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私が渋木の家にやってきた季節―――冬がやってきて、カフェ『音の葉』にもいくつか変化があった。
春に入った望未ちゃんは体当たりで恋愛していた相手と結婚し、ドイツで暮らすことになり、新しいバイトを募集し始めた。
それから、定期的にミニコンサートも開くようになった。
そのおかげか、生演奏が聴けるカフェとしてお客様も増えて経営は順調。
私と知久はというと―――
「だからって俺との結婚式を延ばすなんてさ」
知久はコーヒーを飲みながら、私に絡んできた。
「仕方ないでしょ。望未ちゃんの代わりの人が入らないと休めないもの」
だいたい知久が悪い。
新婚旅行は一週間程度でいいと思うわ、と私が言ったのにバカンスは二週間必要だなんて言い出したから。
カフェを二週間も休めるわけがない。
というより、せっかくお客様が通ってくださっているのに二週間も休みたくないというのが、本音。
穂風は知久にアーモンドたっぷりのビスコッティを出してあげていた。
「残念だったね、知久君。けど、菱水音大には募集してあるから、そう遠くない話だと思うよ。それに知久君達のスケジュールに合わせると来年春しか、結婚式ができないって言ってなかった?」
「そうなんだよねー。俺も売れっ子だから」
目に見えて、落ち込む知久のことが可哀想になったのか、穂風は笑いながら試作品のチーズケーキを置いていった。
ビスコッティとチーズケーキが並ぶ。
「子供扱いかな……」
「文句を言うなら、私が食べるわよ」
穂風の親切を素直に受け取りなさいよ。
ディナータイムのテラス席に置いてあるキャンドルに火を灯し、私が戻って来ると知久は言った。
「でも、まあ、一緒に暮らしてるし? もう結婚してるようなものだよね?」
私の胸元に光るティアドロップのネックレスを眺め、微笑んだ。
服の下に隠れていたネックレスも今はこうして、身に着けることができる。
「そうね」
私達は焦る必要はない。
これから先、嫌というほど一緒にいて、こうして他愛ない話をしていられるのだから。
「お客様が来たみたいだよ」
穂風がドアを指さした。
店のドアが開く。
「知久、来てたのか」
「夕飯を作るのがめんどうで食べに来ました」
唯冬と千愛ちゃん、そしてその後ろからは仕事を終わらせたばかりの逢生君が入ってくる。
「あれー? 逢生。今日は一人?」
「女子会があるから、俺だけで夕飯食べてって言われた……」
「一人だと逢生はなにも食べないかもしれないから、一緒に連れてきた」
面倒見のいい唯冬は逢生君を一人にしておけなかったのだろうけど、これは好都合。
にっこりと私は微笑んだ。
「今日のディナーセットはタダでいいわよ。その代わり、順番に演奏していってね」
「姉さん……」
「チーズケーキもつけるよ」
「穂風さんのケーキ、美味しいんですよね」
千愛ちゃんがきらきらした目で穂風を見つめる。
それを見た唯冬はあっさり承諾した。
「わかった。弾こう」
我が弟ながら、奥さんになんて弱いの。
「夕飯を食べさせてくれるなら、なんでもいい」
逢生君は生活力の問題で知久の方は―――
「もちろん。俺は愛を語るように弾くよ」
小百里のためにねと、ウインク付き。
変わらない三人に思わず笑ってしまった。
三人が弾く曲はアヴェマリア。
この曲だけは外さない。
まったく性格も好みも違う三人なのに演奏だけはきちんと揃う。
お互いの癖がわかっているからか、重なる音が心地よい。
三人が弾くアヴェマリアは夕闇の中に響き、足を止めた。疲れた人々に一時の安らぎと休息を与える。
美しい音色の中、キャンドルに灯をともしていく。
曲が終わる頃、足を止めて聴きいっていた新しいお客様が店内に入って来る。
店のドアが開いて振り返った。
「いらっしゃいませ」
「すみません。バイトの募集を見てきたんですが、まだ募集していますか」
入ってきたのは男子大学生だった。
その後ろからは数人のお客様がやってきて、穂風が案内する。
「ええ。募集しているわ」
「ここでピアノ講師とピアノの演奏をさせてもらえると先生に勧められたんですが、できますか」
菱水音大の生徒らしく、ピアノが弾けるというのが、このバイトの魅力だと思ってくれて、来てくれたようだった。
練習室の予約をとるのに苦労したのを思い出してうなずいた。
長身で繊細そうな指。
あの指でどんな音を鳴らすのだろう。
「もちろんよ。名前は?」
「ピアノ科一年、桂正莉歌」
女の子みたいな名前に私達は彼を凝視した。
知久が気に入らない顔をしているから、男性で間違いないようだけど、知久は名前を聞いて目を細めた。
「桂正? もしかして、母親はオペラ歌手?」
「……まあ、そうです」
莉歌君は嫌そうな顔をしたけれど、知久は気にしない。
「うん、興味ある。ぜひ、弾いてみてほしいな」
「知久」
「小百里。きっと素敵な音だよ。楽しみだね」
楽しみにしているのは知久だけじゃない。
唯冬も逢生君も千愛ちゃんも彼を見ている。
カフェ『音の葉』は私の描いた夢のとおり音楽家が集まる店になった。
莉歌君はピアノの前に座り、物怖じせずに鍵盤を見下ろし、指を落とす。
彼の音色は澄んだ音。
冬の冷たい空気のようにピリピリしている。
「成長が楽しみだね」
知久が私の耳元で囁いた。
「ええ」
この店を始めてよかった。
ここで、私はたくさんの音を聴くことができる。
次はどんな物語が始まるのだろう。
ここから、また新しい音が奏でられていく。
私の大切な場所、カフェ『音の葉』で―――
【了】
春に入った望未ちゃんは体当たりで恋愛していた相手と結婚し、ドイツで暮らすことになり、新しいバイトを募集し始めた。
それから、定期的にミニコンサートも開くようになった。
そのおかげか、生演奏が聴けるカフェとしてお客様も増えて経営は順調。
私と知久はというと―――
「だからって俺との結婚式を延ばすなんてさ」
知久はコーヒーを飲みながら、私に絡んできた。
「仕方ないでしょ。望未ちゃんの代わりの人が入らないと休めないもの」
だいたい知久が悪い。
新婚旅行は一週間程度でいいと思うわ、と私が言ったのにバカンスは二週間必要だなんて言い出したから。
カフェを二週間も休めるわけがない。
というより、せっかくお客様が通ってくださっているのに二週間も休みたくないというのが、本音。
穂風は知久にアーモンドたっぷりのビスコッティを出してあげていた。
「残念だったね、知久君。けど、菱水音大には募集してあるから、そう遠くない話だと思うよ。それに知久君達のスケジュールに合わせると来年春しか、結婚式ができないって言ってなかった?」
「そうなんだよねー。俺も売れっ子だから」
目に見えて、落ち込む知久のことが可哀想になったのか、穂風は笑いながら試作品のチーズケーキを置いていった。
ビスコッティとチーズケーキが並ぶ。
「子供扱いかな……」
「文句を言うなら、私が食べるわよ」
穂風の親切を素直に受け取りなさいよ。
ディナータイムのテラス席に置いてあるキャンドルに火を灯し、私が戻って来ると知久は言った。
「でも、まあ、一緒に暮らしてるし? もう結婚してるようなものだよね?」
私の胸元に光るティアドロップのネックレスを眺め、微笑んだ。
服の下に隠れていたネックレスも今はこうして、身に着けることができる。
「そうね」
私達は焦る必要はない。
これから先、嫌というほど一緒にいて、こうして他愛ない話をしていられるのだから。
「お客様が来たみたいだよ」
穂風がドアを指さした。
店のドアが開く。
「知久、来てたのか」
「夕飯を作るのがめんどうで食べに来ました」
唯冬と千愛ちゃん、そしてその後ろからは仕事を終わらせたばかりの逢生君が入ってくる。
「あれー? 逢生。今日は一人?」
「女子会があるから、俺だけで夕飯食べてって言われた……」
「一人だと逢生はなにも食べないかもしれないから、一緒に連れてきた」
面倒見のいい唯冬は逢生君を一人にしておけなかったのだろうけど、これは好都合。
にっこりと私は微笑んだ。
「今日のディナーセットはタダでいいわよ。その代わり、順番に演奏していってね」
「姉さん……」
「チーズケーキもつけるよ」
「穂風さんのケーキ、美味しいんですよね」
千愛ちゃんがきらきらした目で穂風を見つめる。
それを見た唯冬はあっさり承諾した。
「わかった。弾こう」
我が弟ながら、奥さんになんて弱いの。
「夕飯を食べさせてくれるなら、なんでもいい」
逢生君は生活力の問題で知久の方は―――
「もちろん。俺は愛を語るように弾くよ」
小百里のためにねと、ウインク付き。
変わらない三人に思わず笑ってしまった。
三人が弾く曲はアヴェマリア。
この曲だけは外さない。
まったく性格も好みも違う三人なのに演奏だけはきちんと揃う。
お互いの癖がわかっているからか、重なる音が心地よい。
三人が弾くアヴェマリアは夕闇の中に響き、足を止めた。疲れた人々に一時の安らぎと休息を与える。
美しい音色の中、キャンドルに灯をともしていく。
曲が終わる頃、足を止めて聴きいっていた新しいお客様が店内に入って来る。
店のドアが開いて振り返った。
「いらっしゃいませ」
「すみません。バイトの募集を見てきたんですが、まだ募集していますか」
入ってきたのは男子大学生だった。
その後ろからは数人のお客様がやってきて、穂風が案内する。
「ええ。募集しているわ」
「ここでピアノ講師とピアノの演奏をさせてもらえると先生に勧められたんですが、できますか」
菱水音大の生徒らしく、ピアノが弾けるというのが、このバイトの魅力だと思ってくれて、来てくれたようだった。
練習室の予約をとるのに苦労したのを思い出してうなずいた。
長身で繊細そうな指。
あの指でどんな音を鳴らすのだろう。
「もちろんよ。名前は?」
「ピアノ科一年、桂正莉歌」
女の子みたいな名前に私達は彼を凝視した。
知久が気に入らない顔をしているから、男性で間違いないようだけど、知久は名前を聞いて目を細めた。
「桂正? もしかして、母親はオペラ歌手?」
「……まあ、そうです」
莉歌君は嫌そうな顔をしたけれど、知久は気にしない。
「うん、興味ある。ぜひ、弾いてみてほしいな」
「知久」
「小百里。きっと素敵な音だよ。楽しみだね」
楽しみにしているのは知久だけじゃない。
唯冬も逢生君も千愛ちゃんも彼を見ている。
カフェ『音の葉』は私の描いた夢のとおり音楽家が集まる店になった。
莉歌君はピアノの前に座り、物怖じせずに鍵盤を見下ろし、指を落とす。
彼の音色は澄んだ音。
冬の冷たい空気のようにピリピリしている。
「成長が楽しみだね」
知久が私の耳元で囁いた。
「ええ」
この店を始めてよかった。
ここで、私はたくさんの音を聴くことができる。
次はどんな物語が始まるのだろう。
ここから、また新しい音が奏でられていく。
私の大切な場所、カフェ『音の葉』で―――
【了】
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