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蠢
ー舌は異物を覚えるー
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朝の光は港町の家々の瓦を湿らせ、
潮と藻の重い匂いが路地に溜まっている。
目覚めると、昨日から頭の奥で蠢いていた渇きが、
身体の芯まで染み渡っていた。
「ぞくり」──その名を脳裏で転がすたび、舌が勝手に唾液を溜めていく。
私は、老婆の露店を探して町をさまよった。
昨日と同じ場所には、露店はなく、あの赤い肉袋も、
老婆の皺だらけの手も見当たらない。
石畳の露地、朝市の残り香、どこかから漂う焼魚の煙。
歩くほどに、全身の細胞が『ぞくり』だけを欲しがる。
顔も知らない人々にまで尋ねた。
「昨日ここにあった露店、ご存知ですか?」
誰もが首を横に振り、あるいは目をそらした。
異国の言葉を聞かされたような、
無関心の壁に跳ね返されるたび、焦りが胸をかき乱す。
何度も通った石段の先、振り返った町並みは、
潮風と共に遠のいていくようで現実感が薄れる。
足は重く、喉は乾き、靴下の中の汗が気持ち悪い。
それでも止まれない。
心の奥で、『ぞくり』を口にしたときの痺れと甘みが、
皮膚の下を這い回っている気がするからだ。
もう諦めようか──
足を止めたとき、不意に視界の端に“靄の向こう”に赤いものがちらついた。
濃い霧の奥、港の外れに、昨日のままの老婆の露店がぽつんと佇んでいる。
「え?さっき見た時は無かったのに...」
どうしてそこにあるのか、道筋の記憶は曖昧なのに、
身体が勝手に吸い寄せられていく。
老婆は何も言わず、じっと私を待っていた。
「ください。たくさん。昨日の、『ぞくり』を……」
声が震える。
老婆は例の赤い肉袋を持ち上げると、
手早く十個分の小瓶に詰めて並べた。
その仕草を見ているだけで、
胃の奥が痛くなるほどの飢えが広がる。
礼もそこそこに、私は小瓶を抱えて旅館へ戻った。
途中、坂道の家々の窓から誰かがこちらを見ているような気がして振り返る。
顔の見えない視線が、背中にぬめるようにまとわりついて離れなかった。
女中が夕食を運びに部屋へ来た。
「今日はご飯だけでいいです」と伝えると、
女中は小さく目を見開き、盆を置く手が一瞬止まった。
10個の「ぞくり」の小瓶をテーブルに並べ終えると、
女中はお櫃を置きながら、
不思議な笑みを浮かべて私の顔を覗き込んだ。
「ふふ……お客様、もう戻れませんよ」
言葉の響きが、畳の目に染み入るように重く沈んだ。
ご飯の上に「ぞくり」をひと匙ずつ乗せる。
最初は白飯の熱に粒が溶けて、
紫がかった汁がゆっくり染み出していく。
その一粒を口に運んだ瞬間、全身が歓喜で打ち震えた。
舌の裏に電流が走り、視界が波立つ。
咀嚼も飲み込むことも忘れて、
ただ「ぞくり」を舐め、啜り、指に付いた汁まで吸い取る。
瓶が空になるたび、衣服の袖や襟にまで汁が跳ねる。
それも惜しくて、服の端を咥えて吸う。
気がつくと、箸も茶碗も放り出し、夢中で衣服を脱ぎ捨てていた。
全裸のまま、身体にはねた粒や汁を1粒1滴残さず、最後まで貪る。
ご飯粒も一つ残さず舐め取り、舌と唇と喉が「もっと」と叫ぶ。
畳を汚している実感はあるのに、恥じらいも理性もどこか遠くに消えていく。
10個目の瓶を舐め尽くし、
全身を「ぞくり」の粒と汁でべたべたにしながら、
私は畳に仰向けに倒れ込んだ。
満たされているはずなのに、
どこか虚ろで、身体の奥がざわざわと痒い。
舌の裏に爪で引っかくような違和感、
腹部には波のような鼓動が伝わってくる。
息を吸うたび、港町の腐った魚と藻の匂いが鼻に突き刺さる。
ふらふらと立ち上がり、洗面所の鏡を覗き込む。
口の中、舌の裏側に、紫色の斑点が浮かび上がっていた。
「これって何……?口内炎?」
声に出そうとしたが、喉奥が乾いてうまく声が出ない。
ただ、強烈な睡魔が頭を叩きつける。
畳に倒れ込みながら、視界が暗くなっていく。
眠りに沈む寸前、耳の奥で誰かが低く笑う声がした。
夢を見た。
自分の舌が自分の喉奥へ、腹へ、どこまでも深く潜っていく。
港町の人々が一斉に私の方を振り返り、
全員が異様に赤い舌をだらりと垂らして笑っている。
あの老婆も、口を裂けるほどに開けて笑みを浮かべ
長い舌を波のように揺らしていた。
目が覚めると、体が痺れて動かない。
舌先の感覚が麻痺し、喉がざらつき、粘膜が泡立つような不快感。
身を起こし、取材用のレコーダーを再生してみる。
流れてくる自分の声が、どこか遠くの知らない誰かの声のように聞こえた。
「……こいつ誰?誰の声?」
私は自分自身を確かめるように、何度も録音を聞き返した。
自分が自分でないような、体の中にもう一人誰かがいるような恐怖。
昨夜の記憶も輪郭があいまいで、頭の奥に“ざわめき”が残っている。
舌の裏の感覚はまだ麻痺したまま、全身が微熱に浮かされている。
私は逃げるように部屋を飛び出した。
私の中の理性が「逃げろ!早く!」と追い立てる。
とにかくこのままではおかしくなる。
「ぞくり」を食べたから?
「ぞくり」って何なの?
異常な眠気、舌の痺れ、録音された自分の声が他人のものに聞こえる…
まるで誰かに身体を乗っ取られそうな不安。
それが、昨夜から町全体に蔓延していた重い湿度や、
人々の無表情な視線と繋がっている気がしてならなかった。
帰りたい、と強く思った。
それは自己防衛反応から出た感情なのか。
昨日までの私なら、“仕事を全うすること”だけが最優先だったはずなのに、
今はただ、“ここから出て、自分を取り戻したい”という不安しかなかった。
記憶も声も、味覚すらも曖昧で、自分という輪郭が溶けていく。
まるで町全体が私を見張り、呑み込もうとしている。
必死に港へ向かった。
けれど、船着き場がどこにも見当たらない。
いくつもあるはずの道が次々と行き止まりに変わり、
気がつけば同じ曲がり角に戻ってくる。
迷路のような路地、かもめの鳴き声、波の音。
町の家々の窓からは、相変わらず見えない誰かの視線がつきまとってくる。
出口を求めて歩き続けても、町の中に吸い寄せられ、閉じ込められていく。
どこにも出口がない。町そのものが、私を呑み込もうとしている気がした。
私はその場で立ち尽くし、逃げ場のない恐怖に包まれた。
潮と藻の重い匂いが路地に溜まっている。
目覚めると、昨日から頭の奥で蠢いていた渇きが、
身体の芯まで染み渡っていた。
「ぞくり」──その名を脳裏で転がすたび、舌が勝手に唾液を溜めていく。
私は、老婆の露店を探して町をさまよった。
昨日と同じ場所には、露店はなく、あの赤い肉袋も、
老婆の皺だらけの手も見当たらない。
石畳の露地、朝市の残り香、どこかから漂う焼魚の煙。
歩くほどに、全身の細胞が『ぞくり』だけを欲しがる。
顔も知らない人々にまで尋ねた。
「昨日ここにあった露店、ご存知ですか?」
誰もが首を横に振り、あるいは目をそらした。
異国の言葉を聞かされたような、
無関心の壁に跳ね返されるたび、焦りが胸をかき乱す。
何度も通った石段の先、振り返った町並みは、
潮風と共に遠のいていくようで現実感が薄れる。
足は重く、喉は乾き、靴下の中の汗が気持ち悪い。
それでも止まれない。
心の奥で、『ぞくり』を口にしたときの痺れと甘みが、
皮膚の下を這い回っている気がするからだ。
もう諦めようか──
足を止めたとき、不意に視界の端に“靄の向こう”に赤いものがちらついた。
濃い霧の奥、港の外れに、昨日のままの老婆の露店がぽつんと佇んでいる。
「え?さっき見た時は無かったのに...」
どうしてそこにあるのか、道筋の記憶は曖昧なのに、
身体が勝手に吸い寄せられていく。
老婆は何も言わず、じっと私を待っていた。
「ください。たくさん。昨日の、『ぞくり』を……」
声が震える。
老婆は例の赤い肉袋を持ち上げると、
手早く十個分の小瓶に詰めて並べた。
その仕草を見ているだけで、
胃の奥が痛くなるほどの飢えが広がる。
礼もそこそこに、私は小瓶を抱えて旅館へ戻った。
途中、坂道の家々の窓から誰かがこちらを見ているような気がして振り返る。
顔の見えない視線が、背中にぬめるようにまとわりついて離れなかった。
女中が夕食を運びに部屋へ来た。
「今日はご飯だけでいいです」と伝えると、
女中は小さく目を見開き、盆を置く手が一瞬止まった。
10個の「ぞくり」の小瓶をテーブルに並べ終えると、
女中はお櫃を置きながら、
不思議な笑みを浮かべて私の顔を覗き込んだ。
「ふふ……お客様、もう戻れませんよ」
言葉の響きが、畳の目に染み入るように重く沈んだ。
ご飯の上に「ぞくり」をひと匙ずつ乗せる。
最初は白飯の熱に粒が溶けて、
紫がかった汁がゆっくり染み出していく。
その一粒を口に運んだ瞬間、全身が歓喜で打ち震えた。
舌の裏に電流が走り、視界が波立つ。
咀嚼も飲み込むことも忘れて、
ただ「ぞくり」を舐め、啜り、指に付いた汁まで吸い取る。
瓶が空になるたび、衣服の袖や襟にまで汁が跳ねる。
それも惜しくて、服の端を咥えて吸う。
気がつくと、箸も茶碗も放り出し、夢中で衣服を脱ぎ捨てていた。
全裸のまま、身体にはねた粒や汁を1粒1滴残さず、最後まで貪る。
ご飯粒も一つ残さず舐め取り、舌と唇と喉が「もっと」と叫ぶ。
畳を汚している実感はあるのに、恥じらいも理性もどこか遠くに消えていく。
10個目の瓶を舐め尽くし、
全身を「ぞくり」の粒と汁でべたべたにしながら、
私は畳に仰向けに倒れ込んだ。
満たされているはずなのに、
どこか虚ろで、身体の奥がざわざわと痒い。
舌の裏に爪で引っかくような違和感、
腹部には波のような鼓動が伝わってくる。
息を吸うたび、港町の腐った魚と藻の匂いが鼻に突き刺さる。
ふらふらと立ち上がり、洗面所の鏡を覗き込む。
口の中、舌の裏側に、紫色の斑点が浮かび上がっていた。
「これって何……?口内炎?」
声に出そうとしたが、喉奥が乾いてうまく声が出ない。
ただ、強烈な睡魔が頭を叩きつける。
畳に倒れ込みながら、視界が暗くなっていく。
眠りに沈む寸前、耳の奥で誰かが低く笑う声がした。
夢を見た。
自分の舌が自分の喉奥へ、腹へ、どこまでも深く潜っていく。
港町の人々が一斉に私の方を振り返り、
全員が異様に赤い舌をだらりと垂らして笑っている。
あの老婆も、口を裂けるほどに開けて笑みを浮かべ
長い舌を波のように揺らしていた。
目が覚めると、体が痺れて動かない。
舌先の感覚が麻痺し、喉がざらつき、粘膜が泡立つような不快感。
身を起こし、取材用のレコーダーを再生してみる。
流れてくる自分の声が、どこか遠くの知らない誰かの声のように聞こえた。
「……こいつ誰?誰の声?」
私は自分自身を確かめるように、何度も録音を聞き返した。
自分が自分でないような、体の中にもう一人誰かがいるような恐怖。
昨夜の記憶も輪郭があいまいで、頭の奥に“ざわめき”が残っている。
舌の裏の感覚はまだ麻痺したまま、全身が微熱に浮かされている。
私は逃げるように部屋を飛び出した。
私の中の理性が「逃げろ!早く!」と追い立てる。
とにかくこのままではおかしくなる。
「ぞくり」を食べたから?
「ぞくり」って何なの?
異常な眠気、舌の痺れ、録音された自分の声が他人のものに聞こえる…
まるで誰かに身体を乗っ取られそうな不安。
それが、昨夜から町全体に蔓延していた重い湿度や、
人々の無表情な視線と繋がっている気がしてならなかった。
帰りたい、と強く思った。
それは自己防衛反応から出た感情なのか。
昨日までの私なら、“仕事を全うすること”だけが最優先だったはずなのに、
今はただ、“ここから出て、自分を取り戻したい”という不安しかなかった。
記憶も声も、味覚すらも曖昧で、自分という輪郭が溶けていく。
まるで町全体が私を見張り、呑み込もうとしている。
必死に港へ向かった。
けれど、船着き場がどこにも見当たらない。
いくつもあるはずの道が次々と行き止まりに変わり、
気がつけば同じ曲がり角に戻ってくる。
迷路のような路地、かもめの鳴き声、波の音。
町の家々の窓からは、相変わらず見えない誰かの視線がつきまとってくる。
出口を求めて歩き続けても、町の中に吸い寄せられ、閉じ込められていく。
どこにも出口がない。町そのものが、私を呑み込もうとしている気がした。
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