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34 その先へ

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サティのジムノペディ。
この曲を弾いていると心が落ち着く。
今日、唯冬ゆいとがコンクールを聴きにくると言っていた。
だから、きっと私を見つけてくれる。
この曲を聴いたなら、私だとすぐにわかってくれるはずだと信じていた。
暗闇は昔のような真っ黒で私の心すら塗りつぶしてしまうような墨色の闇ではない。
微かな光があった。
ドアの前が騒がしく感じて、ふっと顔をドアのほうへと向けた。

千愛ちさ

その声は私の一番好きな音。
鍵盤から指を離し、ドアに駆け寄った。

「唯冬!」

その声が聴こえ、ガチャガチャとドアに鍵が差し込まれた音がする。
明るい光が暗い部屋に差し込んで目を細めた。

「よかった……!」

唯冬は泣きそうな顔をして、私に手を伸ばすと抱き締めた。

「感動しているところ悪いけど、控え室へ行って、準備を早くしたほうがいいよ」

「気持ちを落ち着けないとね」

なぜか知久ともひささんと逢生あおさんまでいた。

「あ、あの……」

肩越しに二人を見ると笑っていた。
唯冬はハッとして体を離し、息を吐く。

「応援にきたいって言うから、しかたなく連れてきた」

「忙しいのにありがとうございます」

「いいよー!今、いいものみれたし。感情的な唯冬とかなかなかみれないよ。いつもクールな俺ってかんじだしさ」

「珍しいね」

「うるさい。客席にいけよ」

二人は笑いながら手を振っていなくなった。
唯冬は控え室まで私を連れていき、髪を直し。服のほこりをはらってくれた。
倉庫にいたせいで、ほこりっぽい。

「許せないな」

唯冬の怒りを含んだ声を耳にして、そっとその手を握った。

「唯冬。もういいの。虹亜こあになにもしないで」

「俺がやったことをきいたのか」

「詳しくは知らないわ。でも私がやらせたことだって思ったみたい」

「俺が勝手にやったことだ」

「私の両親にも?」

「そうだ」

指輪をした手に指を絡めると険しい顔がわずかにゆるんだ。
大きな手。
長くて繊細な指。
この手はそんなことをするための手じゃない。

「もうなにもしないで。唯冬がいるだけでじゅうぶんなの」

他にはなにも望まない。
あなたが私の音を聴きたいと望んだから、私は今ここにいる。

「唯冬。私が演奏するのを聴いて。私がいい演奏をする。それが一番の仕返しでしょ?」

「強いな、千愛は」

「唯冬と一緒にいるから強いの」

絶対に助けてくれる誰かがいるからこそ強くなれる。

雪元ゆきもとさん、そろそろ舞台袖にお願いします」

「はい」

返事をする私に唯冬は手を伸ばした。

「それじゃあ、魔法を」

「悪い魔法使いね」

砂糖菓子を口にいれた私の唇をふさいだ。
キスが甘い―――目を細め、何度もキスをして離れた。

「客席で聴いてる」

「ええ」

一緒に控え室を出て、私は舞台へと向かう。
唯冬は客席へ。
舞台袖へ行く前の通路に隈井くまい先生が立っていた。

「ご心配おかけしました」

「渋木がいれば、私のアドバイスはいらないな」

隈井先生は笑う。
私の高校時代の時にはなかった優しい微笑み。
いつも私を見るときは気難しい顔をしていた。

「……帰りたい場所が見つかってよかった」

「はい」

隈井先生は私を心配していたのだ。
昔も今も。
『心配いらない』
それが最大の激励だろう。
手を振って、客席の方へと向かっていった。
昔よりその背中は年老いて見えたけど、足取りはしっかりしていてまだまだ現役。
その背中に会釈し、舞台へと向かう。
舞台袖には深紅のドレスを着た虹亜がいる。
まさか閉じ込めたはずの私がここにやってくるとは思いもしなかったのだろう。
私の姿を見て動揺していた。 

「どうやって出てきたの!」

声を張り上げた虹亜に周囲の視線が集まる。

「静かにしてください」

スタッフが近寄って注意すると虹亜はスタッフの手を振り払うように椅子から立ち上がった。
その瞬間、ちゃりんと金属音が床に響く。
しまった!という顔をして虹亜は床を見る。
それを運営スタッフがすばやく拾った。

「これは倉庫の鍵では?」

私を閉じ込めて安心したかったのか、虹亜はその鍵をずっと持っていたのだろう。
私がピアノの部屋の鍵を持っていたのと同じ。
青ざめた顔で虹亜はうつむいていた。

「落ちていたのを拾って届けようとしたのよね。虹亜?」

「お姉ちゃん……」

泣きそうな顔をしているのは演技じゃない。
いつも両親に怒られている私を見て育った虹亜はあんな顔をよくしていた。
仲良くはできないけれど、理解することはできる。

「私の演奏の番ですよね。案内をお願いします」

運営スタッフの人は気づいているのか、難しい顔をしていた。
けれど、私がなにも言わなければ、誰が閉じ込めたかはわからない。

「虹亜。お互い頑張りましょう」

それだけ言って私は虹亜に背を向けた。
私が目指すのはここじゃない。
舞台を見た。
そこにはスタインウェイのグランドピアノが置かれている。

「雪元千愛さん。曲はリストよりラ・カンパネラ」

明るい光がピアノを照らしてキラキラとしていた。
両親が客席にいて、先生もいる。
あのコンクールのと同じ。
唯冬と目があった。
私は微笑み、お辞儀する。
そして、顔をあげた。
ピアノの鍵盤を指で撫でた。
唯冬の癖。
いつの間にか私も同じようなしぐさをするようになっていた。
私の音はもう一つではない。
この舞台の上にいても一緒にいてくれる。
今、ここに私の音を大切なあなたに捧げる。
これは始まりを告げる鐘の音。 
二人で歩む未来への最初の音。
もう私の中から音が消え去ることはない。
私とあなたの二つの音があるかぎり―――



【了】
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