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裂
ー舌は体内を這い回るー
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帰りたい。帰りたい。帰りたい。
けれど足が、身体が、もう自分のものではない気がする。
港町の空気はいつしか濃い靄に包まれ、
石畳には腐った魚と藻の臭い、
波の音は遠ざかり、まるで全てが水の底で反響しているみたいだ。
「旅館に戻ろう」そう思って歩き出したはずなのに、
見慣れたはずの坂も路地も消え、
私はどこに泊まっていたのかも思い出せない。
女将の顔も部屋の匂いも全部、靄の向こうにぼやけていく。
そのくせ、喉の奥から
「ぞくりを食べたい」「ぞくりをちょうだい」と、
他人事のような声が繰り返し漏れる。
家に帰りたい、
東京に帰りたい、
母の顔を思い出そうとするたび、
渇望と恐怖が喉を詰まらせる。
「おばあさん、どこ?旅館どこ?ここはどこ?私は……」
自分が自分でなくなっていくような焦燥に駆られ、
港のはずれの漁港で気が狂いそうになる。
外なのに、誰もいない。
だけど、家々の窓、軒の影、
曲がり角から見え隠れする何者かの視線。
町の全てが私の異常を見て、笑っている気がした。
不安と渇望、逃げたい気持ちと
「ぞくり」にすがりたい衝動が、
ぐるぐると頭の中を回る。
地面に落ちていた魚の残骸をつかみ、口に運ぼうとする。
「いや!これは、違う。違う、ぞくりじゃない!」
身体の奥から激しい拒絶と欲望がせめぎ合い、
涙も鼻水も涎も、何もかも止まらない。
ふと腕や脚を見る。
そこに赤い発疹が広がっている。
無意識に掻き毟る。
血と汗と脂と、剥がれた薄皮が爪の間に詰まり、
皮膚の下で何かが蠢いている感触。
舌の裏や口内の斑点はさらに増え、
唾液に血が混じる。
目の奥が熱く、顔は腫れぼったく、
鼻の奥から止まらない鼻血が伝う。
目尻に涙が溜まり、
頬を伝う感覚が現実と夢のように遠くなる。
ふいに胃の奥に電流が走り、
猛烈な吐き気とともに膝をつく。
咳き込む。
その度に喉の奥から黒い粒や糸のようなものが
混じった血の塊が吐瀉物と一緒に溢れ落ちる。
指でそれを拭っても、吐いても吐いてもきりがない。
手鏡を再び見る。
唇の端に赤い裂け目が走るのを感じ、
顔のあちこちで皮膚がピリピリと赤い亀裂が走っている。
吐き気に加え掻痒感が一気に起こる。
皮膚表面の痒みだけでなく、
胃や腸、子宮や膀胱、臍や食道……
身体の内側、つまりあらゆる内臓の激しい痒み。
そして焼けるように熱い。
「痒い!痒い!痒い!痒い!」
どうすることも出来ない内臓の痒み。
少しでもその掻痒感に抗うために
何度も身体を抱えて地面に転がり、
喉に手を突っ込み、
必死に服の上から身体を掻き毟る。
気付けばボタンが千切れ、シャツも下着も破れ、
いつの間にか全裸になり
石畳を転げまわる。
そこには羞恥も理性も崩壊し、
頭の中は
「掻きたい、掻きだしたい!全部、全部外に出したい」
という意識で支配される。
痒みはやがて激痛へ変わり、
全身がつんざくような苦しみに変わる。
身体中の毛穴がじわじわと開き、
そこから冷たい風と一緒に“何か”が這い出そうとする。
「やめて、もうやめて……」
叫び続けても、誰も助けてくれない。
町の家々の窓が赤く光り、
意識の中に老婆の嗄れた声や女中のくぐもった囁きが
潮風に混ざって耳にまとわりつく。
「食べられてる。食べられてる。溶けている」
見えない住人たちの舌なめずりや笑い声が四方八方から響き、
私はどんどん「食べられる側」に追い詰められていく。
鼻、口、耳、目、臍、膣、肛門、尿道……
全ての“穴”が、内側からぞわぞわとうごめき、
じわじわと開いていく。
舌の下や口腔の奥に白い脚のようなものが
うごめいているのが分かる。
痛みと痒み、羞恥と絶望、全てが渦を巻き、
叫びながらもがき続ける。
町の全てが私の破滅を見届けている。
自分が自分でなくなっていく。
私の体はどんどん「外」に向かって開き始めている。
「誰か、助けて」叫びたいのに、声が出ない。
口の奥、舌の裏、耳の奥、目の裏、膣の奥、肛門の奥――
そこから今にも蠢くものが溢れ出しそうな感覚が高まっていく。
それでも私は、なお「もっと『ぞくり』を食べたい」と舌の裏がうずく。
「全部終わらせたい」
「もう一度、『ぞくり』を……」
意識が遠のく中、
快楽と恐怖と絶望の濁流に流され、地面に這いつくばり、
涙も汗も血も、「ぞくり」のぬめりも、
全てが自分の体から流れ出していくのを感じていた。
気がつけば、港町の空はいつのまにか赤黒い薄明かりに変わり、
どこかで鐘の音が響いた。
家々の窓だけでなく、
漁網や浮き玉、
傾いた灯台の窓までもが目玉のように私を見下ろしている。
カモメの鳴き声すら変質し、
遠くから「美味しいよ」「舌ざわりは人それぞれ」と囁く老婆や女中、
旅館の男たちの声が繰り返し波のように押し寄せてくる。
裸の身体に朝の潮風がまとわりつき、
全身の毛穴にひやりと沁みるたび、
「ぞくり」が皮膚の下で動く感触が強まる。
私は自分の手で自分の体をかきむしり、
指先が血と膿でべたつくのも気にならない。
ただ「苦しい」「やめて」「助けて」と内心で泣き叫ぶしかできず、
その声さえ自分のものではない気がする。
どこまで歩いても道は終わり、
曲がり角の先も、海岸線も、すべてが私を呑み込むように閉じていく。
振り返っても、進んでも、いつの間にか同じ石畳に立っている。
私の足はもう「私」ではなく、「ぞくり」に導かれ、
町そのものに引きずられている気がする。
私は消えたいのに、消えられない。
気配、視線、音、匂い、空気の全てが自分の中に流れ込んできて、
やがて私と町の境界がどこにもなくなっていく。
この町のどこかに、まだ私を見ている誰かがいる気がする。
見えない住人の息づかい、ざわめき、遠くから笑う老婆の舌の赤さ――
それだけが、最後まで消えなかった。
けれど足が、身体が、もう自分のものではない気がする。
港町の空気はいつしか濃い靄に包まれ、
石畳には腐った魚と藻の臭い、
波の音は遠ざかり、まるで全てが水の底で反響しているみたいだ。
「旅館に戻ろう」そう思って歩き出したはずなのに、
見慣れたはずの坂も路地も消え、
私はどこに泊まっていたのかも思い出せない。
女将の顔も部屋の匂いも全部、靄の向こうにぼやけていく。
そのくせ、喉の奥から
「ぞくりを食べたい」「ぞくりをちょうだい」と、
他人事のような声が繰り返し漏れる。
家に帰りたい、
東京に帰りたい、
母の顔を思い出そうとするたび、
渇望と恐怖が喉を詰まらせる。
「おばあさん、どこ?旅館どこ?ここはどこ?私は……」
自分が自分でなくなっていくような焦燥に駆られ、
港のはずれの漁港で気が狂いそうになる。
外なのに、誰もいない。
だけど、家々の窓、軒の影、
曲がり角から見え隠れする何者かの視線。
町の全てが私の異常を見て、笑っている気がした。
不安と渇望、逃げたい気持ちと
「ぞくり」にすがりたい衝動が、
ぐるぐると頭の中を回る。
地面に落ちていた魚の残骸をつかみ、口に運ぼうとする。
「いや!これは、違う。違う、ぞくりじゃない!」
身体の奥から激しい拒絶と欲望がせめぎ合い、
涙も鼻水も涎も、何もかも止まらない。
ふと腕や脚を見る。
そこに赤い発疹が広がっている。
無意識に掻き毟る。
血と汗と脂と、剥がれた薄皮が爪の間に詰まり、
皮膚の下で何かが蠢いている感触。
舌の裏や口内の斑点はさらに増え、
唾液に血が混じる。
目の奥が熱く、顔は腫れぼったく、
鼻の奥から止まらない鼻血が伝う。
目尻に涙が溜まり、
頬を伝う感覚が現実と夢のように遠くなる。
ふいに胃の奥に電流が走り、
猛烈な吐き気とともに膝をつく。
咳き込む。
その度に喉の奥から黒い粒や糸のようなものが
混じった血の塊が吐瀉物と一緒に溢れ落ちる。
指でそれを拭っても、吐いても吐いてもきりがない。
手鏡を再び見る。
唇の端に赤い裂け目が走るのを感じ、
顔のあちこちで皮膚がピリピリと赤い亀裂が走っている。
吐き気に加え掻痒感が一気に起こる。
皮膚表面の痒みだけでなく、
胃や腸、子宮や膀胱、臍や食道……
身体の内側、つまりあらゆる内臓の激しい痒み。
そして焼けるように熱い。
「痒い!痒い!痒い!痒い!」
どうすることも出来ない内臓の痒み。
少しでもその掻痒感に抗うために
何度も身体を抱えて地面に転がり、
喉に手を突っ込み、
必死に服の上から身体を掻き毟る。
気付けばボタンが千切れ、シャツも下着も破れ、
いつの間にか全裸になり
石畳を転げまわる。
そこには羞恥も理性も崩壊し、
頭の中は
「掻きたい、掻きだしたい!全部、全部外に出したい」
という意識で支配される。
痒みはやがて激痛へ変わり、
全身がつんざくような苦しみに変わる。
身体中の毛穴がじわじわと開き、
そこから冷たい風と一緒に“何か”が這い出そうとする。
「やめて、もうやめて……」
叫び続けても、誰も助けてくれない。
町の家々の窓が赤く光り、
意識の中に老婆の嗄れた声や女中のくぐもった囁きが
潮風に混ざって耳にまとわりつく。
「食べられてる。食べられてる。溶けている」
見えない住人たちの舌なめずりや笑い声が四方八方から響き、
私はどんどん「食べられる側」に追い詰められていく。
鼻、口、耳、目、臍、膣、肛門、尿道……
全ての“穴”が、内側からぞわぞわとうごめき、
じわじわと開いていく。
舌の下や口腔の奥に白い脚のようなものが
うごめいているのが分かる。
痛みと痒み、羞恥と絶望、全てが渦を巻き、
叫びながらもがき続ける。
町の全てが私の破滅を見届けている。
自分が自分でなくなっていく。
私の体はどんどん「外」に向かって開き始めている。
「誰か、助けて」叫びたいのに、声が出ない。
口の奥、舌の裏、耳の奥、目の裏、膣の奥、肛門の奥――
そこから今にも蠢くものが溢れ出しそうな感覚が高まっていく。
それでも私は、なお「もっと『ぞくり』を食べたい」と舌の裏がうずく。
「全部終わらせたい」
「もう一度、『ぞくり』を……」
意識が遠のく中、
快楽と恐怖と絶望の濁流に流され、地面に這いつくばり、
涙も汗も血も、「ぞくり」のぬめりも、
全てが自分の体から流れ出していくのを感じていた。
気がつけば、港町の空はいつのまにか赤黒い薄明かりに変わり、
どこかで鐘の音が響いた。
家々の窓だけでなく、
漁網や浮き玉、
傾いた灯台の窓までもが目玉のように私を見下ろしている。
カモメの鳴き声すら変質し、
遠くから「美味しいよ」「舌ざわりは人それぞれ」と囁く老婆や女中、
旅館の男たちの声が繰り返し波のように押し寄せてくる。
裸の身体に朝の潮風がまとわりつき、
全身の毛穴にひやりと沁みるたび、
「ぞくり」が皮膚の下で動く感触が強まる。
私は自分の手で自分の体をかきむしり、
指先が血と膿でべたつくのも気にならない。
ただ「苦しい」「やめて」「助けて」と内心で泣き叫ぶしかできず、
その声さえ自分のものではない気がする。
どこまで歩いても道は終わり、
曲がり角の先も、海岸線も、すべてが私を呑み込むように閉じていく。
振り返っても、進んでも、いつの間にか同じ石畳に立っている。
私の足はもう「私」ではなく、「ぞくり」に導かれ、
町そのものに引きずられている気がする。
私は消えたいのに、消えられない。
気配、視線、音、匂い、空気の全てが自分の中に流れ込んできて、
やがて私と町の境界がどこにもなくなっていく。
この町のどこかに、まだ私を見ている誰かがいる気がする。
見えない住人の息づかい、ざわめき、遠くから笑う老婆の舌の赤さ――
それだけが、最後まで消えなかった。
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