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6 苛立ち
しおりを挟む結局、兄が会社にきたことで、すぐに辞めると言い出せずにずるずると一週間が過ぎてしまった。
辞めてしまえば、恭士お兄様は清永に嫌がらせをするかもしれない。
あの日、帰宅してからも恭士お兄様は清永には行くな、と言っていたし、まだ不満そうに出勤する私を見ている。
私のことを思ってのことだろうけれど、恭士お兄様の過保護ぶりには本当に困ってしまう。
でも、あれから惟月さんはちょっと優しくなった気がする。
気を利かせてくれているのか、閑井さんはコピーした書類の中で惟月さんに持っていくものは私に任せてくれるのだけど、また惟月さんと中井さんが二人でいるところに遭遇したら、どうしようと思っていた。
今のところは一度もないけれど。
専務の部屋のドアをノックすると、惟月さんがいた。
「午後からの会議資料をお持ちしました」
惟月さんは顔をあげて、こちらを見た。
「ありがとう」
「いいえ」
お礼を言われるだけで、十分で気を引き締めていないと顔が緩んでしまいそうになる。
「すぐ辞めると思っていた」
「え?」
「いや、意外と続いているなと思って」
惟月さんは笑顔では、ないものの以前よりずっと口調は柔らかい。
本当は私がいない方がいいのはわかっているし、そう望まれているのだろうけど。
「ご迷惑…ですよね。あの、もう少しだけいさせてください」
もう少しだけいて、落ち着いたら辞めるつもりだった。
それなのに惟月さんは優しい口調で言った。
「迷惑じゃない。海外事業部の閑井は嫌がらずに雑用をやってくれていて、助かっていると言っていた」
「まあ。そんなことをおっしゃっていたんですか」
よかった。
邪魔にはなっていないようだった。
「ああ」
惟月さんの表情が和らぎ、微笑みかけてくれたその時―――
「惟月」
専務室にノックもなく、中井さんが入ってきた。
惟月さんの顔が強張った。
「ごめんなさい。二人が楽しくおしゃべりをしているのを邪魔してしまって」
「あ、いえ。私はこれで失礼します」
ドアを閉める時、惟月さんの低い声がした。
「名前で呼ぶな」
「いいじゃない」
笑う声が背中から追ってきていたのを聞きたくなくて、大急ぎでドアを閉めて、完全に遮断した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「高辻さんのお弁当、いつも美味しそうね」
最近では海外事業部のお弁当組が一緒にお弁当を食べるようになっていた。
話しかけにくいと思われていたけれど、閑井さんとまったりお茶を飲んでいる所を見ているうちに親しみやすいと思われたようで、徐々に閑井さんだけでなく、他の方達とも一緒にお茶を飲んだり、お菓子を頂いたりするようになり、それをきっかけに話すようになって、今では気軽に話しかけてきてくれていた。
「お弁当は家政婦さんの静代さんが作ってくれているんです。でも、今日の鮭の香草焼きは私が作ったんですよ」
「えー、美味しそう」
「お一つどうぞ」
「うわー、おしゃれな味!」
「お料理教室で教えていただいたんですよ。パン粉にバジルと粉チーズを混ぜるだけで簡単にできますから」
「おいしーい」
「そうですか?嬉しいです」
習い事を頑張っておいて、よかったと思った。
「じゃあ、お礼にこれ」
「のど飴ですか」
「そう、ハチミツ生姜よ。喉によさそうでしょ」
「本当ですね」
外で食事をしていた人達が早めに帰ってきた。
「早いわね」
「本当ね」
お弁当組は片付け始めていると、帰ってきたばかりの中井さんがツカツカと早足でこっちにやってきて言った。
「高辻さん、これ午後からお願い」
「あ、はい!わかりました!」
資料を作ればいいらしく、他の皆ものぞきこみ、見ていた。
「中井さん、これ量が多くないですか?」
「これくらいできるでしょ」
「じゃあ、私の午後からの仕事はもう急ぎじゃないのばかりだから、コピーしたのをわけるわ」
中井さんは目を細めて、手伝いを申し出てくれた人を睨みつけた。
「これは高辻さんの仕事よ」
お弁当組は驚き、顔を見合わせた。
「できないなら、もうこないくていいわよ。雑用なんて誰でもできるから」
中井さんはそう言って、去っていった。
他のみんなは気まずそうにしていたけれど、私は明るく言った。
「私なら、大丈夫です。だいぶ、なれましたから」
私が中井さんの立場なら、いてほしくないに決まっている。
早く諦めてしまわないといけないと思っているのに惟月さんと話すことができるようになったせいか、なかなか、断ち切れずにいた―――
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