俺と合体した魔王の娘が残念すぎる

めらめら

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第6章 分離魔法〈ディバイドマジカ〉

奇妙な男

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「ああもう。休みでもないのに、すごいみようだなあ……」
 ウェイトレス姿の姫川ナナオが、広場の人ごみをかきわけ進みながら小さくため息をついた。

 まだ木曜日の昼下がりだというのに、御珠中央公園の野外広場はすごい人だかりだ。
 平日からこの分だと、土曜日曜はいったいどうなってしまうのだろう……?
 圧勝軒の出店の忙しさも、とんでもないことになりそうだ。

 ナナオは両手の荷物・・をしっかり抱きかかえながら、行きかう人たちにぶつからないよう気をつけて、ある場所を目指していた。
 ナナオが持っているのは、出店の支払いカウンターにお客の誰かが置き忘れた革張のショルダーポーチだった。
 
 お客さんの忘れ物。
 普段の圧勝軒だったらその日一杯は店に取り置いて、連絡か本人が取りに来るのを待ってみたりもする。

 でも今日は事情が違う。
 イベント会場の出店での忘れ物だ。

 バタバタする中でどこかに失くしかねないし、あとから変なクレームが来ても困る。
 高級そうなブランド物のポーチだし、中に財布が入っているかもしれない。

 そんなわけで、叔父である店主から届け物をするように言いつかったナナオ。
 接客と厨房の手伝いはアルバイトのチャラオ1人に任せて、イベントの運営事務所まで落とし物としてポーチを届けに行くところだった。

「チャラオさん。1人で大丈夫かなあ……」
 ナナオはバイトの顔を思い浮かべて、心配そうに眉を寄せる。
 叔父の圧勝軒に頭を下げて、弟子入り志願してきたのがつい昨日のことだ。
 
 いきなりのイベント。
 あまりの忙しさと叔父の厳しさに、音を上げて逃げ出したりしていないだろうか?
 
「はやく……はやく戻らないと……!」
 大事なバイトに辞められると、ナナオも色々困る。

 さっさと用を済ませて店に戻らないと。
 ナナオが人ごみの合間をぬいながら足を速めた、その時だった。

「「「おおおおおおおおーーーー!!!!」」」
 右手の方から、大きなどよめき・・・・が聞こえて来た。

「ん……なに……?」
 気になったナナオは、声のする方を向いた。
 ナナオの向いた視線の先にあったのは……

 圧勝軒と同じく、ラーメンフェスタに出張してきた出店の一軒。
 その店先に構えられた特設テーブル、そしてそれを取り囲むようにして集まった人だかりだった。

「2杯目『大豚クアトロアブラマシマシ』完食したぞ!」
「信じられん。2杯目食いきった挑戦者チャレンジャー、初めて見た……!」
 テーブルを囲んだ見物客たちが、興奮した顔でそんな言葉を交わしている。
 その見物客の合間から見えるのは……

「あ、あれは……!?」
 特設席の上の異様な光景にナナオは息を飲みこんだ。

 どうやらステージで行われているのは、ラーメンの大食いチャレンジみたいだった。
 テーブルには、洗面器ほどもある巨大なラーメン丼が2つ並んでいるのだ。

「あ……そういえばこの店は……!」
 ナナオは左手で自分の口を押えた。
 ラーメンショーの目玉・・の一店の名前。
 そしてその店の主催するイベントの内容を思い出したのだ。

 『とん三郎』。
 御珠地区でも随一の行列店が挑戦者を募ったラーメン食べきり勝負。
 制限時間30分以内に、店が指定する3杯のラーメンを全て食べきったら賞金10万円。
 たしか、そんな売り文句だったはずだ。

 でも……!
 ナナオは全身が総毛立つ。

 あの店・・・のラーメンを1時間で3杯、しかも『オプション』は店側が自由に指定できるなんて……!
 どんな大食い自慢がやってきたとしても。
 ウサギがライオンに戦いを挑むようなものだ。
 それくらい『とん三郎』のラーメンのボリュームと豚と野菜と脂の量は、常軌を逸していたのだ。

 その『とん三郎』のラーメン……2杯目を……食べきった!?
 ナナオは驚愕の表情で、もう1度マジマジとテーブル席を見つめた。

 空になった2杯のドンブリを見下ろして。
 やかんからコップに注いだお冷を、悠然と飲み干す男がいた。

 遠目から見てもハッキリわかる、たくましい体つき。
 筋骨隆々とした肉体を、真っ黒な革製のロングコートがおおっていた。
 男の背中まで伸びた輝くような銀色の長髪を、秋の風が涼やかになびかせていく。

 そして……

「3杯目。頼むよ……」
 男が右手を上げた。
 静かだが、どこか凄みを感じさせる野太い声で。
 男がテーブルの脇の店員にそう合図をした。

「「「おおおおおおおおーーーー!!!!」」」
 見物客が、ふたたび一斉にどよめいた。

「3杯目! いよいよ出てくるぞ、ステージⅢ『全部マシマシマッターホルン』が……!」
 見物客の1人が震える声でボソリと呟いた。

「まさか……ここから3杯目! しかも『魔の山マッターホルン』……!?」
 大橋アナの言葉を耳にして、ナナオは愕然としてそう呟いた。
 ナナオの首すじを、冷たい汗が伝っていた。
 もうテーブルの男の様子から、ナナオは目が離せなかった。

 御珠地区でも最強の爆盛り店『とん三郎』が主催するラーメン食べきり勝負。
 その、1杯食べると寿命が3日縮むと言われている『とん三郎』のラーメンを、オプション付きでもうすでに2杯まで……
 野外広場特設ステージの上に座ったその男・・・は、食べきってしまったというのだ!

「あの人、いったい……?」
 ナナオは人ごみの間から目を凝らして、ステージの男を見つめる。
 とにかくタダモノではない感じだ。
 大食いのプロ……フードファイターかなにかだろうか?

 でも……
 いくらあの人が凄くても。
 ここから先は……地獄だ!
 実家の仕事がら、近所のラーメンのことはひと通り知っているナナオも肩を震わせた。

 『全部マシマシマッターホルン』。
 爆盛りを売りとする『とん三郎』のラーメンの中でも、最凶災難関とされるオプション。

 そのメニューでしか使われることにない、給餌用バケツみたいな特注ドンブリ。
 溢れんばかりの麺とスープを覆い隠して円錐状にそびえ立ったキャベツとモヤシ。
 洗面器みたいな口径のどんぶり全体を、エリマキ状に覆ったブロック状の豚肉塊チャーシューブロック
 野菜の頂上をキラキラした冠雪みたいに覆ったニンニクとアブラ

 1杯目ならまだしも、3杯目でこれを……
 無理に決まっている!

「へい、3杯目お待ち……!」
 そして、まさに魔の山マッターホルンの名に違わぬ異形の1杯が、男の目の前まで運ばれて来た。

「いただきます……」
 見物客の全員がドキドキしながら見守る中、男が最後の1杯に箸をつけた。
 うず高く積もった野菜のふもとに箸をさし、麺を啜り上げようとするが……!

「あ……ダメ!」
「むむ……!」
 ナナオは思わず叫んだ。

 男も異変に気づいて、用心深くドンブリから箸を引く。
 富士山のように円錐形に盛り上がったキャベツとモヤシがバランスを崩して、ドンブリからこぼれ落ちそうになったのだ。

 『マッターホルン』の麺とスープに辿りつくには、まずドンブリにそびえた、大量の野菜を片付けなければならない。
 無理やり麺から食べようとすると、さっきみたいに野菜のバランスを崩してしまう。
 この店のチャレンジメニューは、ドンブリから中身をこぼしたらその場で失格。
 そういう規定レギュレーションだった。

 だが、ゆっくり野菜を食べている余裕などない。
 そんなことをしていれば、どんどん麺はスープを吸い量を増す。

「どうする、もう時間が無いぞ……」
「あと5分切ったぜ!?」
 見物客の間にそんな声が飛び交う。

 もう、男に後はなかった。
 時間切れで失格は、もう確実。
 誰もがそう思った、だがその時だった。

 ス……。
 男が再び。
 静かな手つきでドンブリのフチに箸をつけた。

「まさか……でも!?」
 男のしようとしていることに気づいて、ナナオは息を飲んだ。

「『天地返し』……無茶だ!」
 見物客の1人がかすれた声で呟く。

 『天地返し』は、ドンブリに沈んだ麺を野菜の上に引き上げることによって、両方をバランスよく同時に食べることができる爆盛ラーメンにおける基本テクニックの1つだった。

 だがこの状態では……
 キャベツとモヤシがまだ富士山の状態で、そんな技を使ったら……
 富士山が、爆発してしまう!

 崩れゆく魔の山をまざまざと思い浮かべてナナオが目を覆った、その時だった。

「ぬううんっ!」
 気合と同時に。
 男の握った箸が、ドンブリのヘリで螺旋スパイラルを描いた!

「あっ!?」
「おおおおおおおおおおおおっ!!!」
 ナナオは思わず驚きの声を上げる。
 見物客たちも一斉にどよめいた。

 男の箸さばきに誘われるように。
 極太麺と野菜と豚が、空中で竜巻トルネードの様に踊っていた。
 そのラーメンの螺旋スパイラルに箸が接近すると……

 ズゾゾッ! ズゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾ……ッッッッ!!!!

 男の箸が凄まじい勢いで麺を、豚を、野菜を男の口元に運んでいく。
 ドンブリから空中に舞い上がったラーメンが、見る見る内に男の口の中へと消えていくのだ!

「すごい! なんて綺麗な食べっぷり!」
 男のラーメンさばきを、ナナオはウットリとした表情で見つめる。
 こんなに見事に……なによりも美味そうに・・・・・ラーメンを食べる姿を初めて見た。

「これは……『天地返し』どころじゃない……『天地創造』だ……!」
 ナナオが、そう感嘆の声を漏らすのとほぼ同時に。
 男は、3杯目の『魔の山マッターホルン』を綺麗にたいらげていた。

「うおおおお!」
「すげえ完食! 初めて見た」
 わきたつ見物客たちの声につつまれて、男もまた満足そうな顔で箸を置いた。
 だがその時だった。

「すごい! すごいねーお客さん!」
 出店の厨房の方から、そう大声を上げながら、男の方に近づいてくる者がいた。
 デップリと太った白髪まじりの中年男。

「あの人は……」
 見たことのある顔に、ナナオは思わず声を上げる。
 『とん三郎』店主、豚乃川サブローその人だ。

「フウ……美味かったよご主人……」
「うちのラーメン3杯いけたの、お客さんが初めてだよ! でも残念だったね、きっかり1分オーバー!」
 男が額の汗を拭いながら、豚乃川店主に笑いかける。
 右手のストップウォッチを確認しながら、店主はいかにも残念そうな顏で男を見上げた。

「あと1分……」
 店主の言葉に、ナナオは溜息をついた。
 30分完食まで、あと1分遅かったらしい。
 あのラーメンを3杯食べただけでも奇跡みたいなものなのだから、仕方がないことかもしれない。

「うん、時間……?」
 店主の言葉に、男が不思議そうに首をかしげた。

「まあいいや。ごっそさん、勘定たのむぜ」
「……あえ?」
 悔しがる風でもなく、涼しい顔で男は自分の懐に手をやった。
 店主も、ナナオも、その場にいた全員が拍子抜けした声を漏らした。
 男は最初から、時間など気にしてもいなかったらしい。

「ええ、じゃあ挑戦チャレンジ料、3500円です……」
 男の声にのまれるように、店主が小さい声で値段を言った。

 いや、ひょっとして……
 ナナオを息を飲む。
 そもそも、あの3杯が『チャレンジメニュー』であることすら、男は気にしていなかったのではないか?
 ただ存分に、好きなラーメンを味わいたい。それだけの理由で……
 最初から、勝負・・などしていなかったのではないか……!?
 ナナオの頭を、そんなとんでもない予感がかすめた、その時だった。

「……ちょっと、困るよお客さん! ウチは、そういうの、受け付けてないんだから」
「うん……? そうか、このあたり・・・・・はコレじゃないのか……」
 豚乃川店主の怒りの声が、あたりに響いた。
 店主の声に、男は不思議そうに首をかしげている。

「なんだ?」
 ナナオは、男の手元に目をこらした。
 
 その男が豚乃川店主を怒らせたのは、どうやら支払いの方法だった。
 どこかの国の古銭で、勘定しようとしているらしい。

 男が店主に手渡そうとしていたのは、何か人の横顔だけがうっすらと判別できるだけの、すり減った銅貨だった。
 形もイビツで完全な円形とは言いがたい。
 いったい、いつの時代のものなのだろう?

「わかった、わかった。このあたりの路銀は、えーと確か、ここに……」
「だから、そういうのはやってないって!」
 男が次にとった行動に、店主は再び怒りの声を上げた。

 男があらためてポケットから取り出したのは、今度はもう少しまともに鋳造されたらしい円形の貨幣だった。
 だがこれもナナオが見慣れた日本円とは、ほど遠いものだった。

 男が彼に手渡したのは、鷲と王冠の刻印が施された何枚もの銀色の硬貨。
 これも外国のものだろうか。

「こっちのお金、持ってないんだ!?」
 ナナオは呆れた顔で、見物客の合間から銀髪をなびかせた男を眺める。

「仕方ないなあ、コレ・・なら何処でも使えるんだろう?」
「いいかげんにしろ! 無銭飲食で警察呼ぶぞ!」
 男はブツブツそう呟きながら、再びコートのポケットに手をやった。
 だが店主の堪忍袋は、もう限界らしい。

「ちょ、ちょっと待ってください!」
 見かねたナナオが、見物客をおしのけて店主と男の間に割って入った。

「こ、ここは僕が立て替えますから。この人、外国の人みたいだし……」
「お嬢ちゃんが? 仕方ないな……いいのかい。じゃ、3500円ね……!」
 ナナオの申し出に、店主がため息をつきながらチャレンジ料金を告げた。

「フウ……」
 ナナオもため息をついて、自分のポーチから札入れを取り出した。
 男の食いっぷりに見とれていただけなのに、なぜか気がついたらこうなっていた……。

  #

「まったくもう。こっちのお金も持たずに、あんな場所に……日本語はそんなに上手なのに?」
「すまなかったな、お嬢ちゃん。すっかり手間かけさせて……」
 『とん三郎』の店先から離れて歩き出しながら、銀髪の男がナナオに礼を言った。

 ナナオは改めて男を見上げる。
 銀色に輝いた蓬髪。
 精悍な面構え。
 その顏に刻まれてるのは……いく筋もの爪痕や……刀創!?

 スジ者……とも違うようだし。
 調教師やスタントマンか何かだろうか?
 前にテレビで、そういう仕事を見たことがある。

「いえ、今度から、気をつけてくださいね。外国から来られたんですか?」
「いやまあ、そんなところさ。このあたりは初めてじゃないんだが、久しぶりだったんでな。ちょいとこの辺りで探し物・・・をしてたんだが、小腹が減っちまってさ……」
 男が広場を見回しながら、少し恥ずかしそうにそう呟いた。
 いま、男が両手に広げて横にしたり逆さにしたりしながら眺めまわしているのは……
 セピア色をして、ところどころ破れかけた……大きな、紙製の地図・・だった。

 地図・・……それもこんなに大きな、紙で出来た……!
 ナナオは呆れて男を見上げる。
 こんなもの、歴史の教科書か図書館の資料室でしか見たことがなかった。
 こんなものを、実際に・・・使っている人がいたなんて。
 スマホとかタブレットとか、持っていないのだろうか?

「お嬢ちゃん……」
 ナナオが唖然としていると、男は真剣な顔つきで再びナナオを見た。

「さっきはありがとな。払ったお代は、こいつで足りるかな?」
「いえ、いいんです大丈夫ですって、そんな……!」
 そして自分の懐に手を入れて、何かを探し始める
 ナナオはあせって男を止める。

 男の気持ちは嬉しい。
 けどさっきみたいにすり減った銅貨みたいなモノを貰っても……
 何というか、困る。

「いや、受け取ってくれ。こいつならきっと、この世界でも……」
「…………! ぁあ!」
 男はナナオにそう答えながら、懐の中を探り続ける。

 でもその時には。
 男の声は、もうナナオの耳には届いていなかった。

 ドオンッ!
 
「うおわっ!」
 ビリビリと腹まで響いてくるような轟音。
 と同時に、ナナオの足元がグラッと揺れた。
 悲鳴を上げて、ナナオはよろめく。

「なんだ……?」
「地震……!?」
 あたりの人々も異常に気づく。
 みんなが一斉に、不安そうににあたりを見回した。
 何かが叩きつけるような不気味な音。
 まだ揺れている地面。
 
 立て続けに。

 ドオンッ!
 ドオンッ!
 ドオンッ!

 轟音と共に、さっきよりも更に強く地面が揺れた。

「…………!」
 ナナオは恐怖のあまり、思わずその場に座り込んでしまう。

「うわあああっ!」
「やばい! やばい!」
「落ち着いて、落ち着いて……」
 人々の混乱にも、一気に火が付いた。

 あたりに悲鳴が響く。
 浮足立って、出店のそばから開けた場所に駆けだす人たち。
 
「地震……! 叔父さん……みんなと……連絡……!」
 ナナオは、震える足でどうにかその場から立ち上がった。
 叔父の出店まで戻らなければ。

 無事を確認して、バイトのチャラオも家に帰して……
 それと、みんなのことも心配でたまらない。
 まだ公園にいるはずのソーマ、ユナ、そしてコウ……!

 グラグラ揺れる地面に必死で自分を支えながら、ナナオはあたりを見回した。
 その時だった。

「……ああっ!?」
 ナナオは息を飲んだ。
 視線の先で起きている恐ろしい出来事に、全身が総毛だった。

 ギギギギギ……
 ナナオの立つ場所の10メートルほど先。
 野外広場のちょうど中央に建っている公園のモニュメント。
 海を泳ぐクジラを模した、全長3メートルを超えるそのモニュメントの台座が、地震でひび割れ崩れ落ちようとしていた。
 大きなクジラの石像が広場の地面に向かって倒れようとしている。

「わああッ!」
「離れて! 離れて!」
 近くにいた人々が一斉にその場から逃げ去っていく中……

 ダッ!

 突然ナナオは、倒れてゆく石像の方角に全力で駆け出していた!

「ママ……ママ……!」
 ナナオは聞いたのだ。
 崩れてゆくモニュメントのすぐそばから、助けを呼ぶ子供の声を。
 ナナオは見たのだ。
 親からはぐれたのか、倒れる石像の真下。
 まだ3歳か、4歳か。
 逃げ遅れその場に座り込んだまま動けない、小さな男の子の姿を!

 その瞬間、ナナオは走っていた。
 考えるより先に身体が動いていた。
 石像の下に飛び込んだナナオが、幼児を抱きすくめる。

 このまま、倒れる石像の向こうまで飛べるだろうか。
 いや、間に合わない。
 ナナオのすぐ頭上にクジラの像が迫る。
 もう駄目か! 全身で幼児をかばいながら、ナナオは目を閉じた。

 だが、その時だった!
 ビュンッ!

 風を切る音がした。
 あ、何かの気配に気づいて顔を上げたナナオの傍らに、黒い影がそそり立っていた。

 次の瞬間、ドガン!
 轟音と共に、凄まじい風圧と衝撃がナナオの体を叩いた。

「あ、あ!」
 ナナオは呆然として影を見上げる。
 さっきまで、大きな石像があったはずの虚空を見つめる。
 ナナオたちに向かって落ちて来るはずの石像は、バラバラに砕けて地面に散らばっていた。

 ナナオが抱きすくめた男の子は火が付いたように鳴いているが、まったくの無傷だった。
 ナナオ自身にも、痛みや怪我はなかった。
 地面の揺れは、もうおさまっていた。

「あ、あなたが……!」
 ナナオは驚愕の面持ちで、幼児と自分を救った影の正体を見上げた。

 いったいどんな動きをしたのだろう。
 ナナオのすぐ傍に飛び込んで、振り上げた右拳で石像を叩き砕いていたのは、黒いロングコートをまとった銀髪の男。
 ナナオが『とん三郎』の店先で手助けした、あの男だったのだ。

 そして、あたりに散った石の破片が金色の光に包まれていった。
 男の砕いた石像が、さらに微細な光の粒になって消えていく!

「魔法……!?」
 ナナオは呆然とそう呟いて、男の顔を見上げるが……

「やれやれ、せっかちなお嬢ちゃんだな、無謀にも程がある……だが、立派だったぜ!」
 刀傷の刻まれた精悍な顔が、あきれた様子でナナオを見下ろしていた。
 ゴツゴツとした大きな手がフワリとナナオの頭をなでた。

「話の途中だろ? これがさっきの礼だ。持っててくれよ……」
 そう言って、ようやく目当てのモノを探り出したのだろう。
 男は懐から取り出した何かを、ナナオの首にかける。

「これは……!」
 ナナオは再び息を飲んだ。

 これは本物だろうか。
 小粒のダイヤモンドに、サファイア、エメラルド、ルビー……。
 いまナナオの胸元に輝いているのは、何種類もの煌びやかな宝石をあしらった、優美な黄金のネックレスだった。

「じゃあな、世話になったな、お嬢ちゃん……」
「まって、まってください!」
 事もなげにその場から立ち去ろうとする男を、ショックでまだ立ち上がれないナナオは必死で引き留めた。

「ありがとうございます。あの、名前を……せめてお名前を……!」
「うん? ああ、おいらは……」
 呼び止めるナナオを振り向いて、男がそう答えかけた、その時だった。

「ん……?」
 クン……クン……クン……。
 男が、けげんそうに太い眉を寄せた。
 まわりを見回しながら、しきりにあたりの匂いをかいでいた。

「いたか、あいつら。やっと見つけた、こんなところに……!」
 自分に言い聞かせるように小さくそう呟くと、男の表情が一瞬で厳しくなった。

「じゃ、またなお嬢ちゃん!」
「ちょ……まっ!」
 何か急ぎの用でもあるのだろうか。
 男はヒラリと身を翻すと、そのままナナオの前から人ごみの向こうに姿を消した。

  #

「タスク! タスク! ごめんなさいタスク!」
 ナナオの横で火が付いたように泣き続ける男の子を、駆けつけた母親が抱きすくめていた。

「ありがろうごいざいます! 本当になんとお礼をいっていいか!」
 そう言って、ナナオに向かって何度も何度も頭を下げる若い母親の声。
 だがその声も、今のナナオには何処か遠くから聞こえるようだ。

 ナナオは高鳴る胸を押える。
 全身がカッカと熱い。
 銀色の蓬髪と精悍な顔立ち、ナナオの頭をなでたゴツゴツした掌の感触。
 胸元のネックレスをボーッと眺めながら、ナナオはかすれた声を漏らしていた。

 いったい、あの人は……いったい……!

  #

 同じ頃。

「うあああああああっ!」
 ソーマは悲鳴を上げていた。
 
 轟音を立てて。
 地面を揺らし。
 とつぜん森の中に現れたソレ・・の力に捕らわれて。
 ソーマは身動きがとれない。

 ルシオン……!
 ソーマは声にならない声をあげて、すぐ目の前に倒れた少女の体に手を伸ばした。
 
 目の前で、苦しげな声で呻いている。
 ルシオン・ゼクトの体に向かって。



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