きますねw

 一瞬。チャットのタイムラインが停滞した後、騒然となった。

Muneo-House:り、リアル飯テローー!?
Isono-Infinity:ヤ、ヤベェ(゚ω゚;)身バレしてでも行きたくなった来た…。
Saya-Florence:えーっ!?先生ケーキも焼けるの?(;°ロ°)
Takiji-Koba:いや、簡単なのだけでw
Gutcha-Men:ケーキ!( ゚∀゚)o彡°ケーキ!( ゚∀゚)o彡°
Saint-German:懐かしいですなぁ。私が先生と初めてお会いした時も、ケーキを焼いておりましたな!
Takiji-Koba:そうでしたか?w

「…いつもの事だが先生、天然過ぎるだろう…。まさか本気でオフ会をやる羽目にならないだろうな」
 社交辞令だと信じたい…。胸中で焦りつつ、如月円は必死で話題を逸らそうと思い出話に花を咲かせたのだった…。


「ふむ」
 遡る事数年前、とある安アパートの一室で。
 一人の青年が、キッチンに置かれた大型オーブンレンジを満足気に眺めていた。
 青年の名は南瀬夏樹。現在ではフリー派遣を転々とする、今時どこにでもいる様な男だった。
 この頃はまだ正社員をドロップアウトする前で、まだ懐に余裕があった南瀬は、引越しを機に古くなったレンジ等を交換したのだった。
 職場は年中修羅場と言う有様だが、南瀬も幾つか趣味を持つ事で束の間ではあるが心の平穏を保っていた。…この時は辛うじて、だが。

 それは兎も角。

 元々実家でも簡単な料理はやっていたが、本格的に始めたのは独り暮らしを始めてからだった。
 自炊の必要に駆られてと言うのも切っ掛けではあったが、この頃は自己管理よりも楽しむ方を優先して手当り次第に料理を試作していたので、失敗も多かった。
 そこからの反省もあり、南瀬は本格調理が可能な多機能オーブンレンジを購入した物の、最初は扱いに慣れる事から始める事にした。

「先ずは粉物からかな…」
 インターネットで『オーブン料理』を色々調べたが、パンケーキ類だと安上がりで火加減等を覚えるのに丁度良く、多少失敗しても食べれなくは無いのが分かった。
 いきなり肉のロースト系では、失敗した時かなり無残な事になりそうだ。
 そこで取り出したのが耐熱ガラスのケーキ型。金の延べ棒でも作れそうな長方形で、金属製よりも使い勝手が良いので、後々まで愛用する事になるが、この時が初使用だった。
 作るのはパウンドケーキ。この時はデスクワーク中心なので、忙しい朝にすぐ摘める甘い物が欲しかった。
 今回は分かり易くラムレーズンパウンドにしようと、予め仕込んで置いたラムレーズンを新品の大型冷蔵庫から取り出した。
 作り方は、小鍋にお湯を沸かし、レーズン百グラムを放り込んで、再度お湯が沸いたら火を止めてしばし。
 ザルにレーズンを上げて、よく水気を切ったら小さめの器に移してラム酒二百ミリリットルに浸し、冷蔵庫で一晩寝かせて完成となる。
 練習に使うので、これでパウンドケーキ数斤分になる。一斤辺り二十五グラムから三十グラムで充分だろう。


 今からやるのは生地の仕込み。
使う分のラムレーズンをザルに上げて水気を切ったら、おろした長芋百グラム、卵二個、砂糖三十グラム、牛乳百ミリリットルとそしてホエー百ミリリットルを一緒に混ぜて、そこに小麦粉を百グラムさっくり混ぜたら、生地の出来上がり。
 普通は牛乳二百ミリリットルを使うが、先日生クリームから作ったバターの副産物の脱脂乳(ホエー)が余っていたので消費する事にした。

最後にケーキ型の内側に満遍なくバターを塗ってから生地を全部入れて、百八十度に余熱したオーブンで約四十分焼けば…、

「ラムレーズンのパウンドケーキの完成…いや、少し冷まさないと」
 ふっかりとしたパウンドケーキが膨らんで型からはみ出しかけている事から、ちゃんと焼けているとは思ったが念のため加熱が終わったオーブンレンジの中に型を戻し、余熱で芯まで火が通った後冷めるのを待つ事にした。
 その間、南瀬はブレーカーを気にして消していたパソコンを立ち上げ、暇つぶしにMMOで適当に遊び始めた。

 この頃の南瀬はギルドやパーティーを組まず、独りで素材採取をちまちまやっては装備や消耗品の生産をするばかりだった。
 それでも採取に集中していると、気が付けば結構な時間が立っていた。

「そろそろ良いかな」
 自分のアバターを草むらに放置し、南瀬はオーブンレンジの中のパウンドケーキの様子を見に離席した。
 冷蔵庫でしっかり冷ましてからでも良かったが、待ちきれなかった南瀬はまな板でケーキ型をひっくり返すと、バターのお陰で何の抵抗も無くスポンジ状のブロックが滑り落ちた。
 ノコギリの様なパン切りナイフで慎重に切ると、レーズンが底に溜まってたり、ラム酒等の水気でスポンジ状とカスタード状の二層になってはいたが、何とか芯まで焼けていた。

「後は練習あるのみだなあ…」
 早速味も見ようと、コーヒーを淹れてケーキとセットでパソコンデスク脇の卓へ運び、ゲーム音楽をBGMに優雅なおやつを始めた。

「いただきます」
 早速ケーキを口に運ぶと、市販のよりはしっとりしているが、ちゃんと『ケーキ』になっていた。砂糖は控え目なので、生地の自然な甘さがよくわかる。そこへラム酒の香りとレーズンのアクセントがたまらない。
 ショートケーキ等も美味いが、ああした贅沢な味わいはたまにで充分だと思っている南瀬には、こうした優しい味わいの方が毎日食べるのには苦にならないので丁度良かった。

「まあ、毎日焼けと言われたら困るが…あ、絡まれた」
 南瀬がフォークを置いてコーヒーの香りを楽しんでいると、パソコンの画面では棒立ちのままの自分のアバターが、周辺の敵モンスターに気付かれて殴られていた。

「もう逃げても力尽きそうだし『死に戻り』で良いか…お?」
 このゲームではHP(体力)が尽きると『死亡』のデバフが掛かった状態になる。当然アバターは動けず、何も出来なくなるので、『蘇生』の出来る支援ジョブに来て貰うか、予め登録した『セーフエリア』に転移しなければならない。
 親しい仲間もいない南瀬は迷わず後者を選んだ。どの道死亡すれば、蘇生出来てもデス・ペナルティとして一時的な全能力値の弱体デバフと、永続的な総取得経験値の減少によるレベル低下を負うが、どうとでもなると放置していた所に乱入者が現れた。

Saint-German:とうっ!!お怪我はありませんかな?そこの御仁!
Takiji-Koba:あ、大丈夫です。ありがとうございます…。

 勇ましい台詞と共に巨大な斧を携えて現れた偉丈夫は、敵モンスターに躍り掛ると瞬殺してしまった。
 生産職の装備では為す術も無かった所を救われた南瀬は、その『勇姿』に呆然と呟いた。

「ふ、フンドシ一丁の変質者…?」


Saya-Florence:って、その頃からあんなんだったの…。
Saint-German:HAHAHA!

 この時を切っ掛けにTakiji-Kobaと親しくなった如月円はある野心から、後に崩壊し始めたKinusaya-Godhandの固定ギルドを、徐々に社交ギルドに路線変更する様、密かに誘導し、Takiji-Kobaも招く事となる。

(今にして思えば、この時の出会いが『計画』の始まりだったのかも知れないな…)
 スマホを手に取り、ストラップの無骨なキーリングを弄りながら、如月円は想う。
 素顔を晒す気は毛頭ない。それは『計画』の崩壊を意味するのだから。 

 ともあれ。今日の所は...、
「…でも、いつかは先生の焼いたケーキが食べてみたいな」
如月円はスマホを置いた。
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